Liber.5 月影に坐す女
5-1 ✦ 魔導書庫にて火花散る
竜なんて初めて見た。何しろとっくに絶滅したと聞いている。
恐らく唯一の生き残りであろうそいつは、本の挿絵で見るような優美さなど欠片も持ち合わせておらず、暗黒と狂気を練り上げたような凄惨な容貌をしていた。
巨体に似合わぬ甲高い声で鳴きながら、黒竜は大小二対の翼を震わせる。背後に広がる閑静な旧市街とはそぐわない異様だ。
彼方に赤黒い煙が見える。方角からして、恐らく出元は〈アーミラリ天球儀〉を保管していた警察署。
異次元世界からの旅を終えた窃盗犯が、多数の監視を力尽くで突破してきた、といったところか。
――改めて状況を俯瞰しよう。
目の前には、翼と尾を抜いても体長十メートル近い漆黒の竜を従えた、暗色の衣の男。
対するこちらは一般的な
「助けに来たよ、〈
狂人めいた微笑を浮かべ、男は手にしていた杖を振り上げた。
「――リオ、避けて!」
女が叫ぶ。彼女は〈書庫番〉ジリアン・クレヴァリー。
「隠れてろ、ジル!」
警察官も吠えた。彼はレナード・シンクレア巡査。
ジルとは幼馴染みにして、今は恋人の座を手に入れたばかり。
暗衣の男――オーガスタス・ペイジは窃盗犯だ。
博物館から古代魔法具を盗み、策略によってジルに異次元の扉を開かせた。そして異界から竜と禁忌の魔杖を得て、たった今帰ってきたところである。
この『魔導書庫の街』ヘレディタスに。
リオはペイジに向かって走りながら発砲した。自身の魔力から構成された弾丸が、雨あられとペイジへ降り注ぐ。
そこへ立ち塞がるは漆黒の壁。見上げるほどの巨躯、ざらつく棘鱗に覆われた竜の表皮に弾かれて、魔弾は容易く砕け散った。
こちらの攻撃が弱いというより、単純に向こうが堅すぎる。
闇色の獣は嘲笑うように喧しく鳴いた。咆哮に空気が激しく震えて、痛いほどだ。
竜に庇われたペイジはもごもごと詠唱した。文言は竜の叫声に掻き消えて聞き取れない。
杖の先端から噴出した光弾は大人が両腕を広げたほどに大きく、毒々しい鮮赤色で、内から煮え滾るようにぬらぬらと輝いていた。
ペイジが杖を振るうと、炎玉がリオたちに投擲される――厳密には二人の背後にそびえ立つ、巌のような建築物へ。
轟音が響き、頑強な建材に惨たらしい亀裂が走る。それでも防護魔法が働いているのか、一撃では壊れなかった。
しかしそれもいつまで保つか。この魔導書庫が立てられたのは何世紀も前で、こと魔術的な部分においては、すでに手入れがなされなくなって久しい。
激しい揺れの中、リオは衝撃に吹き飛ばされながらもジルを庇う。二人の上には細かな破片が降ってきたが、幸か不幸か、眼前の竜の巨体は彼らにとっても防壁になった。
「ッ……ジル、大丈夫か」
「うん、リオは?」
「まだ余裕。……つっても、あんなん相手じゃどうしようもねえけど……手はあるんだよな?」
リオの問いにジルが頷く。彼女が抱えている鞄の中身は、書庫から持ち出した一冊の魔導書だ。
詳細はこれから話し合う予定だったから、何をどうするのかはリオも知らない。生憎その暇は取れなさそうだ。
眼下に転がる小さな人間たちなど、竜にはいい
「……リオ、すごく危ないこと頼んでいい?」
「この状況で断る理由あるか? なんだ」
「私が竜をなんとかするから、その間ペイジの気を引いて。でも正面から戦っちゃダメ。無茶はしないで」
「わかった。……おまえも無理すんなよ」
言うなり駆け出したリオの背に「この状況でそれは難しいでしょ」ジルは小さく呟きながら、かすかに笑った。
…✦…
かつて世界は〈
したがって現代人であるペイジに、古代魔法具の杖を扱う技量など、本来ない。恐らくその不可能を覆す秘密は竜――仕組みを知らなくても、それくらいは想像がつく。
だからジルは時間稼ぎを頼んできた。
本当なら、彼女一人にあの巨大な竜を任せるなんて考えられない。けれどリオとてただの警察官、旧時代の生物相手に何ができる。
それに――魔導書を使うなら、傍にいてはむしろ邪魔になる。
だからジルを信じて走った。邪魔者を払おうとする竜の前脚をすんでのところで躱し、転がり込みながら再度指を引く。
当たる必要はない。奴が狙撃されたと気付きさえすれば。
ペイジはもはや避けもしなかった。彼が杖をひと振りすれば、弾は空中で四散する。
「……君とは、きっとわかり合える」
男はそう言ってリオを見た。
「だから名乗った。僕の素性は調べたんだろう?」
「ああ……前任の〈書庫番〉の息子だってな。目的は父親の敵討ちか」
「それもある。もう一つは、僕らの共通の願いじゃないかな。
つまり
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