5-2 ✦ 孤独を剋す竜の唱(うた)

 〈大散逸〉を経てなお残存する、わずか数十冊の黄金期の叡智、魔導書。


 大幅に退化した現代人の魔力では、読むどころか触れるだけでも死の恐れがある。唯一、魔力過剰症HyperSpellism=HSの人間だけがそれをまともに直視できる――〈書庫番〉は社会から弾き出された病人を受け入れる、数少ない職業でもあった。

 ジルもまた、自分で望んでその役目に就いた。


 けれどHSも魔導書の記述に用いられる〈秘語ススッリ〉の侵蝕効果を受けないわけではない。即死はしないだけで、精神は壊される。

 現に前任者だったペイジの父は廃人化して、今は精神病棟の住民だという。


 ――負荷リスクは承知の上だ。


「あなたの相手はこっち!」


 リオを見送ったあと、彼を襲おうとする黒竜に向かってジルは声を張った。ぎょろりと柑橘緑ライムグリーンの瞳が彼女を睨み、低く唸って威嚇を返したのが、まるでこちらの言葉を理解しているようだ。

 それだけの知能があってもおかしくはない。かつて竜は世界の統治者と見做され、中には神と敬う地域もあったという。


 とにかく魔導書を開こうとした矢先、鉤爪がジルに振り下ろされた。

 速すぎて避けようなどと考える暇もない。自分でも死んだと思ったが、あったのは軽くよろめく程度の衝撃と、獣の悲鳴だけだ。

 見れば黒竜は翼を震わせて喚いている。痛がっている。唖然とするジルの手元には、まったく無傷のままの魔導書。


「そっか、……うん、今のうちに!」


 必要な箇所には予め栞を挟んでいた。開かれた頁から〈秘語〉がジルに流れ込む。

 死者の声に侵される。心を塗り潰される。ここで耐えられても、いつか壊れてしまう――それでも。


 戦う理由がある。守りたい人がいる。

 だから、遠い未来を惜しんだりしない。


 魔導書それ自体はただの物質だ。そこに記された知識を活かす魔導師読み手がいなければ意味がない。

 つまり彼らは自身を読み解く人間を必要としているのだ。


 ジルはその求めに応じ、奇跡を再演する装置になる。

 ――深呼吸。息を吐くと同時に、奇妙な韻律で咽頭を震わせる。

 言葉ではない、歌とも違う、喩えるならそれは『鳴き声』。


 竜がこうべをもたげてジルを見た。こちらも濃紺の瞳で睨み返す。


<あなたの気持ち、わかるかもかもしれない。二百年も独りぼっちで、知らない世界に閉じ込められて……寂しかったでしょうね>


 漆黒の獣が、挑戦を受けるとばかりに低く唸った。


<私は不出来な人間よ。一人じゃ何もできなくて、周りに頼ってばっかりで、そんな自分が嫌いだった。

 〈書庫番〉になったのも、自立のためって思いこんでたけど、本当は現実から逃げたいだけだったのかもしれない。魔導書庫なんて誰も訪ねないし。

 ……なのに、しょっちゅう顔を出して、私を外に連れ出す人がいた>


 人より魔力が多すぎるせいで、動力が魔法化された一般的な機器が使えない。身の回りのおよそ総てが魔法式マギカである現代において、まともな社会生活が送れないHS魔力過剰症は障害者だ。

 この世界はジルに優しく作られてはいなかった。

 だから仕方がないのだという甘えと、誤魔化しきれない自己嫌悪。変わりたいと願っても、変えられるだけの力がない。


 そんなジルを、リオはありのまま受け入れた。優しい言葉は言えないくせに、いつだって傍にいてくれた。傷つけてしまっても離れなかった。

 甘えすぎるのが怖くて、ジルのほうから突き放そうともしたけれど、結局それも無理で。


<リオが好きなの。……私は独りじゃないって、思わせてくれたから――>


 もう一度深呼吸をして、ひときわ高い咆哮を上げる。声のかぎりく。

 夜色をした翼獣はそれを受け、確かに怯む仕草をした。


 この黒い竜はジルの何倍もの魔力を持つだろう。そうでなくともこの体躯だ、巨大な鉤爪で簡単に人間を切り裂いて殺せるはずだ。

 誰がどう見たってジルに勝ち目などない。

 だが、には伴がいない。家族も、友も、愛する者も、この世では誰との繋がりも持たない。たった一匹の神の末裔。


 孤独に怯える獣は、それだけで果てしなく弱いのだ。



 …✦…



 正直、リオはペイジの心情がわかる。魔導書によって〈書庫番〉の精神が破壊されることも、彼は今日知ったばかりだし、それでジルと喧嘩もした。

 辞めてほしいと頼んだけれど、彼女は頷かなかった。


 だから思う。もし今も頭に血が上ったままなら、きっとペイジと同じことを考えた。


 彼女たちが自分から役目を下りられないなら、その使命を奪うしかない。

 つまり魔導書庫を破壊する。保管された魔導書もろとも、すべてが塵になるまで焼き尽くして滅ぼせばいい。

 管理すべき過去の遺物が無くなれば〈書庫番いけにえ〉は要らない――……。


「ああ、同感だ。俺もジルを守りたい」


 リオはふたたび銃口を向ける。筒先に灯った銀色の光を見て、ペイジは怪訝な顔をした。

 言うこととやっていることが違うじゃないか、とでも言いたげだ。


 違うものか。


 リオは仏頂面の口角をわずかにひねり上げ、引鉄を引いた。



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