Liber.4 ひと匙の恋心

4-1 ✦ うたかたに憂う

 かつて世界は〈大散逸マグナ・ルクスリア〉という悲劇を経験した。

 詳細はわかっていない。確かなのは、人類から大魔導時代の栄光と、それを実現する魔力の大半が失われたことだけ。


 古代魔法具と呼ばれる〈大散逸〉前の遺物は現代人には扱えず、黄金期の叡智を記したわずか数十冊の魔導書に至っては、眼にするだけで死の危険がある危険物。

 それらを管理できるのは国内にわずか数名の魔力過剰症HyperSpellism(HS)という特異体質の人間のみ。


 現任のジリアン・クレヴァリーは、弱冠二十歳の女性である。



「ジル、風呂沸かしたから先入れ」

「んー」


 ヘレディタス市の隅にある魔導書庫は、ジリアンことジルの職場兼自宅。

 そして今は、世界に迫る危機に備えて彼女の連絡係を務める新米巡査、レナード・シンクレアも滞在していた。ちなみに二人は幼馴染みだ。

 ジルは作業に没頭すると生活を放棄する悪癖があるため、彼の役割は世話係にも等しい。


「……あれ? なんでリオ、非魔法式ノン・マギカ給湯器の使い方知ってるの?」

「調べた」

「いつの間に……」


 レナードことリオは真顔だが、それは特殊な技能であったりする。


 魔法式マギカ機器は、現代人平均の数倍以上の魔力を持つジルたちHS魔力過剰症には対応しておらず、壊れてしまう。

 よって手に入りづらい非魔法式を使わざるを得ないのだが、その大半は不便で低性能。よって操作手順を知るのはHS当事者とその家族、あとは一部の変人マニア製造元メーカーくらいだろう。

 幼馴染みとはいえ家族ではないし、彼の職業は警察官、ということを踏まえると。


「家電オタクなの?」

「は?」


 馬鹿なこと言ってないで早く入れ、と怒られた。



 …✦…



 事実として給湯器の操作はかなり面倒だ。水を汲むのも加熱も足漕ぎ式で、入浴するために汗だくになるようなもの。

 正直言って、その過程を他人に丸投げして浸かる風呂の心地よさったらない。


「ふにゃ〜」


 ジルは湯船の中で至福にとろけていた。

 自分で沸かすより水温も高めな気がする。やはり腕力の違いだろう、男手ありがたし。


 それにしてもリオの世話になりっぱなしだ。ジルは昔から「手のかかる子」だったと自認してもいるが、ここ最近は一段とすごい。

 苦労して沸かした一番風呂を譲ってくれ、それ以前に夕飯も作ってもらったし。さらに仕事とはいえ身辺警護まで。

 最後のは結果的に失敗したが、彼一人のせいではない。


 ……そうだ。

 なにも彼が、いずれ来る大事に対して責任を負う必要はないのだ。


 事の発端は博物館の盗難事件。古代魔法具のひとつ〈追憶鏡クロノグラス〉が盗まれたので、専門家――ただ魔導書に触れられるだけなので実際はそこまで詳しくないが――のジルも捜査に協力した。

 それでリオと一緒に調べるうちに、犯人のペイジの策略によってジルは他次元への扉を開いてしまった。

 彼の目的は間違いなくその先に隠された禁忌の杖だ。今は逃亡中だが、必ず竜を従えて戻ってくる。


 やろうと思えば世界をも滅ぼせる力を得た男に、現代人は何の対抗手段も持たない。

 この先ペイジが何をしでかしても、その責任は事前に止められなかった自分たちにある。ジルが恐ろしいのは、そのときリオが「おまえが〈書庫番〉を守り損ねたからだ」と非難されることだ。


(リオは悪くない。精一杯戦ったもの……私が魔法を使えたら、抵抗できたら、こんな事態にはならなかった)


 ジルが扱える魔法具は現代には存在しない。旧代のそれは魔力の消費量が大きすぎて、使えば倒れてしまう。

 まさに帯に短し襷に長し、この現状を招いた無能はリオではなくジルだ。


「……がんばらなきゃね」


 そう自分に言い聞かせて、ジルは真上に手を伸ばした。何かを掴もうとするように。


 白い手のひらから肘の先、いや、首から下のほぼ全身に、古い傷痕がある。

 昔起こした事故の名残だ。同じものをリオにも背負わせてしまった、ジルの罪の証。


 名残惜しいがそろそろ出なければ。何しろ性能が低いでお馴染みの非魔法式ゆえ、保温機能をあてにできない。

 一番の功労者を冷めた風呂に入れるわけにはいかないだろう。



 そして身体を拭いてから気づいた。

 パジャマを持ってきていない。下着もない。


「何ッ……してんの私!?」


 よりによってリオがいる日に! と自分で自分に憤慨しながら、タオルを巻きつけて廊下を窺う。いない。

 なんとか出くわさずに寝室まで戻れないだろうか。

 自分の住居なのに忍び足になりながら、ジルはこそこそ急いで台所を通り抜け――……。


「ジル……」

「っ!」


 終わった。


 涙目になって振り向くと、リオが椅子に座って、……居眠りしている。

 ひと安心だが、紛らわしい寝言を言わないでほしい。

 どんな夢を見てるんだろうか、いつも仏頂面の彼も、寝顔は子どものように穏やかだ。


「……色々あったし、疲れてるよね」


 思わず苦笑しながら、彼の暗茶髪ダークブロンドを撫でた。このまま寝かせてあげたいけれど、きっと身体に悪いし、お風呂が冷めるのも忍びない。

 そっと彼の額にキスを落とす。それから肩を揺さぶった。


「リオ、起きて。お風呂空いたよ」

「ん……、ぁ、ああ悪い、寝てた……?」


 やがて目を開いたリオは、しばし硬直したのち、


「なんつー恰好してんだ……」


 と言った。

 それでようやく己の痴態を思い出したジルは「違うの! 違うから!」と叫んだ。



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