マスト🐸パートナー🐸ビーム

 その日、舞台を降りたその人は、大海の上で小舟に揺られていた。


「せめて一言くらい言葉を交わす時間をくれてもよかったのに」


 琥珀の瞳のその人は恨みがましく天を見上げた。何もかもやりかけのまま出てきてしまったような気がした。


 その時、風を受けて帆柱が勢いよく傾く音がした。


「またか」


 ゴトン、ゴトン――


「はいはい、わかりましたよ」


 カタン、カタン――


 その人はもう何度目かというほどには慣れた手つきで紐を引っ張ると、船底の梁に足を引っかけて早々に帆をたたみはじめた。


 カタタ、カタタ――


 不意に早咲きのラベンダーとも白檀ともつかない不思議な香りがして、その人は辺りを見渡した。


 空は抜けるように青く、どこまでも澄み渡っている。


 その瑠璃色の彼方、大海の果てに目を遣れば、空と海の境界では入り日に水面が輝き、己と世界を隔てるものは何もない。


 束の間の緑閃光に、気づけばその人は心奪われていた。


 と、その時。

 

 トンッ――


 背後で物音がして、その人は思わず振り向いた。そこにはなん――


「なんでこんなとこに猫が……!」


 早く舟を引き返さねばと慌てふためくその人を見つめながら、猫はそっとかぶりを振ると、肉球で触れて制した。


「ミャオゥ」


 なんと言っているのかさっぱりわからなかったが、その気迫溢れるまっすぐな瞳には、強固な意思が宿っているようにその人には思われた。


「えっと……戻ろう?」

「ミャ!」


 猫は少しダミ声で力強く鳴いた。


「戻らないの?」

「ミャア」

「でもさ」

「ミャ!」


 すると猫神……いや猫は、肉球をとある彼方へと向けた。


「えっと……君はそっちに行きたいの?」


 すると猫は、何故か首を横に振ったあと、その人に肉球を向けた。


「ミャア」

「え、僕? 僕はいいよ。もうちょっと休んでから――」

「ミャ!」


 猫は違うとばかりに勢いよくかぶりをふると、もう一度肉球を力強くその人に向け、それからとある彼方へと向けた。


「えっと……僕が、そっちに行きたいの?」

「ミャア!」


 そうですとも、と言わんばかりにその猫は、満面の笑みを浮かべたようにその人には見えた。


「そうかー僕はそっちに行きたいのかー」

「ミャア」

「えっと……僕は、そんなに行きたいのかな?」

「ミャア」

「そうかー……」


 その人はもはや演じることに疲れきっていた。が、どうしようもなく猫好きでもある。

 最後にもう一息吸い込むと、その人は明るく猫に話し掛けた。

 

「もう、しょうがないなあ……。じゃあ、一緒に行く?」

「ミャア!」


 その人は傍らに猫を連れて瑠璃色の世界をひとしきり眺めると、緑閃光の彼方へと帆を向けた。

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