ティリアンパープル・カーペット
「せっかくですから月の鏡を覗いていっては?」
カエルは井戸の中を覗きながら、小さな水かきで器用に蝶ネクタイを直している。
「いや、やめとく」
マヌーは苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
「なぜ? いまさら後ろめたいこともないでしょう」
「どうかな」
「まさか、未来が怖いとか?」
「うーん、そんなんじゃないけど」
月の鏡が過去を映し出すばかりでないことはマヌーも知っていた。それは未来かもしれないし、ただの願望かもしれない。ただ心を通りすぎる今この瞬間をありのままに映し出す。
「なら、いいではないですか。別に減るもんじゃないでしょう?」
「うーん……」
「さあさあ」
マヌーは言い淀み、しばらく遠目に見ていたが、おもむろに井戸へ近づき、縁に手を掛けた。
「……」
「……」
カエルはコホンと咳払いをすると、井戸の縁に頬杖をついて、どこか気まずそうに真っ暗な水鏡を見つめた。
「……何も見えませんね」
「だと思ったよ」
「ネバーマインド、ネバーマインドですよ。そんなこともありますって」
「いや勧めたのはカエルくん」
何も映らないであろうことはマヌーにも想像がついていた。この物語を演じきったら舞台を降りる。それはかねてより彼が心に決めていたことだった。
「それより君は?」
「え……?」
不意を突かれて飛び跳ねるカエルに尋ねながら、マヌーはもう一度井戸の中を覗いた。水鏡にはいまや深淵の星々がくっきりと輝いている。
「もうここにとどまる理由もないでしょう?」
「それはまあ、そうですが……」
「よかったら一緒に行く?」
マヌーは第3の広場へ続く階段に向かって親指を立てながらくいっとやった。
けれども、今度はカエルが首を横に振る番だった。
「え、だって……。君はもう自由なのに」
そう口にしながらマヌーは、ほんとうの自由とはなんだろうと思った。案外そよ風のようにさも知らない振りをして、何事もなかったように通りすぎていくものなのかもしれない。
カエルは静かに微笑みながら、マヌーをまっすぐに見つめていた。
「私はカエルですよ? 大海を知らずしてどうするんです」
「なんだ、そういうこと」
「ええ。この海の続くとこ、何処へでも参りましょう」
畏まって紳士のようにお辞儀するカエル。その飄々とした姿を見つめていたマヌーは不意に小さく笑った。まったく役者とは不思議なものだ。
マヌー自身は役者の才能が無いことを自覚していたが、それ故夢見る役者たちにはことさら心惹かれた。この世界には物語を信じる力を持った役者たちが星の数ほどいるのだ。
魑魅魍魎の跋扈する世界にあってなお善きものを映し出そうとするこのカエルは、マヌーにとってまぎれもなく美しい(時折眩しすぎるくらいの光を放つ)鏡の持ち主であり、役者であった。
その役者たちが夢見る舞台を守りたい、舞台全体にスポットライトを当てたいと願うのは、はたしてマヌーが一人で見るには大きすぎる夢だろうか――?
「それでは、私はこれで。ごきげんよう!」
「あ、ちょっと待って」
「なんです突然、藪から棒に。湿っぽいのは苦手なんです」
今まさに井戸に飛び込もうとしていたところを引き止められたものだから、湿っぽいのが苦手なカエルはちょっとばかり不躾に答えた。
「これ、持ってって」
マヌーはポケットから取り出した丸い石をカエルに手渡した。よく見れば石は紫色の中にところどころ赤い粒子が煌めいている。人の視覚(もといカエル)すべてを刺激するようなこの不思議な色をカエルは知っていた。
「これは……いつかのティリアンパープル?」
ティルスの紫を詰め込んだ丸い石をしげしげと見つめながらカエルは言った。
「うん。それで……もしどこかであの人に会うことがあったら渡して欲しいんだ。交換条件つきだけど」
「交換条件……?」
「うん。条件は、アニメというジャンルに押し込められた長編アニメーションを、ファンタジーの世界を、一人前の映画として存在させ、世界中の人々に知らしめること。もし貴女がこの役目を引き受けてくれるなら、僕は憎悪に光る百万本の剣を受けてもいいって」
マヌーは思いもしなかった。まさか中二病満載の台詞をカエルに向かって真剣に語る日が来るなんて。
「百万本の剣……? よくわかりませんが、いいですよ、渡すくらい。出会うことがあったらですけどね。ところでそのあの人って誰です?」
「ほら、あの人だよ」
「はて、ちゃんと言ってくれなきゃわかりませんねぇ」
カエルはまたしても演技を決め込んでいるに違いないとマヌーは思ったが、いっそこれを機にけじめをつけるのもいいかもしれないと思った。世界を革命しようと思ったら、いつまでも隠れているわけにはいかないのだろう。
「だからあの、彼女……」
「彼女って、誰です?」
「はぁ。だから――」
無論、誰かの夢を覚ますということは、それなりのリスクを背負っているということで、最悪その世界から自分がいなくなるぐらいの覚悟は必要とされるのかもしれないが、マヌーはとっくに舞台を降りるつもりであるので、正直そんなことはどうでもよかった。
マヌーは大きく息を吸い込むと、まっすぐにカエルを見据え、ようやく彼女の名を告げた。
「僕の敬愛する演出家、橋本カツヨさんに」
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