ヒライアカル・ライジング *

「出来るわけないでしょうそんなこと!」

「えっ……」


 突然水かきを返したカエルにマヌーは困惑していた。


「でもさっき……というか、たった今、渡すぐらいならいいって……」

「考えてもみてください! ただでさえプロデューサーからの着信もメールもSMSも着拒しているというのに。毎年スタジオから来ていた年賀状も今年からメールに切り替えるから次からも欲しい人はメーリングリストに登録してくださいというんで、いい機会だと思って辞退したくらいですよ?」


 水かきを握りしめながら声高に叫ぶ姿はどこか錯乱気味のようにマヌーには思われた。


「あの村のコメント欄だってそうです!」


 突如、カエルは黒曜石の欠片が突き刺さった聖書ほどの厚みがある本をひったくると、勢いよく地面に叩きつけた。


「荒らしにあう程度なら通報すればいい。ですが、その手の人たちはみな似通ったようにまず私の一番信頼している人たちに近づくんです。うっかり開けようものなら私が誰とどれぐらい交流しているか〝一目で〟わかってしまうではないですか……!」


 錯乱したカエルの言葉の半分もマヌーには理解出来なかったが、言われてみればせっかくの名案もかなり無理があるように思われた。そもそも他の誰かに頼むこと自体が得策ではないのかもしれない。


 たとえどんなに警戒していても、心ある優しい人ほどその手の人たちの嘘にあっという間に洗脳されてしまうのだから――。


 マヌーは大切な人たちが彼らの嘘に利用されていく姿をもう二度と見たくはなかった。


「もっと時間をかける必要があるんです。ほんとうに知りたいと思う人だけが真実にたどり着けるような筋書きが。まったくもう、彼女に会うということは必ずプロデューサーもセットということなのに……。一体どうやってプロデューサーの目を掻い潜って彼女にだけ伝えろというんです? そんな超人技、私に出来るとでも? 第一、そんなことをしたら今度こそあなたはほんとうのぼっちになってしまう……」


 カエルはボロボロの革表紙を思いきり踏みつけようとして、結局、逡巡した末に水かきで端の方を申し訳程度にフミフミした。


「いいんだよカエルくん。もう決めたことだし、そこまで大袈裟な話じゃないんだ。ちょっと舞台から降りるというだけで。天井桟敷から覗くぐらいのことはいつだって出来――」

「大袈裟な話です! 百万本どころか軽く百億本の剣くらいは飛んでくるでしょう。あなたが覚まそうとしている物語を信じている人はそれほど世界中に沢山いるんです。紀元前……いや、紀元後……? よくわかりませんが……そのくらいから熱心に信じてきた人々全員を敵にまわすことになるかもしれないんですよ? そしたら今度こそあなたは――」


 錯乱したカエルはなおも叫び続けたが、マヌーにはその長台詞すらどこか懐かしく感じられた。


「うん。それじゃあ、その丸い石はやっぱりカエルくんが持っていてくれる?」

「……なんですって?」

「だからその石、君にあげる。そのまま持っていてもいいし、投げつけてもいい。海に沈めてもいいし、なんなら砕いてもいいよ」

「砕くなんてそんな……」

「いいよ別に。だいたい僕はいつも先回りしすぎなんだ。なのに肝心なことを見落としてしまう。もうこれ以上カエルくんをプロデューサーに近づけさせる訳にはいかない。この件に関して僕たちに出来ることはもう何もない。先のことなんてどうなるかわからない。そうでしょカエルくん?」


 ご存知でない方もいらっしゃるかもしれないが、深淵の街ではカエルは神の使い(*あるいは偽預言者)として崇められている。その預言はまったく気まぐれによる偶然で、おおよそ証拠と呼べるようなものはも何もなく、滅多に当たることはない。


「そうですか。承知しました。いいですよ、そこまで仰るんなら。持っているぐらい容易い御用です。では私はこれで失礼して――あ、せっかくですからこの本も一緒に貰っていっても……? いつ帰れるかもわかりません。長旅になるかもしれませんから」

「どうぞどうぞ。もうとっくに読んだから」

「え……? まさか、あなた様は既にこの本を読んだことがおありで……?」

「え、あるよ当然」

「ほんとうに……?」

「ほんとうほんとう。君も知ってるでしょ? 学生時代に何度も読んだじゃない」

「えっと、そうでしたっけ……? これはまた失礼を……なんだか私いつも記憶が曖昧で……どうやら私、泳ぐのに飽き足らず船まで漕いでたようですね……」

「しょっちゅうね」

「だって……ほら、あの頃はハムレットの長台詞を覚えるので精一杯だったでしょう? 元々12時間睡眠なのに忙しすぎて6時間しか寝られないものだから、いつも眠くて。厚い本に挟んで講義中に暗記でもしなきゃとてもとても。もう一ページ目から眠くなっちゃうんですから――」


 実際、マヌーは嘘などついていなかった。偶然入った学校がミッション系の学院だったものだから、基礎教養科目として聖書ほどの厚みがある本は何度も開いたし、学内にあるチャペルでは、信仰心のある学生や教授たちと一緒になって讃美歌を歌ったこともあった。


 いつだったか教授に「あなたはニーチェを読んだ方がいい」と突然言われた時には、なんのことやらマヌーにはさっぱり意味がわからなかったが、卒業するまでの四年間、信仰心のある学生たちの一人として、学内に上手く紛れ込めていたつもりだとマヌーは自負している。


「それでは、つもる話はまた会った時にでもいたしましょう。ごきげんよう」

「うん、元気でね」


 カエルは本の中にティルスの紫を詰め込んだ丸い石をしまうと――マヌーは気づきもしなかったが、その本は裏から開くと隠しスペースが現れる小物入れにもなるのだった――ビート板のように両の水かきで握りしめ、水泳選手よろしく井戸の中へと飛び込んだ。


 広がる波紋は何処へ行くのか。ふたたび水鏡が静まるまでそう時間はかからなかった。


「さてと……」


 相変わらず水鏡は真っ暗なままだった。自分のこととなるとまるで見えないらしい。

 さっさとチアキのもとへ急ごうと、マヌーが井戸から顔をあげようとした、その時、不意に水面が煌めいた。


 見れば水鏡にはどこまでも続く地平線が、その黒い大地のすぐ際に一等明るい赤い星が、まだ日の昇っていない薄暗い東の空に燦然と輝いている。


「赤い……シリウス……?」


 なぜそれが東の空だと思ったのか。なぜその星がシリウスだと思ったのか。マヌーが不思議に思う頃には、水鏡にはどこか古の国の神殿が映し出されていた。


『わが面布を掲ぐる者は語るべからざるものを見るべし』


 いたずらげに呟く女性の声がマヌーの脳裏に響いたかと思うと、水鏡には薄いヴェールの向こうで黄金の玉座に腰掛ける長い黒髪の女性が映っていた。


 女性はぶどう酒片手にパンを差し出すと、ヴェールの向こうで女神のように微笑んだ。

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