深淵の夜空をかける紫の光はいつか二三雲

 もしこの世に救世主なるものがほんとうにいるなら、その人はきっと孤独で、真っ直ぐで、誰よりも夢を失う痛みを知っている人であろう。


 無論、元王子で元カエル、現妖怪夢覚ましであるマヌーにとっては縁のない話であるけれども。

 

 そんな大役を引き受けた人が愛を身近に感じられる、確信出来るような時が来るとすれば、それはおそらく――。







『お役目ご苦労様でした。というわけではい! 次は君の番ね』

『え、でも――』


 マヌーは走っていた。雷雨の中を脇目もふらずに全力で走っていた。手にはいつかの花冠と、黄色いメガホンを握りしめて。


『いいってことよ。まあこのメガホンに何があったのか知らないけどさ、ポケット入んないし。持ってけドロボー、なんてね』


 ふふっと笑う彼女の瞳が思いのほか温かく感じられたのは気のせいだろうか。マヌーにそれを確かめるすべはなかったが、雨上がりの夜空の星はどこか紫の光を纏ったように優しく感じられた。




 マヌーが第1の広場にたどりついた瞬間、辺りに爆発音が響いた。衝撃に目を凝らして見れば、広場を囲むように照らしていたかがり火はとっくに燃え尽き、中央にあったはずの一見モノリスのようなそれ――黒曜石の鏡は、跡形もなかった。


 確かに此処には昔の夢の欠片があったはずだけれど。


 マヌーはなんとはなしに一対の木を見つめていた。かつては鏡の両脇で青々と繁っていた月桂樹。常緑であるはずの葉はとっくに色褪せている。赤朽葉にカエルの跳ねる気配がしたのは気のせいだろうか。根元から顔を出したひこばえが一本微かに揺れたような気さえした。


『そうだお兄さん、天井桟敷の人々って映画知ってる?』

『あー……昔一度だけ観たことが……』

『どうだった?』

『えっとその……長かったです』

『ははは』

『というか、愛とか恋とか言われても、ちょっと』

『ふふ、まあ確かにね。私もずっと不思議だったんだ。だってあの映画が作られたのは戦時中のはずでしょ? 辺りが焼け野原だったかどうかは知らないけどさ、どうしてそんな時代にあの映画が作れたんだろうって』


 揺れる若芽にどことなくショートボブの明るい毛先が重なって見えた。

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