耳をふさいで待ち合わせ
八日郎
耳をふさいで待ち合わせ
間抜けな顔をしたパンダのイラストが、俺を見つめている。
「メッセージアプリのいいところは、メールなんかより軽い気持ちで人と連絡が取れるところだよね。」なんて言っていた、完全に酒が回った加奈恵の童顔を思い出す。
言いたいことはよくわかるけど、軽すぎる。もし今隣にいたなら、いつもの要領で小突いていたはずだ。
さっきまではまだ多少の愛嬌を感じていたパンダのスタンプに、今はもう憎たらしさしか感じない。
このゆるさをやけに気に入った加奈恵が、毎日のように同じシリーズのスタンプを送り付けて来ていたのが昨日のようだ。
あいつのパンダ攻撃にちょっとでも対抗できるようにと買った同じパンダのスタンプが、あいつ以外に使われたことは、今のところまだ一度もない。
炭酸がしゅわしゅわと良い音をさせている濃い目のハイボールを一気にあおって、画面の割れたスマホを一度テーブルに置いた。
パンダの顔に添えられた気の抜けるようなフォントがさらに頭をくらくらさせる。
心なしかあいつの字に似ているのも、俺にとっては具合が悪い。
何が「やったね!」だ、こっちの気も知らないで。
偶然にも横並びになった、パンダが「おめでとう!」とクラッカーを鳴らしているイラストと「まじで?」と目を見開いて驚いているイラストを、交互に見つめる。
どちらを返信として送り付けても差支えない。
けれど、どちらを送るのも負けのような気がする。
何に対しての勝ち負けなのかは、俺自身にもよくわからない。
たった一人に使うためだけに用意されたにやけ面のパンダが、俺にむなしく笑いかける。
三か月後、加奈恵は真っ白なウエディングドレスを着て満面の笑みを浮かべていた。
もちろん横に並んでいるのは、俺じゃない。
加奈恵とそれほど変わらない身長に、狭い肩幅と細い首。
見るからに華奢で可愛らしい顔をした、どう見てもあいつのタイプと真逆の男が、あいつの横で鼻の下を伸ばして嬉しそうに笑っている。
「加奈恵は貴也と結婚すると思ってたけどね~。」
「あ、俺も俺も。」
同じテーブルについた付き合いの長い連中が口々に言う。
俺だって、加奈恵のウエディングドレスの横でだらけた笑顔を浮かべるのは、似合わないタキシードに身を包んだ俺だと思っていた。
過程を考えたことこそないものの、今思えば俺は、そんな未来がいつか必ず自然に来るものだと疑っていなかった。
加奈恵と俺は幼馴染というやつで、家が近所で母親同士が友達、幼稚園から高校までずっと一緒という、まるで家族のような存在だった。
漫画みたいな話だが、俺の生まれ育った田舎では珍しくない話だ。
小学校が同じだった奴らは大体同じ中学に進学したし、高校で別々になったとしても、何かあればすぐに地元の友達と集まった。
高校の友達に「お前の通ってた小中のやつらって、やたら仲良いよな。」と言われたことがあったのを思い出す。
もしかしたら俺の周りが、特別仲が良かったのかもしれない。
数年前までは、正月と地元の祭りの日に、地元から出た奴も含めたいつものメンツが、同じ時間に同じ場所に何の約束もなく集まって、当たり前のように一緒に過ごした。
もちろんそのメンツの中には加奈恵だっていた。
実家の隣に住んでいた同級生のケンジは、そのまた隣に住んでいたハルカと幼馴染で、小中高同じ学校で青春時代を共にした。
そして高校卒業後はばらばらの進路を進み、しばらく会っていなかったにも関わらず、まるでそうなることが決まっていたかのように結婚した。
高校を卒業してから二年後のことだ。もう六年も前になる。
学生時代に二人が付き合っていたという話を、俺を含め周りの奴らは一度も聞いたことがなかったし、事実二人は結婚が決まる四か月前までは恋仲ではなかった。
幼稚園から数えたら十五年ほど一緒にいた加奈恵と俺は、高校卒業後、俺は大学進学のために上京し、加奈恵は実家近くの専門学校へ進学した。
一緒に過ごしてきた十五年の間、俺と加奈恵が恋仲になったことはない。
ただ俺は、地元を離れた後もたびたび帰って来ては、当たり前のように加奈恵と会った。
ケンジとハルカを例に挙げるとするならば、俺は加奈恵と結婚し人生を共に歩むレールに乗っていたようなものだ。
それなのにちょっと地元を離れた隙に、ぽっと出の男にみすみす持っていかれてしまったわけだ。
レールの上をまっすぐ悠々と走ってきたつもりが、そのレールは加奈恵との未来にはつながっていなかった。
情けなくて目も当てられない。
会うたびに、お互いの恋愛話を肴に酒を飲んだりしたのが良くなかったのだろうか。
まるで家族のような存在とは言ったものの、距離が近すぎたせいで、加奈恵にとっての俺は本当に家族同然になっていたのかもしれない。
ああ、考えれば考えるほど情けない。
やり直したいが、どこからやり直せばいいか見当もつかない。
いっそ生まれるところからやり直したい。
「貴也、見すぎ。」
「あ?」
「ガラ悪。そんな鬼みたいな顔で旦那さん睨んでも、加奈恵はもうあんたのものにはならないよ。」
披露宴では、七人掛けの丸テーブルにいつものメンツが集められていた。
隣に座った加奈恵の親友、雅美が、俺の肩をいつものように手加減なく叩いて、軽く笑う。
その声につられて、他のメンツも徐々に盛り上がり始める。
「貴也も加奈恵も、ほんとタイミング悪かったよな。」
「すれ違ってるの見てるの、やきもきしたわ~。」
「そんなに言うなら、くっつくようにうまいことやってくれればよかっただろ。」
言ってしまってから後悔した。こんなのは情けなさの上塗りだ、格好悪すぎる。
にやにやと俺を見つめる友人たちから逃げるように、グラスをあおる。
シャンパンなんて久々だから、ペースを考えないと後々困りそうだ。
もう学生時代ほど無茶な飲み方はできない。
加奈恵は酒に強いわけでもないくせに、さっき注ぎ足された分をもう飲み干して、顔を真っ赤にしてふにゃふにゃと笑っていた。
幸せそうな顔しやがって。
新郎の友人代表がスピーチでダダ滑りしたり、余興で加奈恵の専門学校時代の友達が歌を歌いながら泣いたりして、披露宴はつつがなく進んだ。
披露宴後の二次会には、不参加のつもりでいた。
明日も仕事がある、なんていうのはもちろん、抜け出す口実でしかない。
しっかり有給は取っている。
旧友たちと過ごすのは思いのほか楽しかったが、左手の薬指にダイヤをはめた加奈恵をこれ以上見ていられなかったし、自分の情けなさをいじられ続けるのも面倒だった。
ぞろぞろと二次会会場に向かう友人たちを見送ってから、俺は母校の最寄り駅に向かった。
ここからじゃちょっと遠いが、酔いを醒ますにはちょうどいい。
結婚式が始まる前から、今日はそこに寄って帰ると決めていた。
散歩がてらとぼとぼと歩く通学路は、当時とほとんど変わっていなかった。
ラーメンよりカレーの美味いラーメン屋も、前髪が眉上で揃えられた爺さんがやっている床屋も、たまに柴犬が店番している煙草屋も、あの頃と同じままだった。
駅に着いた俺は、備え付けの灰皿の右隣の椅子に腰かけた。
田舎の無人駅にはガラス張りの立派な喫煙所なんかなく、古びたベンチと汚いスタンドの灰皿がむき出しであるだけだ。
分煙、禁煙が進んでいる東京じゃ考えられない光景だが、この適当さが落ち着く。
スーツのポケットから煙草を出して、一本咥える。
加奈恵の旦那になった男は、煙草は吸わないのだろうか。
あいつ、煙草の匂いがしたら露骨に嫌な顔するからな。喫煙者だったら苦労しそうだ。
「なんでここにいるのよ。」
駅とは名ばかりの、小屋同然の古い建物の錆びた扉が開く音と同時に、聞きなれた声が聞こえた。
椅子に腰かけて休むインターバル中のボクサーのような態勢の俺は、項垂れて煙を吐き出しつつ、声のした方に目を向ける。
「お前こそ、なんでいんの?」
ウェーブがかった茶髪をかき上げた雅美が、切れ長の目であきれたように俺を見る。
「多分あんたと一緒。」
「二次会は?」
「加奈恵の介抱役にされるのわかってて、わざわざ行くわけないでしょ。」
灰皿の左隣の椅子にどかっと腰を下ろした雅美は、「一本寄越せ。」とでも言うように二本指を立てた右手を俺の前でフラフラと動かした。
さっきまで吸っていたやつを渡そうとしたら、「吸いさしなんかいらないからね。」と先手を打たれる。冗談だよ。
俺は煙草をくわえたまま、箱から新しい煙草を一本取り出し、雅美の指に挟む。
なめらかな動作で煙草を口に運んだ右手は、再び俺の前に戻ってきて手のひらをこちらに向けた。
「火。」
「はいよ。」
着けづらくて仕方ない百均のライターを、白い手のひらに乗せる。
少し長いネイルの施された細い指が、ライターのホイールを器用に回した。
じゅっ、といい音を立ててライターに起こされた火が、煙草の先を赤く光らせる。
これでもかと吸い込んだ煙を、「はあ~~」とおっさんのような声と共に吐いた雅美は、俺と同じように膝に両肘をついて、項垂れた。
長い髪が、ばさっと音を立てて床に向かって垂れる。
俺たちはお互いに、しばらく黙って煙を吸ったり吐いたりしていた。
「一個愚痴っていい。」
沈黙を破ったのは、ダルそうな雅美の声だった。
疑問文の語尾が上がらないせいで怒っているように聞こえる雅美の癖を、毎度加奈恵が指摘していたのを思い出す。
「まーちゃん、語尾は?」と、まるで小さい子を叱るような態度だったな。
「どうぞ。」
「あたし、今日初めて加奈恵の旦那の顔見たんだけど。」
「まじで?」
てっきり結婚が決まる前に会っていたものだと思っていた。
加奈恵のことだから、「まーちゃん聞いて、彼氏できた!」と、真っ先に雅美に写真なり動画なりを送り付けているものだとばかり。
「まじ。」
はは、と乾いた笑いが雅美から聞こえる。髪が邪魔で、どんな顔をしているのかがわからない。
だが、珍しくへこんでいることだけはわかる。
加奈恵に一番に報告をもらえなかったことにダメージを受けているのか?
こいつそんな粘質な性格してたっけ。
「そんな小さいこと気にして二次会パスしたとか、ださすぎよね。」
雅美が煙と一緒に吐き出した声はひどくかすれて、しんとした駅の中でも聞こえにくいほど小さかった。
ああ、なるほど。こいつも俺と同じで、自分の情けなさにダメージを受けているのか。
「じゃあ、俺も一ついい?」
「どうぞ。」
「あの電柱わかる?」
「どれよ。」
「あれあれ。」
俺はさっきまでずっと見ないようにしてしまっていた方向を指さす。
わざわざ見えるところに腰かけたくせに俯いて見ないようにしていた、駅の少し先にある一本の電柱。
「お前が朝練で加奈恵より先に学校行くようになってから、俺があいつと一緒に登校してたのは知ってるよな?」
「もちろん。」
「あの電柱が待ち合わせ場所。いつも俺が少し先について、あいつに早くしろ先行くぞってメール飛ばしてた。」
「そんなこと言いながら、どうせ毎日律義に待ってたんでしょ。」
「でも今回はあいつが先に行ったな。」
煙草を吐き出す様が、ため息に似てるから嫌いだと加奈恵は言った。
今俺が吐き出した煙は、間違いなくため息だった。ため息だってつきたくもなる。
「今さらここでいくら待ってたって、あいつはもう俺のとこには来ねえんだよな。」
言いながら、俺は何を言っているんだと羞恥心が押し寄せる。
いい歳したおっさんが、中学生でもあるまいし。
雅美はベンチの背もたれに背中を預けて、灰皿に煙草を押し付けた。
吸い殻と灰皿のステンレスが、ざりざりと音を立てる。
「あんた今日帰んの。新幹線何時。」
「疑問文は語尾を上げて発音する、って小学校で習わなかったっけ?」
「面倒くさい男は好きな女をよその男に持ってかれる、って大学じゃ教えてくれなかったのね。」
「今から東京帰って飲み直すか。どうせお前も明日休みだろ。」
「親友の結婚式のために取った連休だけど、賛成。あんたにくれてやるわ。」
いつの間にか新しい煙草に火をつけていた雅美は、もわっとだらしなく煙を吐きながら片方だけ口角を上げて笑った。
煙草持ってんのに俺にたかったのかよ、と思ったが、口には出さなかった。
帰りの新幹線で俺は、ホームのキオスクで買ったアサヒを飲みながら、高校の卒業旅行の帰りを思い出していた。
例に漏れずいつものメンツで、ディズニーランドに行った帰りの新幹線でのことだ。
隣に座った加奈恵に俺は、「また行こうな。」と言った。
今度は二人で、と続けたかったが、ヘタレの俺にはそんなことできなかったし、なにより誘わなくてもそんなチャンスは簡単に転がってくると思っていた。
加奈恵は、パーク内で一番大きい袋がいっぱいになるほど買い込んだお土産を抱えて、「楽しかったね。」と嬉しそうに笑った。
続けて「でも私、きっと東京には住めないなぁ。」と言った。
俺はその時にはもう上京することが決まっていたので、少しショックを受けたのを覚えている。
「なんで?」と返した俺に加奈恵は、「東京だと自分の声が聞こえなくなりそう。」と訳の分からないことを言った。
今なら、あいつが言いたかったことが少しだけわかる気がする。
いつものメンツの中で、上京したのは俺と雅美の二人。
俺と雅美が、なぜわざわざ東京に帰って飲み直す必要があるのか。なぜ帰路を急いだのか。
俺は、加奈恵のその一言が答えのように感じていた。
俺たちの地元の田舎は、人が少ない。
駅なんかはほぼ無人だし、すれ違う人と肩がぶつかることなんかもまずない。
他人が発した音で、聴覚を占領されることがない。
静かで、時間の流れも心なしか都会に比べてゆったりとしている。
嫌でも、何かをぼーっと考える時間が増える。
それに比べて、今から俺たちが帰ろうとしている大都市は、人であふれているし、どこにいても誰か他人の話し声が聞こえる。
近くに他人を感じる。
自ずと、自分から意識が遠のく。
たくさんの人の中に紛れてしまえば、雅美は親友に抱いてしまった独占欲と、そんな子供みたいな自分を、俺は青臭い初恋と、そんなものを引きずり続けている情けない自分を、意識しなくて済む。
自分の本当の気持ちに、見て見ぬ振りができる。
スーツの尻ポケットに入れていたスマホが鳴った。
きっと酔っぱらった誰かさんが、俺と雅美が二次会にいないことにやっと気が付いたのだろう。
雅美にも、怒った顔のパンダのスタンプが送られてきているはずだ。
「あんたのとこもパンダ?」
俺とほぼ同時にスマホを取り出した雅美が、わざとらしく語尾を上げて俺に問いかける。
「お前のとこもだろ。」
「これのどこが可愛いのかしら。加奈恵の趣味はわかんないわ。」
雅美があきれたように笑う。
案の定、俺のスマホには、加奈恵から怒った顔のパンダが大量に送られてきていた。
俺は、もうすっかり覚えてしまったスタンプの配列から、一匹のパンダを探して、親指で軽くタップする。
間抜けでどこが可愛いのかわからないパンダが、「先行くわ!」と走っているスタンプが加奈恵に送信される。
背中に感じるのは新幹線の座席の揺れで、寄り掛かった電柱の冷たさじゃないし、返ってくるのはきっとパンダのスタンプで、「先行ったら、お昼は貴也のおごりだからね!」じゃないのはわかっている。
待ち合わせは、俺が加奈恵を迎えに行かなかったせいで終わってしまった。
既読のマークがつくのを確認して、俺はスマホをポケットにしまう。
前の座席に座っていた若いカップルが降りる準備をする音の向こうで、まもなく東京駅に到着することを車内アナウンスが告げた。
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