八日郎

 弟の慎司が亡くなった。一人暮らしの部屋での、練炭自殺だった。


 慎司は部屋のソファで、まるで居眠りをしているかのように亡くなっていたらしい。

 玄関の近くには、慎司の彼女、麻紀が倒れており、発見されたときには二人とも死後二、三日は経っていた。

 

 慎司の部屋の窓には、空気が出入りできないように内側からガムテープがしっかりと貼られていた。

 しかし、玄関の扉に貼られていたガムテープは、麻紀によって途中まで剥がされていた。

 自殺の途中で逃げようとしたが、間に合わず、その場で事切れたのだろうというのが警察の見解だった。


 慎司の手には、私たち家族に宛てた遺書が握られており、遺書には、

 

 「簡単にどうにかなるとは思ってなかったけど、就活って、思ってたよりもずっと大変なんだね。ひとつも受からない。ダメな息子で、ダメな弟で、ごめん。これからいいことなんて、一つもないように思えてきたよ。だから、同じように苦しんでいた彼女の提案で、一緒に死ぬことにしました。父さん、母さん、姉ちゃん、本当にごめんなさい。一つも孝行できなかった。ごめん。元気でね。幸せに。」


 と書かれていた。

 文字は震えていて、力がなかった。


 慎司の遺書を読んだ母は、声をあげて泣いた。

 どうして、どうしてと父の腕にすがりつき、細く弱弱しい声と一緒に涙を流した。いつも明るく笑顔の絶えない母が、こんな風に泣くのを、私は見たことがなかった。


 父はぎりっと音が聞こえるほど歯を食いしばり、手のひらに血が滲むほど固い握り拳をつくった。

 やり場のない拳は、父の太ももの横で小刻みに震えた。厳格な父の目に涙がたまるのを、私は初めて見た。


 そんな二人に比べて私は、全くと言っていいほど取り乱さなかった。

 突然の弟の訃報に実感がわかず、暗記してしまうほど何度も遺書を読んだが、どこか他人の物を読んでいるようで、涙も出なかった。


 苦痛の滲む表情の二人の横で、私は、何とも言えない不思議そうな表情を浮かべていた。

 胸の奥はざわざわと音を立て弟の死に反応しているのに、頭だけまるで夢の中にでもいるようにふわふわとしている、そんな感覚だった。

 弟の死を受け入れまいとする、私の必死の抵抗なのかもしれない。


 葬儀を迎えた今も、彼の死は私の中へ浸透してこない。


 桐の棺の中に横たわった慎司は、去年の帰省で会ったときよりも色白で、少し痩せて見えた。

 慎司の周りに並べられた色とりどりの花が、慎司の白さによってより鮮やかに感じる。

 慎司の白い肌は驚くほど冷たく、作り物のようだった。


 葬式の間は、静かに涙を流す母の背中をさすった。

 母の背中がいつの間にか小さくなってしまっていたことに、慎司は気がついていたのだろうか。震える母の肩は、昔よりも骨ばって見えた。


 葬式が終わると、慎司は火葬場へと運ばれた。

 棺には、慎司の使っていた眼鏡や財布、成人祝いに家族でプレゼントした腕時計、慎司が吸っていた煙草など、いろいろなものが入れられた。


 棺が火葬炉に入れられたあと、私は火葬場の外へ出た。

 ポケットには新品のセブンスターと、安っぽいライターが入っている。

 三年前に禁煙に成功してから、一度も吸いたいと思ったことはなかったが、今日だけは吸いたい気分だった。


 慎司は私の真似をして煙草を吸い始めてからずっと、セブンスターを好んで吸っていた。


 思えば慎司は小さい頃から、私の後をつけてきては私と同じことをしたがった。


 就職活動がうまくいかなかったのも、それなりにいい会社に就職した私に負けんとして、大手企業ばかりを狙って受けていたのだろう。

 人当たりもよく、何にでもまじめに取り組む慎司のことだ。

 彼自身が選択肢の幅を狭く絞らなければ、彼を必要としてくれる企業なんていくらでもあっただろう。


 交際相手だって、もっといい人がいたはずだ。


 たしかに、慎司は麻紀さんを大切にしていたし、麻紀さんの話をする慎司は心底幸せそうだった。

 しかし麻紀さんは、自分から心中を提案しておいて、途中で怖くなり、一人逃げ出そうとするような人だったではないか。


 もっといい人と、もっと幸せに生きていく未来だって、慎司にはあったかもしれない。


 駐車場のフェンスにもたれて、煙草をくわえた。

 懐かしいにおいがする。慎司のにおいだ。


 ボッと音を立ててライターが火を灯す。火は風にあおられ、ゆらゆらと揺れている。

 くわえている煙草に近づけると、煙草はあっという間にその火を吸い、口の中に懐かしい苦みが広がった。

 慎司がこの味を感じることは、もうない。


 火葬場の煙突から、慎司を燃やした煙が出てきはじめている。

 喉の奥がぎゅうっと苦しくなる。ここに来てやっと、慎司の死が私の中に浸透してきたようだった。


 一瞬視界が濁った後、頬を冷たいしずくが伝った。


 「あんた、なんで死んだりなんかしたのよ」


 煙草の煙と共に口から出てきた言葉は、煙草の煙と共にすうっと消えていった。

 慎司の煙はまだ、煙突から空へと向かい続けている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

八日郎 @happi_rou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ