第38話 名探偵ビオラ

 名探偵ビオラ


「望は一昨日の結婚の話を聞いてどう思ったの?」

 泣き顔の菫が言った。望はここでようやく、菫が何を気にしているか分かった

「Pandoraの封印は残酷だな。ジュピターって神様は人の心に対して容赦がないな」

 Pandoraの箱を開けたとき、病気や災害の素となる数多不幸が世界に放出された。慌ててフタを閉めた。箱の中に残った物は未来を知る能力、人々はそれを封印した。

 菫は違う答えを待っているようだった

「僕の消化は早かったよ、未来の僕は随分がんばったなって感じかな。そう、僕の学力でウチの大学に受かっちゃったから奇跡に鈍感になっているのかも知れないな」

 望は、結婚をよく考えると、他人が親よりも永く一緒にいる状況が生じる。特に、女性の場合は妊娠、出産といった制約を受ける。結婚に対する考えは女性と男性で状況が違う。これは口づけや身体を許すといった突発的な衝動、いわゆる微分的な感情とは根本的に次元が違うのかも知れない。望は菫の気持ちを察すれば察するほど菫の未来に対する恐怖と戦っている事が分かった。

「紫さんじゃなくていいの?」

 望は間をあけては行けないと気付いた

「僕が結婚したいと思ったときに、近くに居なかったんだろう

 それに紫さんはもうあの頃の紫さんじゃないと思うし

 ・・・菫さんはラプラスの悪魔を聞いた事がある?」

「小夜としていた話ね。詳しくは知らない」


 現在いるこの宇宙の現在が、過去の結果であり、未来の原因であると考える。いかなる瞬間の状態(微分)にも環境とそれを構成する物質を動かす力を理解している知性は、その情報を分析・解析できるほどの巨大な知性を持ち得ているのであれば、この宇宙における最も大きな物体の運動も最も小さい原子の動きも、公式によって終結し理解できるであろう。なぜならそのような巨大な知性にとって不確かなものは存在せず、将来は過去と全く同じように目の前にある現在となるだろうからである。ピエール・シモン・ラプラス

 運良く記載された文献が望の持っている書籍にあった


「アインシュタインが取り憑かれた悪魔さ

未来は物理計算で予想できるって」

「難しいね、ラプラスは何が言いたかったのかしら?」

 望は菫が鎌を掛けているのかどうか分からなかった。これは一昨日居酒屋から喫茶店に向かう道すがら菫が唐突にした話題だった。

「例えば、サイコロで5の目を出したいならば条件と動作を設定すれば必ず5の目が出るってことかな。つまり、設定された結果に対してきちんと計算して動作や条件を決めれば意図した結果が得られるってこと」

 望はわだかまっていた菫の思いがこの話題に吸い込まれることで幾らか紛れたように見えた。やはりあのときの菫とは別人で、憑かれているときは今の菫はまったく意識がないようだ

「何となく言いたいことは分かった」

「シュレーディンガーはシーサーが5の目が出るって分かっていて賽は投げられたのかってアインシュタインに反論したらしいけど」

「そう考えると、カード占い位胡散臭いわね」

「カード占いだと、同じ占いの再現実験は禁止されているからね」

「望はそっち系はやたらと詳しいね。一昨日のお姉ちゃんも望に騙されてたみたいだし」

「先に布石を打っておいてよかった。気に入らない未来なら菫さんは変えるんだろう」

「ごめんね望、私はまだ望のことを知らなすぎる」

「謝る必要はないさ、犯人の分かっている推理小説なんて楽しくないよな、名探偵ビオラ」

「そうね、運命に縛られる人生なんてつまらない」

「あくまで、未来の菫さんが辿った道なだけ、それと、未来の菫さんは一昨日の飲み会の時はポニーテールの襟足を僕に褒められたようだし」

 泣き顔の菫が驚愕の顔をしていることが望には分かった。”あの日のすんすんと同じ髪型だね”という野暮な言葉は心の中にしまっておいた。未来の菫の時空では2人が意識し始めたのはあの飲み会が起点なのである。菫が長い髪をミディアムにした動機は分からないが、この言葉が菫の気持ちを救うのに十分だと思った

「それより、お互い棺桶に片足を突っ込んでいるから、そんな先の話よりはまずこの迷路の出口を探さなくっちゃ」

 望の言葉に菫は涙を拭いた

「そうね、もう1人じゃないもんね。頼りにしているぞ小林少年」

「御意にございます日向殿。拙者にお任せあれ」

「なによ、日向殿って」

「明智日向守光秀だよ。謀反の前に愛宕神社でおみくじを引いたらしいな」

「何がでたの?」

「大凶が2回出てその次が大吉」

「そういえば、おみくじ引かなかったね」

「引きたかった?僕は小学生の頃を最後に引いたことがないけど」

「そうなんだ、確かに今日のメンタルで凶とか出たら立ち直れない。でも明智光秀はなんで三回もおみくじを引いたのかしら?」

「現在、過去、未来または、現世、前世、来世でしょうね。菫さん、僕に歴史の話さをせちゃダメですよ。眠いときに下手なバイオリンで黄金虫の演奏を聞くぐらいの苦痛を受けますよ」

「自分で言うかな、でも、なんでこんな話になったんだっけ?・・・ああ、明智小五郎からか」

「変装癖の名探偵だね。推理小説とか好きなの」

「まあね」

「そっか、娑婆に戻ったら菫さんと推理小説の会話したいな」

「望も読むの?」

「実はTVの映画番組で見た程度だけど、菫さんが好きなら読むさ」

「俄(にわか)かぁ」

「でも、その話、菫さんはしたいんでしょう」

「・・・望」

「なに?」

「なんでもない」

「そっか、本題に話を戻すと、赤羽駅で菫さんに素通りされたとき、僕は見えていないんだと思った。僕の肉体は消滅して魂だけになっているかと思った。だから人の死ってこんなもんかと思った」

「ごめんね、いつもと違う眼鏡だから気付かなかっただけよ、そんなにいじめないでよ」

「やっと、試験やレポートから解放されると思ったが、どうやらまだ、娑婆での人としての罪を清算できていないようだ・・・

 櫛稲田姫様の御守を賜ったから、この迷路はきっと抜けられるさ」

「御守?」

「参道でした話を覚えている?須佐之男命に火を点けられた時に助けてくれた北の住民」

「あっ!」

「そう、地下の空洞だけじゃなく、須佐之男命が射た矢まで探してくれた」

「矢の尾っぽの鳥の羽の部分か、だから焦げているのね」

「もしかしたら、預言者ではなくて、本当に女神様かもしれない。推理小説みたいで胸がときめいてきたな」

 菫は大きく深呼吸した

「映画化したら私の役はどの女優さんにしてもらおうかしら」

 菫の顔に笑顔が戻った

「映画化か」

「スケベなこと考えているでしょう」

「流石は名探偵ビオラ、何でもお見通しだね。僕の場合映画は、女優さんのお色気場面目的で、内容なんかは特にどうでも良いんだ」

「作家と、映画関係者に謝れ!」

「国語の偏差値23が映画のわび・さびを理解するのは難しいだろう。邪な動機でも、映画館に足を運んで映画業界の維持、継続に貢献しているんだぜ、菫さんの前以外ではこんな話ししないって。それに予備校の恩師が言ってたな、10%の識者の為だけに映画を作ったら映画は衰退してしまうってね。映画を生業ににしている人を路頭に迷わす訳にはいかないって。それが社会の仕組みだって」

「ペテン師が、スケベを正当化するな」

 望は碧との記憶が蘇った。碧はアニメ好きだったが、望以外には言わなかったようだ。このことだけが望が持っている唯一碧の秘密だったようだ。あの頃、アニメ愛好家は協調性に乏しい人がやたらと注目されて公言するのが憚られる環境だった。

 2人の会話の時に碧はよくアニメの話をしたので、”アニメが好きなのだね”と言ったら急に不機嫌になって話題を変えた。続きを聞きたいと催促してなんとか話して貰ったことが幾度かあって、そのあと碧が自分がアニメ愛好家であることを人から見られるのが恥ずかしいと言っていた。望はやがて実写映画が衰退してアニメが席巻するから実写映画の関係者が工作活動で現状を維持しようとしているというような陰謀論を言って碧の機嫌を取っていた

「僕は、実写じゃなくてアニメにして欲しいな、大女優と腕に覚えのあるセル作成者。届けている内容は同じなのに貰っている給料が違いすぎる。だから、がんばっても正当に評価されない方々に僅かならでも反映させたいって感じかな」

「ペテン師の言葉は巧妙ね、そうやって人の心を弄(もてあそ)ぶんだ」

「コーヒーだってそうさ、コーヒー豆を木から採取している人達の給金なんて気絶するくらい安いんだぜ、もし、先進国でコーヒー豆栽培して自国の労働力で採取したらコーヒー1杯今の10倍くらいになるんじゃないか。でも僕は、そういう不条理を無視して平気でコーヒーが飲めるんだ。そんな不条理でも僕が買っているコーヒーの一部がその低賃金労働者の生活を支えているんだ。こんな話自分からは出来るけど、人から聞くのは苦痛だ。でも菫さんはペテン師と一蹴してくれるので気を遣わないで済むよ」

「ねえ、望、怒った?結婚することに動揺して」

「怒っているように見えた?」

「ずるい」

「少しも怒っていないよ、そういう質問をたった今できる人を選んだ自分を褒めてやりたいと思った」

「望を飼い慣らしたのは紫さんなんだよね」

 望は碧も桃香も祓えなかった紫の影は菫を覆っているのだと、躊躇の選択肢はなかった

「実は紫さんも未来から来た人なんだ」

 菫は握った手に力をいれた

「紫さんは大学4年のある日、中学生に戻った。そして僕と係わってしまったらしい」

 沈黙の間、望はこの話を未来の菫に話したのだろうかということを考えていた。菫も起こっている現象を処理しきれないようだ

「殿下は来年崩御されて、新しい元号になる。それを君に憑いている未来の菫さんからも紫さんからも聞いた。”へいせい”というらしい。最初に紫さんに聞いたときは半信半疑だったが、菫さんの口から同じ言葉を聞いて恐怖を感じた。来年来るその日に設定される元号を聞くのはもっと怖い。でも、もう僕の中で消化したんだ。僕は事実は受け入れることしかできない、自分で最善のことを考えて実行するというのが僕の結論だ。

 今日菫さんと二人きりで話が出来て嬉しかった。楼門を菫さん背負って走り抜けたとき、生きたいと思った。僕の人生なんて苦しい事ばかりで、良いことなんか20%くらいしかないのにそれに縋ってでしか希望をもって生きられない。それでも生きたいと思った」

 菫は力強い口調で

「紫さんが未来から来た話をして欲しい」

 望は紫との濃厚な恋愛描写を意図的に除いて全てを話した。

 望はこんな衝撃的な話をしても、真摯に耳を傾ける菫がたまらなくいとおしいと感じた。菫はこういう状況でも取り乱すことはなかった。

「もしかしたら、前橋で高校2年生の菫さんに声を掛けたことが、菫さんを異常現象に巻き込んでしまった原因なのかも知れない」

 落ち込む望に菫は

「そんなことはない、未来の私がここにきたのは、小夜の死を回避することが目的の筈だ。もし私に憑いているのが私ならばそうする」

「話が複雑なんだ。僕は未来の菫さんから小夜さんが死ぬことと、小夜さんのお墓参りに行ってその日から交際を再開させることしか聞いていなくて、小夜さんが死んでしまう理由を知らないんだ」

 菫は低い声で

「望はどうして小夜は死んでしまうと思う」

 望は菫も考えていることが同じだと思った

「多分、僕が菫さんと寝て、それをきっかけに付き合ったからだと思う」

「はっきり言うのね」

「推理に私情を入れたら正しい結論にはたどり着けない」

「望はいつから小夜のことが気になっていたの」

「多分最初から、僕は化学薬品過敏症だから髪の毛の短い女性にしか興味を示さない」

「量子さん、髪の毛は短くなかったよね」

「男女の関係になって濃厚接触するならば苦痛だが、そこまで発展しないならば、髪の毛の香をそこまで拒否する訳でもないんだ。”君と寝たいから髪の毛を切ってくれ”なんて言えるほどの漢じゃないさ。

 量子さんの場合は僕から積極的に声を掛けた訳じゃないけど、話すきっかけがあったから、それを起点に恋をしただけ、一昨日の菫さんの状況とほぼ同じだ」

「ねえ、望、奈緒が髪の毛が短かったり、望が発病しないシャンプーを使ったら奈緒に声を掛ける?」

「昨日の夕方、小夜さんに連絡をとったら、奈緒さんがいて話ができたんだ。そしたら、菫さんとだけは付き合わないでって言われた」

「そっか、やっぱり小夜は動いたか」

「驚かないんだね」

「大体予想していた。まあ、小夜と奈緒は恋愛関係だから、奈緒が死ぬなんて話、黙っているわけないよね」

「奈緒さんには、死ぬのが小夜さんってこと伝えて、僕達に任せて欲しいって告げたよ」

「あっさり引き下がったの」

「まあ、自分の生死が掛かっていたのが開放されたのでまずは一安心したかんじだったかな」

「それで?」

「奈緒さんから小夜さんのどこが好きか聞かれた」

 繋いだ手に力が入る

「それでなんて答えたの」

「碧の話をした。前の彼女が寝取られたこと。美人と付き合うと気苦労が多いから。ずば抜けて頭のいい人と付き合いたいと言った」

 咄嗟に菫が

「私、小夜より頭いいよ」

 望は想定外の言葉に面食らったが冷静に答えた

「そのセリフ小学生みたいだぞ。奈緒さんも言っていたよ、菫さんのことどう思うかって」

 菫は身を乗り出して

「望は、なんて答えたの?」

 望は口調を変えずに

「好きだよと言った」

「……望はそう言うと思った。それで奈緒さんはなんて?」

「いつからって聞いてきた」

「なんて答えたの」

「昨日飲み会で話して、小夜さんも乗り気じゃないみたいだから、菫さんに鞍替えしようかなって言った」

「それで私とは付き合うなって言ったんだ」

「小夜さんは奈緒の気持ちを知っていたから、僕と仲良くすることに抵抗があったみたい。小夜さんは奈緒さんが両刀使いなの知っていたみたいで、自分が手を引いて奈緒さんと僕をくっつけたかったみたい。

 ああ、忘れていた、小夜さんと奈緒さんが恋愛関係なのは未来の菫さんが教えてくれたことで、未来の菫さんに言われるまでは僕は分からなかった」

 望は菫は寂しい声で話すように聞こえた

「そっか、小夜は望と付き合いたい気持ちが芽生えちゃったんだ、それで自殺を考えるくらい追い込まれたんだ。

 ・・・でもそれならば、未来の私は一昨日でなくて、そう、地震の日に歴史を変えに来れば小夜は係わらずに済んだはずじゃない、何故そうしなかったんだろう?」

 望は深いため息を吐いて

「未来の菫さんは、地震の日の出来事も、量子さんと僕に前橋で出会ったこともないんだ」

「なにそれ!」

「飲み会のあの日、つまり、一昨日に僕が菫さんに恋したように、未来の菫さんも僕に恋をしたんだ。それまでの僕は”奈緒さんが気になっている人”でしかなかったんだよ」

 望は菫の手が震えていることに気付いた

「パラレルワールドの住人ってこと、私に憑いている私は」

 望は目を閉じながら

「多重世界(パラレルワールド)の住人と仮定するならば、こっちの世界の歴史を変えて一体どういう意味があるんだろう」

 <つづく>

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