第36話 水面の菫

 水面の菫


 菫が望の背中に身体を預けると、望は思ったより軽いと感じたが、言葉にはしなかった

「姫様、琴を楼門に引っ掛けぬよう、お気を付け下さい」

 菫は正月に聞く琴の音を口で奏でた

「望、急ぐのじゃ、追っ手が来るぞ」

 菫は耳を引っ張った

「御意にございます、姫様」

 望は菫を脅かすように急に速度を上げた

 菫は遊園地ではしゃぐ子供のように笑っている。望は折角なので偶然を装って菫の豊満なお尻に触れようと考えた

「須佐之男命からお逃げですね」 

 初老の婦人に声をかけられた。婦人は物腰が柔らかく上品そうに見えた

「大国主神様にあやかって娘を盗んで参りました」

 望は婦人の言葉に応えた

「おやおや、物騒なお話でございますね。でもお父様はあなたを許してくれそうですよ」

 菫は望の肩を叩いて降ろしてと告げた。望は婦人に無礼を詫びて菫を降ろした

「お見苦しいところを失礼致しました」

 望も菫も考えていたことは同じらしく、示し合わせたように頭を下げ、2人の声が共鳴した。望は菫がこういう言い回しをすることに驚いた

「鎮守にて戯れごとが過ぎました」

 望は公共の神聖な場所での行いには不適切であったと、女性の助言を真摯に受け留めた

「そんなに畏まらないで下さい、私はただの参拝者ですから」 

「恐縮です」

 望は菫がこの婦人が只者でないことを見抜いた眼力に驚いた。婦人から切り出した

「戦艦武蔵の話をされていらしたので、失礼とは思ったのですが」

 望は女性が第3の鳥居の辺りから会話を聞かれていたことに驚いた

「お恥ずかしいところをお見せしてしまい申し訳ない」

 婦人は介せず自分の話を続けた

「私の父が戦艦武蔵の乗組員でしたもので、神様のお導きではないかと、無礼と知りながらお若い2人に聞き耳を立ててしまいました」

 望は真顔になって

「ご尊父様はご健在ですか」

「いいえ、艦と運命を共にできず、フィリピンの陸戦で亡くなったと聞いています」

 望は合掌して

「お辛いことを思い出させてしまって申し訳ない」

 望は頭を垂れた

「いえいえ、あなたのようなお若い方に父親の無念を語って頂いて、草葉の陰で喜んでいると思いますよ」

「重ねて、無礼をお詫びします」

「どうか頭を上げて下さい」

 望は婦人の声に動揺が混じっているように感じた。そして嘘を言っているようには思わなかったが、違和感だけは拭えなかった。望は合掌を解くと

「戦艦武蔵の話は祖父に聞きました。僕の話はただの受け売りです。祖父のような深い思いはないのです。ただ、祖父は先の戦争で祖国を護って頂いた方には最大限の敬意を示していたので、それに倣っていました。僕が大学で学ぶに当たって、祖父の時代の人達が躰を張って祖国を護って頂いたからこそ今の環境が維持できたことが、いかに偉大であることが分かりました。それ以降は躰が勝手に動くのです」

 菫は言葉を発していない。しばしの沈黙のあと、婦人が口を開いた

「今日はお二人でお参りですか」

 望はこの婦人が宗教系の勧誘目的ではないかと直感した。もしそうだとしたらかなり凄腕の拡張員だ。

 宗教系の勧誘はその主の魅力が強いため周りが見えない、これは理科の管轄でいう微分の世界しか見えない人ばかりだ。言い換えれば微視的(ミクロ)と巨視的(マクロ)の事象を区別できない人と言えようか。

 下級の勧誘者は自分の信仰対象主が絶対の存在であるため、他の思想が間違っているという発想しか持っていない。すなわち、硬貨を投げたときの表裏のように、合か否の単純な判断能力しか持っていない。

 この婦人が宗教の拡張員という仮説を推すならば、婦人は須佐之男命や大国主神の知識を持った上で接触している。しかも氷川神社という日本有数の位の高い神社で勧誘をするというこの上ない無礼を涼しい顔で熟(こな)しているのだ。自分達が浅い理解力であると簡単に飲み込まれて勧誘される。すでに婦人は亡くなった父の話をして同情を誘っている。相当なやり手だ

「はい、私に悩み事があったので、彼を誘ってお詣りに来ました」

 望は菫がそう答えてしまったことに困惑してしまった。望には婦人の微笑が獲物を見つけた猛獣のように見えた。婦人は優しい声で

「お願い事ですか?」

 菫は笑って

「そのつもりでしたが、彼の話を聞いていたら悩み事の解決を神様にお願いすることは筋違いと気付きましたので、悩み事の解決とは違う目標を神様にお伝えしました」

「彼氏さんは随分神道の事にお詳しいのですね」

「ええ、この悩みは神様のお手を煩わせることなく、彼が解決してくれると信じています」

 望は2人の会話を黙って聞いていた。望は自分のことを”望”でなく”彼”というところに菫がこの婦人を警戒している事が伝わった。婦人が2人の会話を聞いているなら2人の名前などとうに把握しているであろうから、菫が婦人を疑っていることを伝えるにはうってつけの表現だ。

 望は自分の予想が正しいならば、この婦人はこの後2人に地獄を見せると思った。一昨日の夜小夜が泣きながら語った地獄と類似している筈だ

「まあ、頼りになる彼氏で羨ましい」

 菫も望もその言葉に返答はしなかった。10秒ほどの間を置いて婦人は懐かしむように語った

「私は主人と結婚する前はこの神社で巫女をしておりました。時々あなた位の過ぎし日を思い出してここを歩くのです。主人は根は悪い人ではないのですが、行動に乱暴なところがございまして・・・。まあ、父を亡くした上に時代が時代でしたし、選り好みできる程のものも私(わらわ)には持ち合わせておりませんでしたから。

 あら、ごめんなさい。若いお二人を見ていたら、今日はずっと言葉にはしなかった愚痴を申しても良いかなと思いまして・・・。きっと私はあなた方のことが羨ましいのだと思います」

 望は何と答えて良いか思案した。菫が先に言葉を発した

「羨ましいでしょうか?でしたら私は彼に嫌われていると思います」

 望は否定しても良かったが、婦人の返答を聞くことにした。婦人は少しだけ悩んで望に聞いた

「あなたは彼女のことが嫌いですか?」

「好きですよ」

 望は即答した。婦人はまた悩みこんで今度は菫に質問した

「あなたは彼のことが好きですか?」

「分かりません」

 菫も即答した。婦人は続けて

「彼の前でそんな質問をしてしまって申し訳ない。簡単に年頃の女性が”好き”とは言えないですね」

「いいえ、分からないのは本当です」

 菫は即答した。婦人は微笑んで

「私にはあなたが、相当彼に好意があるように見えますが」

「でしたら私は彼に嫌われていると思います」

 菫は即答で最初の言葉を繰り返した、婦人は少々険しい表情になって

「彼は、あなたのことを”好き”だと言ったではありませんか、第三者の前でそんなに簡単に言える言葉では無いと思いますし、彼が嘘を吐いているようにも見えません」

 菫は笑って

「きっと彼ならばこう思っているでしょう

 ”あなたは、言葉に支配されている。人の気持ちを言葉で表現できると考えているとしたらそれは人の傲慢だ”

 でも彼は自分に係わらない人には感情を無にしますので、丁重な言葉を駆使してお引き取り頂くと思います」

 婦人は6秒ほど沈黙した後

「それで”分からない”というのが正解なのですね。巫女を長くやっておりましたがお二人のように特別な感覚、電波のような波長とでも言いましょうか?そのような感覚を受けたのは初めてでございます。お話ができたことを嬉しくおもっております。

 先程”悩み事の解決とは違う目標を神様にお伝えしました”と仰いましたがもしお力添えできるようでしたらお手伝いさせて頂きたいのですが」

 望は菫が婦人の意向に応じる気配を読み取った。 

 婦人は菫を凝視した。望は10秒程度のこの時間がとても長く感じた。凝視に対しても菫は微塵も圧倒される様子はなかったように見えた。凝視の後、婦人は表情を緩めて望に言った

「彼女と2人で話をさせて頂きたいのですが、2~3分で構わないので、よろしいですか」

 望は菫を見ると頷いて返した

「僕がいてはお邪魔でしょうか」

「はい、邪魔でございます」

「先程お目にかかって、彼女を渡せとは容易に了承しかねます」

「それはごもっともでございます」

 菫は笑って

「この方に彼の愚痴を聞いてもらいたいからいいでしょう?」

「でも姫様、島には宮本武蔵の手の者が潜んでいると思います、あの漢ならばそうする筈です」

 婦人は突然歌を詠んだ

 はなの香を

  みそぎてのぼり

 八雲立つ

  さけにおぼるる

 都牟羽(つむは)の夢や

 婦人は菫を見た後、望を見た。菫は望のジャケットを引っ張り”返歌、返歌だよ。私(わらわ)に恥をかかせないで”と笑いながら言った。望は1年半前のセンター試験の日に大田原真希に英会話に付き合わされたことが蘇った。あの日も久保紫、黒羽量子、そして大田原真希に格好を付けるため苦手な英会話に応じた。佐々木菫の前で短歌が詠めない姿を見せるのは名折れだと思った。恐らく須佐之男命のことを詠んだ歌だと思ったが自分の知識ではそこまでであった。この歌の”はな”は”花”と読ませる引っかけ問題で、黄泉から帰った伊弉諾尊が禊ぎで”鼻”を洗って須佐之男命を誕生させた故事にちなんでいるだろう。ただ”都牟羽(つむは)の夢”は聞いた事のない言葉であった。刹那太田道灌と山吹姫の話を思い出して、恐らく婦人は自分が”菫さん”と呼んでいることを知っていることを踏まえて、わざと鼻を花と間違えて伝えることにした

 かほりなき

  水面の花に

 こがれれば

  水にはいりて

 まぼろしを識(し)る

 望は菫は目を丸くしているのが愉快だった。よもや返歌が詠めるとは思わなかったのだろう

「1年半か、長いな」

 そう呟いて遠い目をする菫の美しさに望は見とれていた。黒羽量子の歴史道を通っていたとすれば菫は1年半前、センター試験の日に出会っている。もしかしたら菫が示唆しているのは偏差値23の模擬試験なのかもしれない。

 浪人をした1年で化学講師と古典講師に出会えたのも大きな人生の財産になった。古典講師に国語の学力が乏しいことを相談したら、的確な診断と助言を与えてくれた

「君が考えていることはとんでもなく高貴なのかもしれない。科学者や職人が自分の専門に関しては卓越した才覚を発揮するのに、それ以外のことは全く一般人以下のように振る舞ってしまうように。

 職務上こんなことは言いたくないのだが、君にとっての言葉は道具に過ぎないと考えた方がいい。言葉は自分がどう理解するかでなくて、周りの人間がどういう風に理解するか考えるといい。

 君は理系専攻だからあえて言うけど、君の世界には言葉に対する公式などというものを考えない方が良いかもしれない」

 望はその言葉を受けてから言葉に対して、自分の解釈の他に、他人ならどう解釈するかを考えるようになり、補正をしていった。

 浪人をした最初の模試結果で国立大学進学を諦め私立大学に意向を変えていた。両親には国立志望と嘘を吐き通した。実を言うと祖父と同じ大学に行きたくて今回のセンター試験は未補正の自分の解釈で国語の試験に臨んでいた。自分の言葉の解釈を試験という客観的な判定でどれだけ通用するか分かる最後の機会でもあった。今日の時点で考えると祖父と同じ大学でなくて紫の望んでいた大学に行きたかったのが潜在動機かもしれない。

 短歌はカメラやフイルムという道具を言葉に換えた芸術作品だと望は考えている。七五調のパズルのようなもので、単語に量(エネルギー値)を与えれば、それをつなぎ合わせて、他人が解釈できるように補正すればいい。これも予備校の古典講師の影響である程度身についていたことと、小夜に拒絶された後は勧修寺有美の友人である自称清少納言の友人”みくり”を紹介してもらうつもりだったので、1,000歳にもなる彼女に失礼のないように短歌ぐらいは詠める位の嗜みは身につけていたのだ。

 短歌が平安時代の貴族が女性を口説くために利用された文学ならば相性が悪い訳がない。下心を相手に読んでもらってそれを二人で楽しめばいいだけの話である。その上、私立理系の人間なので、肩書きを背負っているわけでもなく作法が未熟でも蔑まれることはない。自分は格下の階級(ヒエラルキー)で同じ土俵に上がっているわけではない。ただ、彼女がしたい話題に自分が対応できることを示せれば、それ以上の野望があるわけではない。

 一方、望は菫には小夜の量子論やみくりの古典文学のような事前準備をなにもしていない。それなのに菫に特別な気を遣うこともなく会話が円滑に行われていることが不思議だった。これは、菫が自分に対して気を遣っているのだとしか思えなかった。

 刹那、一週間後に自分が消滅する決意が揺らいだ。この美しい菫の顔が年老いてしわくちゃになるまで見ていたい衝動に駆られた。

 菫は女性に向かって

「3~4分のお話でしたら承ります。それと彼が心配していますので楼門の中でお話をさせて下さい」

 菫は望に向かって

「宗教の勧誘とか工作員じゃないと思うから、少しだけ池の橋の上で池の水面でも眺めていて」

 望は咄嗟に菫を抱きしめた

「もし、君がいなくなったら僕は黄泉の国まで君を追う」

 菫の髪はハットトリックの香を放ち望の鼻を酔わせる。望は昨日の小夜との出来事も忘れ、小夜の命もどうなっても構わないと決断した。菫はいつもの口調で

「望は、どさくさに紛れてこういうことする、すけこましね。

 ・・・ここで終わったら悲しいね。でもここは氷川神社だから大丈夫だよ」

 望は手を解いて菫から離れた。婦人は何事もなかったように二人の行動を見守っていた。菫が2回頷いて望に笑顔を送った。婦人に促され楼門の中に入り立ち止まって話を始めた。望は約束を守って神池の橋まで歩いた。池の水面には割り箸が浮いていた。望は神聖な神池に割り箸を捨てる不届き者がいるのかと怒りを覚えた。楼門を見ると2人が話している姿が確認できた。菫でないのでこの位置では会話が聞き取れない。ただ、菫が穏やかな顔で婦人の話に対応しているのに安堵した。この眼鏡は運転免許用に作ったので度が強い。

 望は2人の姿を遠目で見ていた。菫がこちらを見たので慌てて水面に目をやった。すると先程まで見た割り箸がなくなっていた。慌てて楼門を見ると菫がこちらに向かって歩いていた。望は急いで菫の元に駆け寄った。

「大丈夫だったか?不快なこと言われなかったか?」

 菫は笑顔で

「大丈夫だよ、あの人巫女さんをやっていたと言っていたけど、神社の関係者には間違いないと思う。それより凄い物もらっちゃった」

 菫は望に小さな櫛を渡した

「確かに凄い、素材は珊瑚かな?」

「そうなのよ、頂けないと言ったんだけど、御守りになるからって、それと望にもこれ」

 菫は一部焼け焦げた鳥の羽を渡した

「渡せば分かるって言ってたけど、分かる?」

 望ははっとして

「あの婦人は?」

 菫は振り向いて探したが、婦人の姿はなかった。望は菫の手を取って婦人を探したがどこにも姿がなかった

「お礼、言いそびれちゃったね。あの方、神様だよ」

 2人は本堂に向かってもう一度手を合わせた。

 <つづく>

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