第31話 べき乗で見える虚数を含む三角関係
べき乗で見える虚数を含む三角関係
更衣室で望は消滅する自分の恐怖と戦っていた。蘇った記憶、短い口づけの後、言葉を発しなくなった紫。多分あのときの紫の心境と今の自分はきっと同じだと思う。あの日、自分はずっと紫といることを選んだ。それは富樫望が消滅することも含めた覚悟だった。しかし紫は望を同行者に選ばなかった。紫は随分前から来るべき時の覚悟をしていたのだと思った。
望の考察では巴の最後の依頼を達成したとき自分は消滅する。跨線橋の口づけや、すんすんと腕を組んで歩いた前橋の夜のように実体がなくなってしまうのだろう。人間如きが時間を弄んで只で済む筈がない。”よく効く薬には副作用が大きい”そう前橋ですんすんが教えてくれたことを思い出した。これは作家が描いた小説の物語ではないのだ。
あの日、沈んで口を噤んだ紫に対して何もすることができなかった。蘇った記憶に刻まれた望の追憶。あのとき一体どんな手段が適切だったのだろうか。もし、自分が消滅した後、口づけを交わした紫と同じ場所に行けて再会できるのならば、しゃにむに謝って、”もうどこにもいかないで”と抱きしめたい
「えっ?」
昨日、巴が話した未来の回想場面で自分が言ったことだった
「菫・・・」
着替えを終えて外に出ると小雨が降っていた。
碧と唇を重ねた日も雨だった。望は昨日、菫のために碧を悪者にしたことを申し訳なく思った。この雨は碧が降らせた涙雨かもしれない。
望は、電話で済ませるつもりだったが、小夜の家に行くことにした。今できる最高のことをしよう。もう自分に残された時間はあまりないのだ。
お茶の水で下りて中央線に乗り換える。東京の雨は鉄の匂いがする。地元にいた時の雨は草の匂いがした。薄暗くなった東京の空を見上げながら望は終焉の恐怖を忘れる努力をしていた。
朝乗った電車が今、南に下っていく、故郷から、紫や斎藤の思い出からどんどん離れていく気がした。平将門の東京駅、朝は物見櫓でこの世界を見下ろす余裕があったが、今は電車の窓から切り取った東京の風景しか見えない。望が切り取った風景には、東京という大都市がこぢんまりと雨に霞んでいる。
将門の首は誰かが盗んだのだろう。首がなくなれば復活したという物語が作れる。それだけの理由と言って良い。
小夜の先祖の藤原秀郷は思慮深く用意周到だった。討った将門の身体をバラバラにして埋めた後、時を経た憂いをなくすため、妾の生ませた自分の子供達にそれぞれの場所で護らせた。秀郷の子供達も優秀でその場所を他言せず、子孫代々それを引き継いだようだ。その身体は地元足利に埋められているが、地元の人でもこの話を知っている人が僅かしかいない。この話は斎藤から聞いた。
有名大学の名前を背負った史学教授が「将門の首は飛んでここまで来たのです」といえば、裸の王様と同じ現象が起こる。”こいつバカじゃないか”とはならず、みんな見えない衣装が見えてしまう。いや、この場合見えないエネルギーか。肩書きというものは魔法と属性が一緒である。自分の学んだ理科の知識よりも有名大学の肩書きをもった者の意見。現在物理解釈を完全に無視して背景の根拠もなくても肩書きのある者の方が支持される。たとえどんなに不条理でも肩書きという理論根拠が証明してしまう。自分は肩書きだけを欲する人にたくさん出会った、例えばあのアインシュタインの顔に似た国語の先生もそうだった。復讐できずにここで終わるのは無念だが、仕方がない。そもそも巨視的に見たらたいした話ではない。
望は一つ閃くことがあった。肝心なことを忘れている。肩書きを持ったらそれを維持しなくてはならないし、肩書きに見合う振る舞いが求められる筈だ。戦わないし、政(まつりごと)にも興味のない平将門は意味がないし、教養の低い学生相手に先生という肩書きを持って向上心もなく偉そうにしている人間も意味がないと思う。もっとも残された時間で向上心を考える自分も愚かである。自分はもうすぐ大学生という肩書きを合理的な方法で放棄できるのだ。ウチの大学でないとそう考える人は稀少だろうが。
望にはまだ冷静で考えられる見栄が残っているようだ。そもそもの定義として”首を切られた人間が生き返る事はない”ということに終始すべきである。意味のない仮説に時間を割くのは合理的ではない。なぜこんな簡単なことに気付かずムダなことを考えていたのだろう。神道の発想や坐禅の境地、望は少なくともこの時点で宗教の教えに逃げたくないと思った。
アインシュタインの隠れた変数(hidden parameter)について3人分の頭脳を持つ天才フォン・ノイマンは悪魔の証明をしたわけだが、それより簡単にグレーテ・ヘルマンは定義がおかしいと指摘している。考えておかしいことは多くの場合、その定義がおかしい。なぜか望の嫌いな人達の共通点は定義がおかしいことを検証せず、瞬時的に起きた事象、すなわち微分値を以て法則に括る傾向が強いことに気付いていた。
終焉の時が近づくと”人”はこういう複雑のことを考えるのだろうか。いけない矛盾している。マクロとミクロがぐちゃぐちゃだ。”人”とは範囲が大きすぎる。結論を誤魔化そうとしている自分が恥ずかしい。
南へ南へ。
シュレーディンガーの猫、小夜ともっと議論したかった。小夜や自分のようなコペンハーゲン解釈論者ならば扉を開ける前の猫の状態など意味がないと一蹴してしまう話である。望はいまこの部屋に放射能物質とガイガーカウンターと毒薬の入った瓶とガイガーカウンタ-に繋がれた破壊装置と猫の姿に見えるメフィストーフェレス(悪魔)と一緒に閉じ込められている。
おそらく観測者(measurement)が確認したとき自分とメフィストーフェレスは消滅していて、生きているか、死んでしまった”猫”のみその部屋で目撃される筈である。
そう、観測者にとって僕は扉を開けた時点で消滅して、もともと自分はこの部屋に僕自体はいなかったと収縮され、確定するだろう。
だから僕は破壊装置の電源を抜いて個の単位時間内に起こる何百万回と予想される核崩壊で発射される放射線の1つをガイガーカウンターが感知してもメフィストーフェレスが準備した猫を殺さないようにしてやろうと思った。
自分に今できることはそんなことだけだ。
望は、今センター試験の帰りに起きた記憶が2つ存在することこそが、シュレーディンガーの猫そのものだと思った。当事者の小夜に相談していいのだろうか?渉師匠や有美ならばもっと適切な助言を得られるかも知れない。しかし将来有望な2人を巻き込むことはできない。巴と心中して、小夜の命を護ることが自分のできる最高の結果だと思った。
消えた後、誰も自分のことを覚えていないことは悲しいが、生のあるうちは自分の出来る最高のことをしようと思った。所詮自分はこの程度の思考力しかない。配られた手札に足された結果はこれだけなのだ。
望は、駅を下りると真っ先に「天河」に向かった。昨夜小夜の家まで自分を運んでくれたのは店主に違いない。
暖簾を潜ると店主の威勢のよい声が聞こえた。覚えのある声だ。
「いらっしゃい、あっ望君かい?」
店主のは厨房からでて望を迎えてくれた。
望は深々と首を垂れて昨日のこと詫び、お礼を言った。主人はそんなことよりもと、望の体のことを心配したうえで、今日わざわざ出向いたことを賞賛した。望は昨日の代金を支払いたい旨を伝えると、小夜が支払ったということだった。
店に寄ること勧められたが、これから小夜の家に行くのだと言ったら、満面の笑みでまた来てくれよと言った。望は昨日のお詫びをもう一度伝え店を後にした
近くの公衆電話で小夜のメモを見た
「小夜さん、汚ねぇ字」
望は思わず声が出た。そして笑った。お陰で緊張しないで番号を押せた。
4回呼び出したあと女性の低い声が聞こえた。小夜の声ではないことは直ぐに分かった
「富樫と申します、小山さんのお宅でしょうか」
「君たちは電話をする仲なんだ」
望は面食らったが、聞き覚えある声だった
「好きです。結婚して下さい」
「ははは、不束者ですがよろしくお願いします」
「小夜さん、僕を仕合わせにして下さい。26次元の世界であなたの紐として存在させて下さい」
「ブー、奈緒だよ。なんで望が幸せにしてもらうんだよ」
「絶対僕より小夜さんの方が稼ぎがいいでしょう」
「そんな奴に小夜はやらん!」
「奈緒さんはいつから小夜さんの親になったのですか?いとおしい小夜さんに替わって下さい」
「ははは、小夜はいまウンコ、そんなことよりプロポーズなんて初めてよ。少しだけ興奮した。私で良ければ結婚してやるぞ」
「ごめんなさい、僕には心に決めた人がいるんです」
「奈緒様に恥かかせたね。お前の好きな人はもうすぐいなくなる筈だ」
「美人で頭が良くて、器量も気立もいい人が簡単に僕なんかに結婚するなんて言わないで下さいよ」
「望ならば考えてもいいぞ!」
「貴様メフィストーフェレスだろう?何を望んでいる?もうお前に渡すものなんかないぞ」
電話の向こうで小夜の声がした。電話の相手が替わった
「望なのね」
「来ていたんだ、奈緒さん」
「話せなかった」
望は小夜と奈緒の温度差が違うところで察した。小夜と奈緒が直接話されると厄介だったが、巴が言う小夜と奈緒の意関係を知れば想定していなければならない話だった
「大丈夫、僕が話す。昨日はごめん。さっき天河のご主人に会ってきた。お金小夜さんが払ってくれたんだって?」
少々の沈黙の後小夜は小さい声で
「近くにいるの?」
「食事用意していなかったら一緒にどうだ?」
小夜がくしゃみを1つ
「大丈夫?昨日は遅くまで突き合わせちゃって申し訳ない。風邪をひかせちゃった?」
「私、私ね、
楽しい事があったの・・・
それでねあまり興奮し過ぎて
裸で寝たの
子供の頃、雛人形の長柄銚子を持っている官女
裸にしたの
両親は驚いて私に人形を近づけなかった
昨日20年ぶりにお人形遊びしたの
とても楽しかった
そして何度も登ったの」
望は小夜の発言に言葉を失った、近くで奈緒も聞いている筈だ。小夜は続ける
「面白いのよ
私を女として見てくれて
私のしたい話のことを知っていて
私の話を真剣に聞いてくれる
夢だと思った
まだ私の中に女が残っているかもしれないって思った」
「小夜さん」
望は小さく言葉を入れた
「でも嫌なの女でいる私が嫌なの
他人から他の女と比較される私が嫌なの」
「小夜!」
奈緒の声とともに電話が切れた。望は慌てて小夜の家に向かって駆けだした。
呼び鈴を押して名前を告げると奈緒が出てきた
「家、知っているんだ」
望は黙って頷いた
「小夜さんから話を聞いたのかい?」
「何の話?」
泣き顔の小夜が出てきた
「望、ごめん、私、私は何も話せなかった」
「小夜さん、上がってもいいかい?」
「ダメ」
「えっ」
「1人にさせて」
奈緒が寂しい声で
「私、邪魔だよね。帰るね」
その言葉を聞いた小夜は奈緒を激しく抱きしめた
「嫌、奈緒行かないで」
望は静かに扉をでて階段に向かった。巴から話を聞いていなければ取り乱すところであった。望は身の回りに不思議なことが起こりすぎて自分の感性が麻痺していると信じた。
望は階段を下りて外に出て、小夜の住むアパートを見上げた。小雨が心地いい、鉄の匂いのする雨が頬を濡らす。何度か深い呼吸をして、傘をさし駅へと向かった。「天河」まで来ると昨夜の記憶が蘇った
”まさか?”
昨日眠りに落ちる前に見た小夜の悲しい顔が蘇った。
”まさか、僕と菫を付き合わせるためにわざと身を引いたのではないか”
望は昨日は話した感じだけでもそう感じた。次の瞬間、小夜はやはり死を選ぶのではないかと思った。望はまた小夜の家に早足で向かった。
階段のところで沈んだ表情の奈緒に出会した
「望、まだ死にたくないよ」
奈緒は泣き顔になった。咄嗟に望は
「大丈夫、奈緒さんはこの件で巻き添えにはしない。安心して」
奈緒は望に抱きついた。望は本人が自称する有美に勝っている事実が検証実験なしに嘘でないことが分かった。こんな場面で何を考えているのかと恥ずかしくなった。住職から教えてもらった。この世に神様はいない、もしくは神様はいるかも知れないが、人の幸不幸には係わっていない。お釈迦様が産まれる100年前のはじまりの思想だ。
望はもしかしたら神様はいるのかもしれない。残り少ない余命を憐れんで御利益を賜ったのだろう。崩れる奈緒を抱き留めながら、桃香が奈緒位自信が有ったらきっと好きになっていただろうと思った。なぜ自分は他の女性のことを考えているのだろう。数十秒時間をおいて望は静かに奈緒に話しかけた
「奈緒さん夕飯は?」
泣き声の奈緒は答えてくれた
「まだだけど」
「奈緒さんは嫌いな食べ物ある?」
少しの沈黙あと
「貝類と茸の匂いがダメ」
「夕飯をおごるよ、駅前にパスタ屋さんがあったんだけどどうかな?」
奈緒は望から離れて
「誘い方・・・随分手慣れているね」
望も”誘われ方、随分手慣れているね”と思ったが、これだけ美人で愛想が良ければ断るのが大変なくらい言われているのだろうとだけ思って言うのを止めた
「付き合った女性は1人…だけだけど」
「私には嘘を吐くんだ」
奈緒が涙を拭った
「未遂が何件かある。量で言えば1.5かな」
「事情聴取が必要ね。ごはんご馳走になるわ」
「光栄です。事情聴取はお手柔らかにお願いします」
「・・・パフェが食べたい。食後に」
望の脳裏に菫が過った。菫が奈緒が両刀遣いであるかをしきりに小夜に聞いていた事を思い出した。奈緒が自分のことが好きな仮定も無視できなくなった。
「ファミレスにするか」
「小夜は呼ばなくていいの?」
「小夜の話になる。2人で話したい」
「お手柔らかにお願いします。そしてさっきの望の言葉・・・”安心して”信じている」
「申し訳ない。こんな美しい方との席なのに甲斐性が無くて」
「望ってさぁ、そういうこと簡単に言うよね」
奈緒が笑ってくれた
「僕はあまり頭良くないから、女性に嘘吐き通す自信がないだけ。
インチキ占い師ははったりが商売道具だから」
「私のこと美人だと思っている」
「自分で思っているくせに」
「望はずるい」
「奈緒さんは美人ですよ。僕に言われても嬉しくないでしょうけど」
「望はずるい、特にこういうところで女慣れしていて、すらすら言葉が出てくるところが。特に、菫にそういう言葉を使うところも」
望は自分がからかわれているのだと信じたかった
「こんな美しい女性と二人きりで食事できるなんて、もう起こらないでしょうから、気が変わらないうちに行きましょうか」
「うん、・・・ねえ、望、紫さんって美人だったの」
望は奈緒の顔を見つめた後、遠い目をした
「もう、小夜さんったら自分から奈緒さんや菫さんに紫さんのこと話さないでって言ったのに、もうこの契約は破棄だな。
質問の答えは美人だったよ、でも僕の好みのタイプじゃなかったけど」
「望も顔で選ぶんだ・・・傘ひとつでいいね」
「奈緒さんと一つの傘なんて、夢みたいだな。
選んだんじゃないよ、選ばれなかっただけ、そもそも相手を選べるほど僕は商品価値ないし。
写真をやってるから巨視的に美人な人は美人って言ってるし、中学の時はデブでバカだったので美人と一緒にいるのが辛かった、だから他人にはこう言っていたんだ」
望が左手で傘を持つと、奈緒は望の右側に廻った
「手、繋いでもいい?」
「ダメ、僕の右手の手の平は呪われていてまだ祓えていないから、今触ると助けられないかもしれない」
「じゃ、これなら大丈夫ね」
望の腕に奈緒の豊満な感触が襲ってきた。奈緒は望と腕を組んだ
「このまま僕は消滅してもいいな」
望は巴が自分が奈緒から僕を奪ったという件を思い出した。胸の感触はいいが、奈緒の髪の匂いは頭痛を誘発する。淡い夢から覚めていくようだった。
奈緒は道すがらたわいもない学校の話をした。桃香としていたような話だ。美人というのは男の扱い方に慣れている、桃香のぎこちなさが懐かしく思えた。
奈緒は一通り自分の話をして望が冗談を交えた相槌をしていると突然
「望は腕を組んで歩くのは久しぶり?」
「初めてかな?」
「紫さんとか碧さんとは腕組まなかったの?」
望はいよいよ本題に入ってきたなと思った。奈緒は小夜から2人のことを聞いたのだろう
「そういえば、碧さんとは腕組んで歩かなかったな、紫さんは”友達”だったし」
「”友達”ね」
望は奈緒がどんな回答を期待しているか予想できなかった。奈緒は自分から回答がでるまで喋らないように見えた
「そういえば、2年前に一目惚れした人と腕組んで歩いたな」
「望って、見かけによらず積極的ね。望が一目惚れする人ってどんな人」
「それは秘密にしておきたい話なんですけど、話さないとダメ?」
「ダメ」
望と奈緒は、ちょうど目的地に到着した。レストランは2階にあった。望は傘を畳んで菫と小夜の余韻の残る右手を奈緒に差し出した。
「結構空いているね」
望は待合リストに記入する。待っているのは4組だった。
望は奈緒と並んで待合室の椅子に座った奈緒の座る動作が美しく見とれていた。望の視線に気付いた奈緒が
「望ってさ、お尻見る目いやらしいよね」
「人には言えないけど、女性の腰回りに一瞬で虜ににされてしまう変態野郎です僕は」
「望に最初に話した時、目線が他の人と違ったから何となく気付いていた」
望は奈緒の場合、いつも胸の見られるのだろうなと気付き、わざと話の方向を変えた
「腕組んだその人、出逢った中で最高の腰回りだったな」
「ふ~ん、それで、鼻の下伸ばして声掛けたんだ」
望は奈緒に違和感を抱いた、今話しているのは大学の同級生の筈だ。
「そういう訳じゃないないさ」
望は、2年前に起きたセンター試験の帰りの話を始めた、一瞬躊躇したが、奈緒は、巴が起こしたこの物語の出演者に疑いないので、話を止めなかった。
紫と3年ぶりに偶然出会って話し込んだこと、すんすんと名乗る女性が会話に加わったこと、すんすんが望と紫が付き合っていると勘違いしたこと、すんすんに彼氏がいたことを話した後
「すんすんは僕に彼氏の愚痴を聞いて欲しかったのだと思う」
と加えた。少しの考え込んだ奈緒は
「紫さんの前でなんて誘ったの」
横顔の奈緒は美しかった。”すんすん”の呼称に触れない奈緒もまた凡人でないことは明確だと望は思った
「駆け落ちしましょうかって誘った」
奈緒は望の顔を見た。望の200 mm先には奈緒の潤んだ唇があって、発声する言葉に困っているように見えた。望はその唇の動きに果実の瑞々しさに似た誘惑を感じた。
「それですんすんさんは」
「笑ってたよ、足利駅を下りたあと、閉まる扉にもう一度すんすんのいる車両に飛び乗ったんだ」
望は窓越しに夕焼けを描いた絵画を見つめる少女の目を連想させる、美しく切ない紫の目を見えなくなるまで見ていた。すんすんはその場面を無言で見守ったあと、望の背中に抱きついた。
すんすんはそれができる女性だった。だからあの日の自分は一瞬で恋に落ちた。
「美しい腰回りは”きっかけ”のひとつに過ぎない」
望は奈緒には言わなかったが、背中の感触は到底奈緒にはかわないが、菫のそれが寂しくなるくらい刺激的なものだった。
刹那、望の脳裏に大学に入学して数週間後の菫との思い出が蘇った。もう沢山だと望は思った。自分はこの時空にいてはいけないのだと。コペンハーゲン解釈を読んでいなければ気が狂うところだ。
「”そして今は来た”ってことは駆け落ちは未遂ね」
すんすんは自分が降りる山前駅で降りず、望といてくれた。
「そして今の奈緒さんと僕みたいに隣に座って彼氏の解決策のない愚痴をひたすらに聞いた」
「私の知っている、望らしいね」
望は奈緒も望が感じている違和感に気付いているのだと思った。
伊勢崎駅を通過する当たりでお互い悪魔の見せた夢から覚めた。そのあとは今日の奈緒にした対応と同じで、すんすんを食事に誘って前橋で下りた。すんすんは前橋にいる時だけは恋人同士でいようかと提案した。望は黙って手を繋いで、すんすんに答えた。
すんすんはピザが食べたいと言った。望は2人がここでは恋人同士であることを実感した。望も交際経験者だった。
望はすんすんと手を繋いだまま、道行く女性に声を掛け美味しいピザの店を聞いた(スマホのない時代です)。迷惑そうな顔をして答えてくれない人もいたが何人かは親切に答えてくれた。
最後に話した女子高生はすんすんに感じの似ている人だった。彼女は親切に場所だけでなく、オススメのピザまで教えてくれた。望とすんすんは丁重にお礼をした。すんすんは一緒にどう?とまで言った。彼女はきちんと状況をわきまえていてお誘いを断った。望は、世の中がこういう人だらけだったら快適な世界だろうと思った。
女子高生を見送りながら生まれ変わったらあの娘の椅子になって座ってもらいたいと言ったら。強めにすんすんに殴られた。
すんすんは繋いだ手を振り解くと、自分の目の下に指をさし、舌を出した。次の瞬間、望の右手を取って腕を組んだ。行こうかと笑ったすんすんの細い目は望の一生消えない映像として刻まれる筈だった。しかし、この貴重な想い出もどこかで消えて今日まで忘れていたのだ。
食事の後、前橋の街を腕組んで歩き、東に向かう電車に乗った。2人には昨日と変わらない明日に向かっていた。
望は、ここまで奈緒に話し、この後の出来事は話さなかった。2人を乗せた列車は桐生駅であたかも終点のように周りの人が降りた。この茶番劇を締めくくるにはいい条件が揃った。望は黙ってすんすんを見つめた。すんすんは、瞳を閉じた。動作に入った刹那、望は考え直した
「明日があるかもしれないから、明日に取っておこう」
すんすんは、目を開いて笑った
「むらさきに謝らないとね」
「紫さんは螺旋階段の上にいる人だからね。僕の脚力じゃ追いつけないかな。
でも、見上げると紫のパンツが見えるかな」
すんすんは笑いながら
「彼のこと、もう一回頑張ってみるね」
「すんすんさんが選んだ人なら・・・」
望はそこで言葉を止めた。
奈緒に凝視されるのは刺激的で望は微笑むことしかできない。髪の毛の匂いがなければ理性はとっくに失われていた筈だ。
「今でも後悔しているんだ、どさくさに紛れてすんすんのお尻触っておけば良かったと」
「望! 私は少しだけ感動しているのにオチをつけるなよ~」
2人は笑った
「お姉チャン僕ね、先生に褒められたの!」
望の見る限り、奈緒に話しかけた少年は小学生の低学年位に見えた。奈緒の知り合いの感じはしなかった。少年は先生に褒められた話を幾つもして、奈緒は、褒めるだけでなく一言を加えて子供に返答した。子供はみるみる上機嫌になり、たくさんの言葉を奈緒に投げかけた。
望は、自分の隣に座っている人が天人であると疑わなかった。すると今度は小学生の高学年の子供が望に話しかけてきた
「どうすればこんな美人と仲良くできますか?」
<つづく>
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