第30話 確定していない過去~神様はサイコロを振って未来を決める
確定していない過去~神様はサイコロを振って未来を決める
「望君は随分大物になったね」
紫の母親は静かに自分達に起こった事を説明した。
紫の時間は1989年9月22日まで進んでいた。その翌日は9月23日でなく、1982年4月1日だった。望のいる世界は本日1987年1月25日である。
1989年9月22日の時点で紫は医学部の3年生だった。時間を移動したのは紫だけでなく、紫の母親も移動したという。紫の家族は父親と弟の4人家族だったが、時間移動したのは紫と母親だけだった。時間移動した話は家族にもしていない、この話を他人にするのは望が初めてだという。
1982年4月1日以降は2人は2回目である。1回目と2回目の世界には違いがあった。1回目の世界では紫は望に会っていない。しかも、望の通っている中学にも転校していない。紫の父は医者で総合病院勤務だった、独立を考えていて開業する地所を探していた。紫が小学生のとき、望の住む地区に開業に適切な物件があったが、諸事情で見送った。
紫が中学の時、望が住む地区でない場所に好物件があり、紫の両親は独立して開業を決心する。紫が高校1年の時に引っ越しをした。このとき紫の弟が新しい中学と折り合いが悪く不登校になってしまった。弟はその後なんとか高校に合格できたが、人生の歯車が狂ってしまい、1989年時点で大学に合格できず浪人生だった。そして、模試の成績も思わしくなく、翌年の合格も厳しい状況だった。
人嫌いの紫は、不特定多数の人と接する医者にはなりたくはなかった、大学では物理系中でも素粒子を学びたいと考えていた。しかし、弟の成績が思わしくなく、折角開業した病院が自分の代で途絶えることを恐れた父親が、紫が医学部に進むことを切望して譲らなかったという。
母親は息子の行く末を案じていた、そして、最初の物件で決めていればという後悔の念に駆られたという。母親は1989年9月22日に紫に愚痴を零した。母親と紫は翌日起きると1982年4月1日で最初の物件を入手している状況だったという。
2人は直ぐに1回目の世界に戻れることを疑わず、2回目の世界の新しい人々との関わりをなるべく避けようとしていたが、望のことを不憫に思った紫は望に係わってしまった。 しかし、2人の予想に反して1987年の今日まで2回目の世界で過ごしている。
2回目の世界では紫の弟も不登校にならず、成績も優秀で医学部も問題なく進学できそうだった。そこで紫はかつての希望通り物理科の進学を望んだ、しかし紫の父は紫の進路に反対して紫も医者にしたい意向だった。紫は父親を説得して、父親の指定する難関大学の物理科なら進学を認めるということを取り付けた。紫にとっては1度受験済みのセンター試験なので難関大学でも手の届く状態だった。しかし、この約束の1週間後、1回目の世界では起きなかった父親の病気が発生する。紫も紫の母親も歴史を変えることはとんでもない副作用が起きるのではないかという恐怖に襲われたという。
「で、望君はどうする?」
紫の母親は望に難題を突きつけた。
望はここで迷いがあることが悔しかった。紫の母親は
「ちょっと、念入りに化粧を直してくるわ、10分位掛かるかな」
そう言って部屋を出た
「紫さん、僕はずっと一緒にいたい。どんなことが起こっても、他の人がどんな被害を受けても」
紫は何も言わず、望の手を取ると微笑して唇を重ねてきた。望は紫を力一杯抱きしめ激しく唇を求めた。紫の舌が望の舌を求めて蠢いていた。望は誘われるまま舌を絡ませた。 望は目を開き紫が紫であることを確認した。2人の目から止めどなく涙が流れた。望はこの時間が永遠に終わらなければいいと思った。
紫は唇を離して望の両肩に手を乗せた
「望、ありがとう」
紫はもう一度軽い口づけをした
紫は涙を拭うとそれ以降、望が何を問いかけても言葉を発しなかった。
紫の母親が部屋に戻ってきた。
「望君、センター試験どうだった?」
望は涙を拭うと
「ダメでしたので、浪人しそうです」
3人は無言のまま食事を済ませて、駅まで送ってもらった。紫は車の助手席に座って一切言葉を発しなかった。
**********
紫を追って螺旋階段を上ると、展望室にでた。そこには紫がいなかった。展望室に通じるのは螺旋階段のみだが、紫に追いつくことも、紫とすれ違うこともなかった。そして展望室にも紫はいなかった。
そして今は来た
昭和63年グレゴリオ暦1988年10月8日朝 曇りの土曜日 東京
黄色い電車は小岩駅に到着していた。望は紫との口づけの記憶が消滅していたことに驚嘆した。巴と呼称する未来から来た菫と同級生の先輩であるゆき先輩が消された記憶を呼び戻してくれたのかもしれない。
昨日の酒で頭痛がまだ残っている。斎藤とゆき先輩に会ったのは1987年7月だった。これは夢でなく事実の話である。なぜなら冬に2人が激励を兼ねて予備校に会いに来てくれたのだ。そのときは恩師も含めて4人で30分ほど話した。美人の記憶は鮮明に残っている。雨上がりの7月の空に捨てた紫の思い出にはセンター試験の日の口づけの記憶が残っていなかった。
望の頭脳でも考えられる理屈は、センター試験から7月の間に紫が元の世界に戻ったということだ。しかし、斎藤の記憶には中学のときに紫と自分の記憶が存在する。一体どういうことなのだろうか?もし、元の時空に戻ったならば同じ中学に通っていないはずだ。存在を全て失うのではなく部分的に失われているのだろうか?失われているのはすんすんこと黒羽量子を見送った後の記憶だけなのである。
斎藤に連絡すれば何かが分かるだろうか?刹那、美しいゆき先輩の憂う顔が過った。斎藤は巻き込めない。漠然とした根拠しかないが、この件に係われば自分の紫の記憶と同じように斎藤の記憶からゆき先輩が消滅してしまうかも知れない。
斎藤とゆき先輩が付き合っていることはこの世で唯一の希望だった。ゆき先輩はこの世界で真面目に生きていれば身に余る見返りを得られることの象徴だった。そしてそれは、あたかも、絶世の名画を戦渦に巻き込まれる事態に遭遇し、自分の命を犠牲にしてもこの名画の焼失を避けねばならないという宿命のようなもののように感じた。
なぜ斎藤とゆき先輩に会った時に、紫との思い出を呼び戻せなかったのだろうか?中学時代の出来事、医学部に進んだ紫と斎藤の会話、同級生のゆき先輩。これだけの”きっかけ”を持っていながら、激し過ぎる紫との思い出をたぐり寄せることができなかった。
センター試験の帰り、すんすん達が会話に入る前、東武宇都宮から栃木までの電車では望と紫の2人だけで話をしていた。紫は父親と進路について揉めた話をした。紫は素粒子を専攻したかったが、父親は娘を医者にさせたい意向を譲らなかった。結局物理系の学部は父親が指名する難関大学のみ受験を許され、かつ国立大の医学部が受かった上で指定の物理系学部が合格した場合のみ進学が許される条件で落ち着いたと聞いた
「ほんとは望のおじいちゃんと同じ大学に行きたかったんだけどね」
その切ない紫の顔は鮮明に記憶に刻まれて今までずっと消えていない
望は今、祖父が卒業した大学に通っている。当初環境系の学部を志望していたが、ゆき先輩に会った日に化学科の専攻と祖父の卒業した大学を第一志望に切り替えた。紫の希望を叶える訳ではない。祖父と同じ大学に行けばゆき先輩に匹敵するような人に出会えて紫への執着から逃れられる筈と、紫との口づけの記憶を失っている望は思っていた。その日から望は何かに取り憑かれたように受験勉強をしてこの大学に合格することができた。
望の予想通り、容姿はともかくとして小夜、菫、奈緒そして有美という紫や由樹に匹敵する、人として尊敬できる女性に出会い、そんな女性に囲まれて学生生活を過ごしている。
巴と呼んでいる未来の菫ならば紫に関する一件についてなにか分かるだろうか?巴の話では自分は菫と結婚していることになる。これは紫とは添い遂げられなかったことを意味する。望は憧れの人との出来事が1年半消滅していた。紫とこの後自分がどうしたいのか、どうなりたいのか分からなかった。そして蘇った記憶の法則に従うと菫と結婚することは変えられないのかもしれない。巴が嘘を吐いていなければ。
さっき小夜に「いってらっしゃい」といわれた。昨日の菫の一件がなければ小夜と付き合うことで無知のまま完結する話だった。今は菫と奈緒、そして紫まで絡んでしまった。ずるい話だが望にとって小夜も菫も紫も好意の量はほぼ同量である。巴の約束に翻弄されてそれぞれの運命が導かれているようだった。言い訳をするわけにも誰かの責任にするわけにもいかない。どう考えても、この出来事の結末に悲しい思いをするのは自分だけでないことは明確だった。
望は自分の頭では明確な答えが出せる自信がなかった。帰路の足が重い。今日は1日ゆっくりしたいところだ。休めるはずの場所も、今はただの中継所である。アパートの鍵を開けると電話が鳴っていた。あわてて電話にでた
「望?」
電話の声に癒やされるようだった
「菫さん?おはよう。昨日はゆっくり寝られた?」
「朝早くにごめんね、お陰で久しぶりにゆっくり寝られたよ」
「添い寝できなくて残念だな」
「昨日はありがとう」
「ごめんね、急がしぶっちゃって、もしかして何か起きたのか?」
「ううん、そうじゃないの、夢見たの」
「怖い夢でも見たか?」
「結婚する夢」
望は電話の相手が菫か巴なのか悩んだが、喋り方が菫だと思った
「それは、おめでとう。未来の僕は観客席できちんと祝福していたか」
菫はその質問に無視して
「日付が書いてあった。リアルな夢だった」
「もしかして、平成11年2月とか」
しばしの沈黙の後
「望、どうして分かるの!」
菫の興奮した声に我に返った。平成は紫の母親から聞いた元号であるが、望は言ってから事の重大さに気付いた。昨日の疲労が抜けておらず、平時ならば決して口にしない言葉を口にしてしまった
「望、どうして分かるの!」
回答しない望に菫は興奮した声で繰り返した。仕方なく望は答えた
「巴から聞いた」
菫の声が泣き声になった
「みんな話してよ望、私は望しか頼る人がいないんだから、お願いよ」
望の精神状態は荒れ狂っていたが、何があっても菫だけは助けなけばならないことだけは貫きたかった。昨日決意したこの気持ちにはには自分の潜在意識の中にある紫が作用していたのではないかと思った。ゆき先輩の夢は自分の中にあった紫を忘れたくない因子が残っていたからかもしれない。”菫に紫のような決断をさせてはいけない”可能な限り落ち着いた声で
「今日はバイトでダメだけど、明日実家に帰って神主さんと相談してくる。僕も信じられない出来事が起こりすぎて訳が分からないんだ、整理する時間が欲しい、明日の夜には電話を入れるので待ってもらえないか」
鼻をすすった菫は
「私も連れて行って」
意外な言葉に望は驚いた
「えっ?」
「私も神主さんと会わせてほしい」
「ちゃんと聞いてくるから、待っていて、少し疲れているだろうからゆっくり休んだ方がいい」
「望、私は望しか頼る人がいないんだから、お願いよ。1人でいるのが怖いのよ」
「分かった、今日の昼休みに実家に電話入れて神主さんと会う段取りを取ってもらうから、一緒に診てもらおう。夕方また電話する」
望はもともと神主と会うつもりはなく、神主から鶴岡八幡宮にお参りすれば祓えると言われたと嘘を吐くもりだった
「望、ありがとう。わがまま言ってごめん」
「菫さんみたいなかわいい人と一緒に出かけるなんて夢みたいだな。・・・ごめんバイトに行く時間だ、夕方バイト先から留守電を入れておくから」
「望、ありがとう」
「ああ、何もなければ今日はゆっくり休みな、また夕方」
望は電話を切って、留守番電話に菫の伝言がないことに安心した。同時に自分が卑劣な人間だと自身を蔑んだ。自分は3人の女性の心を弄んでいるのだ。
もうバイトに出なければならない。実家に電話する時間はない。
全身着替えて洗濯槽に放り込んだ、パンツのケンケンが笑っている。昨日の小夜の手で脱がしたのだろうか?情景を想像したら結構興奮した。年上の女性に弄ばれる人生も悪くはない。小夜とああいう形となったのに菫と約束してしまった。望は随分人の道を外れてしまったなと思った。
懺悔の念に耽っている余裕はない。もうコーヒーを淹れる時間すらなさそうだ、身支度を調えて、神棚に手を合わせた。小学生のときお世話になった神社の柱を祀っている。”前世の罪をお詫びします”神社だが、考え方は仏教の思想に近い気もする。
バイトに行く電車は家に近い京成を使うことにした。昼休みに実家に電話して、夕方には小夜にも電話をしよう。いや、面倒な話はバイト中に考えよう。何か他の作業に追われないと自分が壊れてしまうかもしれない。時間に追い立てられて望は家を出た。
望は昼休み、実家に電話をかけると母親の元気そうな声が聞けた。名の通った大学に通う愚息は自慢の息子に昇格していた
「2年生にはなれそうかい?」
「大学入試よりも定期試験の方が厳しい大学ってあるんだな」
「出来は上々のようだね、今日はどうしたの」
「急で悪いんだけどヨネちゃんと連絡を取れないかな」
ヨネちゃんは神主の愛称である。望も本人と会う時以外はヨネちゃんと呼んでいる
「何かあったのかい?」
「友達が霊障受けて相談したいらしい」
「ヨネちゃん今、前橋。入院しているんだよ」
恐らく紫の行っている大学の付属病院だ
「大学病院に入院って、そんなに悪いの?」
「検査に行ったら、そのまま大学病院に紹介状を書かれちゃったみたいで、来週退院できるって言ってたから良くなったみたいだけど」
「まさか、お前に何か起きたんじゃないでしょ」
「うん、友達なんだけどね」
「まあ、その声ならば大丈夫か。お前の大学は勉強大変なんでしょ、バイトなんかして大丈夫?」
「遊ぶ金くらいは自分で稼がないとね。そう免許証のお金、大分出してもらってありがとう」
「お前はね、自慢の息子だから、お前の為のお金は全然苦労にならないよ」
「重い霊に取り憑かれたな、直ったらヨネちゃんに祓ってもらおう」
「ご飯、ちゃんと食べてる?免許取りに帰ったとき大分痩せてびっくりしたよ」
「富樫家は食べ過ぎ、体育専攻の真(まこと)と一緒の食事してりゃ太るわ」
真とは望の2つ違いの弟である。小学生の頃は運動神経が優れていた真が両親の自慢の息子だった。小学生の英雄も中学では凡庸、弟は小学時代に費やした時間を現在の生活に反映できずに今は混沌の中にいる。弟にとって兄の大学合格はさらに根気を奪っていった。真は失った時間を補うことにひたすらに逃げたまま高校3年になった。望はKと似ていると思った。共通点は自分の評価が甘いことと、人に対して積極的に関わろうとしないことだと思う。自分に自信がなくなると他人の失敗しか興味がなくなる。ゲーテの言葉だったか。
「真もね、高校3年なのに何考えているのかしら、望はちゃんとしていたのに」
愚痴の話が始まりそうなので、望は早々に切り上げることにした
「バイトの昼休みで昼飯まだなんだ、また電話するよ」
「バイトに夢中になって留年しないでよ」
電話を切った。
両親も”盛り”を過ぎている。自分の子供を褒めてもらうことが嬉しいようだ。無論私立大学しか受からず多額の学費を払ってもらっている両親には感謝している。人の評価は微分値ではない、良いところや悪いところだけを強調したら本質など見える筈がない。50を越えたアインシュタインに似た国語の先生に説教してやりたいところだ。
望は自分が親の年齢になったときに自分の親と同じような振る舞いをするのであろうかということだけが気に掛かった。
刹那、望みの脳裏に目の小さい中年女性の笑顔が浮かんだ
「えっ」
望は思わず声を上げた。いや、幻覚だ。紫の荷物を置いて降りた電車に飛び乗った映像が望の脳裏に浮かんだ。
望はテレフォンカードを入れ直すと、美しい文字で書かれた数字を押した
「はい」
低い声の女性が出た
「望です」
「すみれちゃんだよ」
「元気そうで何よりだ」
「どうしたの?夕方まで待てずに、私の声が聞きたくなっちゃった?」
「実は神主さんが今入院のしていて会えないんだ」
「望は私と出掛けるのがそんなに嫌?」
「前橋のご両親に会いに行きましょうか」
「え〜50点、私面食いなの」
「来週退院できるみたいだから、また連絡してみるよ」
「あのお姉ちゃんの話だと北の神社がいいのよね、氷川神社にお参りなんてどう?」
「ああ、方角より名前だな、佐々木も富樫も木なので水に相性がいい」
「100点。明日、氷川神社にお祓いに行こう」
「願掛けか、菫さん・・・」
「どうしたの?」
望は今朝、小夜とああいう状態になりながら、菫と楽しく話している自分を軽蔑していた
「・・・何でもない、菫さんってかわいいなって思っただけ」
「奈緒よりも?」
「当然だ」
「10点。嘘つき」
「菫さんは世界で2番めに美しい」
「一番は?」
「僕!」
「80点。そんなことより、神社行く前に準備することある?」
「ちゃんとするなら朝の食事の抜いてだけど、そこまでしなくていいかな」
「ちゃんとやろうよ」
「分かったよ、じゃあ明日の9時に赤羽駅の改札前でいいか?」
「いいよ、ねえ望」
「なんだ?」
「去年のセンター試験って前橋で受けた?」
「いいや、宇都宮だよ」
「センター試験の日、前橋にいなかった?セーラー服の女の子と」
「ごめんね、テレフォンカードが終わりそうだ」
「やっぱり望か」
「よくそんなこと覚えているね」
「見かけない制服だし、仲よさそうにしている感じが凄く印象的だった
それに、一緒にいた人、私と感じが似ている気がしたから、よく覚えているんだ」
「菫さんの方が断然かわいいけど、お尻はすんすんかな」
「0点。私にお尻の話をするな!」
「ああ、すんすんは薬剤師になるみたいだから、地元に帰って、あのお尻に敷かれる人生も憧れだな」
「私と電話をしているのはヘンタイだったんだな」
「菫君は分かっていないようだ、美しいお尻の女性はこの世の”公理”なんだよ。
あんな豊満なお尻の女性などもう一生会えないだろう。声を掛けない言い訳はこの世の”公理”に反する」
「ひとこと言ってもいいかな?クタバッちまえ!」
「ははは誰の歌だっけ」
「Sugarだったか」
「大貫妙子さんはそんな汚い言葉を歌にしないだろう」
「それは違うグループと間違えているよ」
「間違いといえば、危うくすんすんのお尻に手を伸ばして犯罪に手を染めるところだった。
僕の恋って何色なのかな」
「その娘も色に関係しているわけ?」
「”も”ってなんだよ、名前じゃなくて苗字の方だけどね、その話は明日のお楽しみにしておいて」
「今、詳しく話せ!」
「かわいい女の子とお出かけするんだもん。緊張して何もしゃべれないかも知れないから、
会話のネタを用意していないと話せないよぉ~」
少なくとも望は私に対して緊張はしてしていないだろう」
「”かわいい”方は否定しないんだ、さすが菫さん。そういうところ好きですよ」
「だって、菫ちゃんはかわいいもん」
2人は笑った
「でもお尻の大きい女の子が現れたらそっちを見ちゃうな」
「0点!」
「テレビに出るようなタレントが水着で歩いてたら、凝視するだろうって!
まあ、菫さんが明日水着で来たら絶対よそ見しないですよぉ~」
−100点。留年確定です。電話でなければぶん殴っていました」
「菫さんに叩かれたい」
「おい、ヘンタイ。ところで”すんすん”って変なあだ名って、どういう意味だ?」
「名前が量子さんって言うのだけれど、拗音のちっちゃい”ょ”が名前に入っているから授業でからかわれたみたい。そこから派生して、拗音が2つ入る”ちょっとちょっと”を漢字にして一寸一寸(いっすんいっすん)そこからすんすんになったみたいよ」
「昔の女の話は楽しそうね」
「この話を聞いたのは菫さんだったよね」
「あれ?」
望はすんすんを紫から聞いただけである。同じ日の記憶が2つありその1つの記憶をもう1つの記憶が相補している。
そうだ、自分は既に昨日あるべき歴史を変えている、これは神様のサイコロの目かもしれない
「どうしたの?」
異変を感じたのだろうか、菫が心配そうな声で聞く
「なあ、朝電話した菫さんと同じ菫さんだよな?」
「望がくれた御守りのお陰で、昨日望と別れたときから、望のクラスメートの、菫のままだよ」
望は言葉を詰まらせて
「なにがあっても、追い払うから」
「泣いてるの?ねえ、今どこ?これから直ぐ行くからそこにいて」
望は菫を伴侶に選んだ未来の自分を誇りに思えた。もうこれでいい、残された時間で思い残した事を消化しよう
「今は、バナッハ空間にいる。
安心して明日は待ち合わせ場所に時間通り必ず行くから。
今日は1人で考えさせてほしい」
「水着は無理だけど時間通りに行くね。それと、ありがとう望」
「僕の人生でこんなきれいな人と出かけるなんて初めてだから、楽しみにしているよ」
「寝坊するな!」
「ああ、じゃあ明日」
望は静かに受話器を置いた。
1927年ソルヴェイ会議、アインシュタインはいつもの言葉を繰り返した。
「本当に神様がサイコロを振って未来を決めていると信じているのか?」
ボーアは笑って
「アインシュタイン、神様が世界をどうなさるかについて人間が注文をつけるべきではないでしょう」
と答えた
「アインシュタイン博士、親愛なるボーア博士の仰る通り、決められた未来なんてないですよ」
時計を見ると13時6分。遅番の昼休みもあと24分。深呼吸して手帳を開いた。自分に起こっていることはただ事ではない。まともな判断ができるうちにやるべきことはしなければならない。
「御無沙汰しております。富樫望です。突然電話で申し訳ありません」
電話の相手は予備校の恩師だ
「富樫さんか、元気でやっているかね」
「はい、元気ぐらいしか取り柄がないので、東京でも元気にしています」
「学校の方はどうだい?君のところは入学より進級の方が大変なんだろう」
「すでにクラスでも5~6人は大学で見なくなりました。手前は恩師のご指導のお陰で、大学でもなんとかついていっています。恩師の仰る通り物理に手を抜いた報いは身に染みました。夏までは物理漬けでした」
「そうか、何か困った事があったのか」
「前期試験が終わって少しだけ落ち着いたので恩師にお礼を言いたかったのと、冬に部外者の斎藤がお邪魔して、恩師にご迷惑かけてしまったことをお詫びしていないことを思い出しまして、院長から何かお咎めがあったら申し訳なかったと」
「ああ、斎藤別当の末裔の、確か同じ名前の望君だったね、
保元の乱の後、義朝親子を護って東を目指した同士の子孫が話をするなんて、世の中の縁てのは不思議なものだね。
そういえば斎藤さんはきれいな女性と一緒だったな、なんて名前だったか」
望は恩師から引き出したい言葉を引き出せた。観察者にゆき先輩の確定を確実にしておこう
「斎藤の彼女”ゆき先輩”って言ってましたね、お名前は田沼由樹さん、先輩っていうけど、2日しか誕生日が違わないのに、先輩って呼んでいるらしいです。僕はあんな美人は無縁ですけど、頭脳明晰で尊敬できる女性は周りにたくさんいますね。無理して身の丈に合わない大学行って良かったと感じました。恩師に道を開いて頂いたお陰です」
「厳しい学校だけど、望君が楽しんでいるようで安心したよ、こっち来るようなことがあったらまた尋ねてくれ。生徒達にも苦労話を聞かせてやりたいし」
「少なくとも、うちの大学だけは薦めませんね。まあ、ダイエットするならばお薦めですが、体重も7、8kg位落ちましたよ」
「富樫さんは何か、今日は相談したいことがあったんじゃないか?」
望はさすがは恩師だと思った
「いえ、女性の事ぐらいしか困っていませんので、恩師の管轄外です」
「富樫さんの場合は美人に声を掛けた方がいいですね」
「それはどうしてですか」
「美人というのは、たくさんの男性に声を掛けられます。だから男の良し悪しをよく弁えているのです」
「では、僕は選ばれませんね」
「おかしいですね、富樫さん程の人が自分の座標が分からないなんて」
望は恩師にバナッハ空間にある自分をヒルベルト空間そしてユークリッド空間に引き戻して欲しいと思った。否、恩師を巻き込むことはできない
「買い被りですよ」
「そうでしょうか?あなたは卒業すれば企業も引く手あまたでしょう。しかも、あなたは不満を相手や社会のせいにしないし、常識のある方ならば敬意を以て接する。もう富樫さんは浪人生ではないんですよ。美人で富樫さんを選べないような女性はたいした女性ではないですよ」
「卒業すればですね。
突然お電話して申し訳ありませんでした。恩師があの頃と変わらずお元気そうなので嬉しかったです」
「何言っているんだ、まだ卒院して半年だぞ」
「そうですね、環境が変わって色々ありました。でもここにきてやっと落ち着きました。言えるときにお礼を言わないと機会を逃してしまうので」
「おいおい、縁起でもない、私を殺さないでくれ」
2人で笑った。ありがとうございますといって受話器を置いた。
休み時間も残っていない。食事は諦めた。
自分に何があっても斎藤とゆき先輩は仕合わせであればそれでいい。自分は観客席から競技を見て、選手に自分の夢や希望を託す人の気持ちが理解できなかったが、今日始めてそういう人の気持ちが理解できた。
<つづく>
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