第29話 そして今来たの過ぎし日のとおり
そして今来たの過ぎし日のとおり
「紫はどこまで話したの?」
運転手の女性は聞いた。紫は怯えるような声で
「電車では、すんすん達と一緒で詳しい話はできていない」
運転手の女は穏やかな声で
「すんすん?ああ黒羽さんね、あの娘愛想がよくて、はっきりしたいい娘ね。
望君、逢ったなら一目惚れしたでしょう
でも紫、”黒羽量子”なのにどうして”すんすん”なの?」
「りょうこの”ょ”開拗音(かいようおん)から派生したらしいけど少々、いや”ち・よ・つ・と”複雑・・・今する話じゃないね」
望は中学生の時に感じた自信に溢れた紫の力強さが失われていると感じた
「それで、黒羽さんと望君が楽しそうに話しているのを見て、大好きな望君に思いを告げちゃったんだ」
望は言葉を遮った
「いいえ僕から言いました、そして・・・」
「そして?」
運転席の女性はからかうように言った
「・・・さっき覚悟しました」
「望君は成長したね、最初は14歳の子供を22歳の紫がもてあそんでいるだけだと思ったのに今じゃ恋人同士でも可笑しくないね。あれから4年経ったんだね」
望は言葉にしておいた方がいいと思った
「紫さんは未来から来たんですね」
望は運転席の女性とルームミラーを通して目が合った。運転席の女性は紫の母親である、何故自分が”運転席の女性”と考えているか分からなかったがその方がしっくりした。
「平成元年9月23日が私達には来なかったのよ」
「へいせい?」
望は直ぐには理解できなかった
「グレゴリオ暦で1989年ね、元号変わっているから」
「今上殿下は再来年崩御されるのですか」
望は紫の手を放し合掌した。手を離された紫は望の肩に身を寄せた。憧れだった女性が怯えている。離れてしまったら自分がなくなってしまうと考えているのだろうか?刹那、4年前、紫が自分手を握ってきたときのことが蘇った。あの日も震えていたような気がする。
運転手の女性は続ける
「紫から詳しいことは何も聞いていないみたいね。私から説明するわ」
車は料理店に着いた。医者のような仕事をしていると職業柄、要人との接待のために、突然店に訪れても席を用意してくれる店を準備しているのだろうと理解した。世の中は複雑な仕事ほど複雑な仕組みで成り立っている。生前祖父が教えてくれた。勤め人の父はそこまで思慮が深くないように見えた。そもそも、一見の者が分かったような口を叩くような話ではない。
望は紫に”支払いは月賦でいいか”と冗談を言ったが、紫は既に沈んでいて、悲しい目をするだけだった。中学時代、懐の深かった紫とは思えない。望は、駆け落ちの次は心中になるのかな?と状況を顧みた。女性と身を崩すのはきっと男の理想のひとつなのだろう。いけない、相対的に自分を見ている。きっと弱っている証拠だ。それでもいい、紫との跨線橋の出来事でもうこの世に思い残すことはなにもない。
仲居さんの着物姿を見ながら望は今はどの時代なのか考えた、考えたところでこれから聞くであろう話には何の役にも立たないことは容易に想像できた。
望は小学生の夏、親元を離れて神社で過ごした記憶が蘇った。
母親が未知の領域からの攻撃を仕掛ける幽霊や祟りと呼ばれるものを除去するために段取りしてくれたことだ。この世で僕が生き続けるために。
神社で過ごした短い期間が望の恐怖を除去している。望は高校生までの人生で人は経験と対応力に強い相関があることを掴んでいた。尊敬できる人の振る舞いは過去の経験の分析と対応が強く影響している。これは才能すなわち配られた手札ではない。配られた手札は分析できない人、予習できない人には当てはまると思う。愚者は同じ間違いを何度も繰り返す。賢者は一度犯した失敗を2度は起こさない。2度目を起こさないために分析と対策を立てる。この循環を掴めない人は責任を外に外に求めてしまう。世界が神秘的な法則もしくは神秘的な存在に委ねられていると誤解してしまう。それは自分を甘やかすのに十分な話だ。望が神社で経験したことは、人間の中にある弱さを凝縮して自浄や修復の出来ない状態になったということだと、最近になって結論づけた。
1年間しゃにむに働いて稼いだお金で、神秘の経典を購入したら白紙だったような話である。
望は、家には電話を入れることにした。もしかしたらこれが母親と話す最後の会話になるかもしれない。先程、すんすんと駆け落ちする覚悟をしたので不思議な程、感慨はなかった。
旧友と会ったので食事を済まして帰ることを伝えた。相手は旧友に留めた、母親は斎藤だと思ったに違いない。望の母親は紫と親しくすることを望んでいなかった、仮に将来結婚したら医者と親戚付き合いするのが嫌であること理由のようだ、さっきのももちんが4人の仲間に入るのを拒んだ理由と似ているのかもしれない。
最後に”母さんありがとう”と言ったら、試験の成績が悪かったのかと笑われた。
望は、母親を気遣って”私立になったらごめん”と言葉の上では嘘にならない嘘を吐いた。18歳にもなると親子の位置関係も近くなる
「子供がお金の心配するんじゃないよ、試験のことだけ心配しなさい」
とたしなめられた。最後に「遅くなるんじゃないよ」と言われて涙が出そうになった。泣き声にならないよう”うん”と言って電話を切った。
通された部屋の床の間には風景画の掛け軸と古びた花入れがあった。花入れには水仙が点けてあった。望は、墨で書かれた風景画に奥行きが感じられなかった。その白黒で単調な掛け軸に対して、花入れは時間を経て色づいていった深い色彩に、点けられた白と黄色の水仙がまぶしく見えた。この床の間の主役は花入れでそれ以外が引き立て役なのだろう。
望は床の間を拝見しながら起こりうる現実から短い時間逃げることができた。
望は、人が亡くなる前に人生が走馬灯のように廻ると聞いた事がある。最後の場面になって、この走馬灯の出来事を人に伝えて旅立ったのだろうか?むしろ人が最後に他人に告げる話はこんなものかも知れない
**********
・・・碧はいつも過去に後悔していた。巨視的な発想だが、人は誰でも後悔するものだと思う。しかし碧の場合は些か病的な側面を見せていた。碧は口癖のようにあの頃に戻ってやり直したいと呟いた。碧から質問されたことがある
「望君はどこからやり直したい?」
小学生のときの工作員の少女
中学生のときの国語の先生
そんな不愉快な映像が思い浮かんだが、次の瞬間、斎藤望と久保紫の顔が現れた。思えば中学生の時、友達と呼べる人はは2人しかいなかった
「もう一回繰り返すの嫌かな、碧さんにも逢えたし」
「え〜信じられない、やり直したくないなんて」
望は凄く恥ずかしいことを口にしたのに、的外れな返答にがっかりした。碧は自分の意見を優先して人の話を聞かないところがあった。
別の機会に、どうやり直したいのと聞いたことがあった。そうしたら自分には容姿も悪いし、頭も良くないから自分自身が生まれ変わりたいといった。
”小さな女王様”いや”星の女王様”に生まれなかった不遇を悔いているようだった。
望は碧が蛇にそそのかされて餌として丸呑みされる映像が浮かんだ。そしてその蛇は他ならぬ望自身であると、率直に思った
望は気を遣った。
歴史を自由に変えること。明智光秀の謀反を止めたならば、現在天皇は歴史の教科書にしか残っていなかった筈だ。そう信長が本能寺で討たれなければ信長はロマノフ家にされたようなことを日本で歴史に刻んだ筈である。この事実はドレッドノート超えの国産戦艦扶桑の4番艦に明智日向守光秀の日向を用いたことでも根拠になっていると考えている。万人には知られていない真実がある。望はこの話を碧に出来なかった。
彼氏にとって彼女の愚痴を聞くのも付き合った男女の業務のひとつだ、望にとって碧が自分で解決したがらないことを重荷に感じた。むしろ未解決のまま維持して、不平不満を話していたいのではないかとさえ思った。解決策を男の口から言わないことは昔、紫が教えてくれた。解決できる事ならばこっそり対策すればいいのだ、知らない間に解決して、その話題を彼女がしなくなった。それが彼氏の理想の形だと望は信じていた。男の自慢話など彼女にとっては退屈で不快なだけだ。
ところで碧の理想の形、あるべき姿はどこにあるのだろうか?
碧がサイコロを振って、その後に振る前の時間まで戻る能力を手に入れたらどうだろうか。きっと理想の目がでるまで繰り返し時間を遡るであろう。でも回答を知っている問題に答えを書くことに何の意味があるだろうか?それで大学に合格して大学の授業について行けなくてもまたサイコロを振り直して大学卒業の肩書きを得るのだろうか?
この疑問は中学の理科の先生が導いた世界に似ている。理論が無く結果の世界、文系志望が泣いて喜ぶ、理科の魔法。手段を選ばず肩書きを得る。観客席にいた人が競技に参加して結果を残す様な魔法?宿題を他人にやってもらって次の日したり顔していることが彼女にとってそんなに重要なのだろうか?
試験が終われば役立たずの1回限り(ディスポーザブル)な知識。世の中を上手く渉るにはこの方が理想なのかもしれない。一夜の恋なら刺激的だ、次を考えなくていいから。
「碧さんのどこが好きだったの」
土曜日の午後もうすぐ図書室から追い出される時間だ、桃香が他人を名字でなく名前で呼ぶのは珍しい
「碧さんは容姿も頭脳もももちん様より劣っているのにどうして惚れたか?ってか」
「そんなこと言っていない」
「真面目なももちんは思っても言わないよね」
「思ってもいないわよ!」
「碧さんの方がももちんより頭いいのか」
「怒るよ」
「もうももちん怒っているって・・・碧さんなら気を遣わず話せるかって思ったからかな」
桃香は真面目な顔に戻って
「気を遣う?」
「碧さんLe Petit Princeのキャラクターを大事にしてたから、自分の気持ちに正直な人かと思った。そういう人とずっと話をしていたかったと思ったからかな」
「星の王子様か、小学生の頃読んだな。狐の話が印象的だった」
望はLe Petit Princeを通して碧と桃香がどういう見方をするか興味があった
「ももちんは好きな人から”愛してる”と”好きだよ”ではどっちが言われたい」
「な、なによいきなり」
ももちんは口を手で押さえて、望にも動揺していることが容易に分かった。
望の理想の女性に答えて欲しい言葉は”どっちを言ってくれる”だった。お陰で、最初の質問”碧さんのどこが好きだったの”の重荷が解けた。桃香は今日を特別な日にしたいわけではないとに安心した
「この小説の話だよ」
桃香は明らかに動揺が見える声で
「なんか答えるの納得いかないけど、好きな人だったらどっちでもいいかな。
で、がっしーはどっち」
桃香にとっては反撃の言葉だったのだろう
「僕は断然”好きだよ”だな、”望大好き”がいいな」
桃香は望の即答に驚いたようだ
「どうしてよ」
望は笑って
「え〜、ももちんはここでいうセリフあるでしょう」
「くたばっちまえ!」
「愛されているな僕は、学校のいろんな人に
・・・狐のセリフで”飼い慣らす”ってあったじゃん。あれこそが愛だと思っている」
ももちんは考え込んでしまった
「時間だ司書のお姉様がこちらに熱い視線を送っている、口説かれる前に帰ろう」
帰る支度をしながら
「あれフランス語ではどういう言葉の意味なのかしら」
桃香は辞書のところに行こうとしたが、望が腕を取って引き止めた
「キャ」
桃香が声を上げた。注目を浴びた桃香は赤面した
「フランス語でapprivoiseアプリボイシ”(猛獣を)飼い慣らす、動物から受ける恐怖を取り除くとか、社交性をつける”みたいな意味
・・・とりあえず図書室を出ようか」
「ちゃんと調べたんだ」
「ももちんの彼氏はももちんの好きな事、予習してくれないの?」
望は桃香の忌諱(きき)に触れたようだ
「からかっているの?私みたいなブスに彼氏なんかいる訳ないじゃない!」
望は立ち止まって桃香の顔を凝視した
「バカ!」
そういうと桃香は望の視線を逃げるように図書室を駆け出した。望は桃香がいつもと違うと感じがしたが追うこともせずいつものように帰宅の途についた。
階段のところで桃香が待っていた。望は合掌して
「私の名前は末摘花。神様、神社に10万円賽銭するから、ももちんの顔と交換してください」
と言って階段を下った。
桃香は望を追ってのぼそぼそと言葉を発しながら背中を何度も叩いた。
・・・くだらないこと言わないでよ バカ
・・・源氏物語なんか引かないでよ 理系バカ
・・・私が惨めになるじゃない バカ
望は踊り場の手前で立ち止まると桃香が背中におんぶされる形になった。望は背中に女性が特有の感触を受けた。すぐさま桃香は望を突き放した。望の方が足腰が強いので桃香が階段に腰掛ける形になった。スカートの裾を気にしながら桃香は
「いきなり止まらないでよ バカ!」
望が右手を出すと、桃香は唇をとがらせて、手の汚れをスカートで払って払ってその手にすがった。望は手の汚れを払うところが桃香らしいと思った
「軽っ、ももちん、もっと体力つけないとダメだよ」
そういうと桃香の目から涙が溢れた
「痛かったか?からかってごめんな」
桃香は繋がれていない左手で涙を拭いながら言った
「高校生ももう終わりだね」
桃香は遠い目をしていた。望は微笑んで
「楽しい高校生だったか?」
桃香は軽いため息をついて
「なんか高校生ってもっと楽しいものだと思っていた」
望は桃香の後悔に思い当たる節があった
「そうか」
「がっしーは?」
「さっき、ももちんの下着が見えたから楽しい高校生活だったよ」
桃香は思い出したように繋いだ手を振りほどいて、望を追い越し踊り場まで下りるとスカートのすそを押さえながら
「スケベ、どこ見ているんだよ!」
「冗談だよ、そんな余裕ないって。でも仏頂面のももちんが笑うようになって、ももちんと会っているときだけは楽しかったかな」
桃香は重い表情になった
「私って仏頂面だった?」
望は予想外の回答に面食らった
「自覚はなかったんだ」
「そっか、そういうふうに見えていたんだ」
「今だから言うけど、このグループに来て、最初の会った時のももちんはなんて不機嫌な人かと思った。”なんでこんな奴に数学を頼らなくちゃいけないのか”って目が語っていたよ」
「ごめん、そんなつもりはなかったんだ」
「後で分かったから、謝らなくていいよ、ワケ有りの男だしね僕は」
桃香は深いため息をついて言った
「結局2人になっちゃったね」
望は碧と別れて2ヶ月後に、1年の時に同じ組だった文系志望の男に勉強会に誘われた。この学校では優秀な人のグループだった。そもそもこの高校では国立大学に数名しか進学していないので優秀といっても高が知れている。国立大学を目指す文系グループで男が2人の女3人で構成されていた。
何回か参加しているうちに望は男2人の目的が国立大学進学だけでないことは気が付いた。桃香意外の女子も意向は似ていたようで、碧と付き合っていた頃のことをよく聞かれた。望自身がその件を余り気にしていないことが分かり、2人の交際の議題に討議(ディスカッション)することもあった。桃香はいつもつまらなそうにしていて、発言をした記憶も残っていない。
”ももちん”というあだ名は望が付けた。桃香が極端に下ネタを嫌うので、荒治療だと期間を決めて呼んでいたら、それに倣って他の仲間も言うようになり、このグループ内ではそう呼ばれるようになった。このグループ以外では”小野さん”と呼んでいた。
3年生の夏休み前には2組の交際が始まっていたようだった。グループも真面目に勉強している桃香と望以外の4人は徐々に足が遠くなり。夏休み後はほとんど桃香と望だけの集まりになっていた。
碧を奪ったKと桃香が空き教室で会話をしている場面に遭遇しなければ、望はこの真面目で不器用に見えた桃香のことを恋愛対象として見ていただろう。しかし、望はある程度の確率で桃香が美人局と思っていたし、碧との一件で女性に懲りていた。そして、女性と付き合うことは時間や金や気をつかうことを知ってしまったので、受験生である自分が背負えるほどの潜在能力(ポテンシャル)もないいことは自覚していた。新しい恋愛を始めるには消極的だった。ただし17歳の望が制御する女性の身体への飽くなき探究がいつ励起(れいき:エネルギーが高い状態になること)状態になってもおかしくなく、桃香が隙を見せたら交際するつもりだった。17歳の桃香が持っている潜在能力は碧を遙かに凌いでいた。それでも積極的に桃香がKとしていた話を聞く気持ちは起きなかった
「あいつら恋愛で身を崩しちゃったな、貴重な夏休みを恋愛に消費してしまったようだ。まあ、高校生活をどう使うかはそれぞれだ、僕も碧さんと続いていたらどうなっていたか分からなかったけど」
桃香は逃げるように2階まで下って振り返り望に手招きした
「捕まえられるか?がっしー」
桃香はそのまま1階に下りていった。望は桃香が出会った頃とは大分変わったなと思った。望はゆっくり階段を下りていった。1階では桃香が仁王立ちで待っていた
「そんなのろのろしているから碧に逃げられるんだぞ!」
望は桃香がそんなことを言うのが意外だった。望は笑顔を返した。言葉とは裏返しに桃香は悲しそうな顔をしていた。記憶にある顔。
ちょうど1年前だったか、グループで好きな作家の話になった。このグループではこの時点で2つの組み合わせがほぼ確定状態だった、桃香は空気が読めず山本周五郎の”不断草”が好きだと言ったが、相槌を打ってもらえず、望は何が好きかと言う質問に流れた
「読書感想文の課題か女が絡まないと文学は読まない」
といったら、お説教に近い侮辱を男2人から受けた。男達の熱く語る姿をみてそれは意中の女性の気を引く態度の一環だったことは容易く理解できた。望は2人がどうやっても抗えない自分の理系の知識が、意中の人の憧れになり得ることが面白くなかったことの反動だと思って、侮辱を甘んじて受け流していた。それは、碧の気を引くために、この1年前にしていた自分の姿でもあった。彼らに三角関数や微分積分が今後の人生で不要なように自分にも文学は必要ないと思っていたがあえて口にしなかった
「ももちんが推している不断草でも読もうかな」
と望が言ったら一気に空気が変わった。彼らの理想は自分と桃香がペアリングすることで、ここに自分を呼んだのはそういう事情だったのだと改めて思った。
その日の勉強会の後、望は桃香に居残らされた
「がっしー、愚痴、言ってもいいかな」
「いいよ、ももちんの頼みなら喜んで承るぞ、ただし、助言は無理だぞ」
望は中学の時に紫から女性の話に解決案を出してはいけないと聞いた事があったので、自分が間違えて助言を発しないよう前もって宣言した。ももちんは4人に対する愚痴を零した。桃香としては勉強のために集まっているのに恋愛の方向に傾いていることが不満ということだった。望は桃香の言っていることが正しいことと、いつでも桃香の味方をすることを伝えた。桃香は何かを言いたいようだったが、ただ悲しい顔をしただけだった
「彼らに三角関数が今後の人生で不要なように自分にも文学は必要ないと思っている、でもももちんに出会えたから、いつか山本周五郎は読んでみようと思ったよ」
ももちんは無言のままだった。望はこの時点で自分が桃香の恋愛対象でないと思っていたし、望自身も碧の一件がまだ消化できておらず、自分から事を起こす気力もなかった。望は初めて桃香の肩に触れ
「帰ろっか」
と促した。1年前の桃香は頷くだけだった。
「望!私を怒ってよ、罵ってよ、汚い言葉を浴びせてよ!」
望はこれが桃香の高校生活を象徴していると思った。桃香はこの学校では優秀で模範な生徒という他者の設定に応え続けていたのだ
「ももちん、鼻が赤くて象みたいに長いぞ」(源氏物語:未摘花の引用)
桃香は望の胸を叩いた、また泣いている。望は桃香がこんな時も自分の胸に飛び込んで泣けないところに桃香の弱さを知った。結局桃香も学校に飼い慣らされた人間なのだ。そう高校で習う原子モデルのように、桃香は学校で標準的に教えてもらう領域から抜け出すことができなかった。そう望は思った
「碧と話した」
桃香は10秒ほど時間をおいて
「望、どうして久保紫と別れたの」
望は突然の嵐と衝動に言葉を失ってしまった。桃香は容赦なく言葉を続けた
「碧は久保紫を超えられなかった、いつも久保紫と戦っていた」
望は何のために碧と話したのだろうかと考えた、”紫”という言葉が刃こぼれした刃物のように痛みを増しながら心をえぐっていく。一思いに楽にして欲しい。自分自身も紫の残像と戦っているのだ螺旋階段をいくら息を切らして上っても追いつけない紫と。
「中学生の紫さんと僕は、今のももちんと僕の関係と同じだ。
ももちんが”付き合う”っていうことをどういう定義にしているか分からないけど、僕の定義では碧さんとは付き合ったけど、紫さんとは付き合っていない。始まりがないので別れることはない。中学卒業してから連絡も取っていない。
・・・ももちんには今までからかってばかりだったけど、嘘だけはついていない。
こんな僕にずっと英語、面倒見てくれたことに感謝している、せめてもの恩返しのつもりでももちんには嘘だけはついていない」
桃香はここでも言葉が発せなかった。望は桃香が今日を特別な日にしたかったのだと思った。自分から告白の言葉を引き出したかったのだと、でもその期待には応えなかった
「じゃあ、また月曜日。今日もお疲れ様でした」
望は桃香に手を振ると下駄箱に向かって歩き出した。2、3歩進んだところで呼び止められた
「明日、三角関数を図書館で教えて欲しい」
望は振り返って
「午後でいい?」
事務的に答えた。桃香は顔を真っ赤にしながら
「1時30分に図書館の駐輪所で」
「じゃあ、また明日」
桃香は望の下駄箱とは校舎の反対側にある下駄箱に駆けていった。望は小走りの細い背中を見守った。途中桃香が立ち止まり振り返ると望は桃香に手を振った。桃香は鞄を抱きかかえるとうつむいて踵を返して下駄箱に駆けていった。望は自分が桃香だったらそのまま自分の胸に飛び込んでいただろうと思った。
男と女では恋愛の負荷が違いすぎる、女性の方が負荷が大きい。望は自分は酷い人間だと巨視的に見下ろした。それでも走って桃香を追うことは出来なかった。
桃香が廊下の角を曲がって見えなくなったところで、望は帰宅の途についた。
**********
そして今来たの、過ぎし日のとおり
「望君は、花入れが分かるの?」
望はこの”場”において最初の判断は、この女性が”紫の母親”として疑わないこととした
「分かりませんが、この床の間の主役はこの花入れだと感じました」
紫の母親も
「偉そうに言ってるけど私も分からないのよ」
「僕は人の目を気にしないので、無礼に当たらなければ正直に感想を述べるようにしています」
紫の母親は薄笑いを浮かべて
「紫のこと好きなの」
「好きですよ」
「あら、あっさり言うのね」
「さっき電車の中で、すんすん、いや、黒羽さんの前でも言いましたし」
紫の母親は真顔になって
「紫との交際は許さないわ」
望も真顔になって
「そうですか、残念です」
「結構淡泊ね」
「僕には、今はなにもありません。でも、望を選んで良かったと言わせます」
<つづく>
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