第28話 22歳の医大生と14歳の中学生の恋

 22歳の医大生と14歳の中学生の恋


「2人は英会話かよ」

 望は興味なさそうに言った。試験の後にすんすんとの会話は流石に堪えた。紫はつまらなそうな顔をして

「まっきーが気を遣ってね。まっきー、さっきの話2人にもしていい?」

 まっきーは真摯な眼差しで

「それなら、私から話す」

 望の本音としては、すんすんとの疑似駆け落ちの後に重い話に対応する余力は残っていない。望がすんすんを見ると視線をそらしてしまう。望は心が乱れているすんすんに火の粉が飛ばないよう道化師に徹しようと思った

「気が小さいのでお手柔らかにお願いします」

 まっきーが望を睨んで、やや強い口調で

「望さん、聞きたいことは2つ、紫さんのことと、桃香のこと」

 まっきーは余計な話を省いて率直に聞いてきた。望はまず結論を言った

「どちらも好きですよ」

 まっきーは数秒間言葉を失った。まっきーが予想していた答えではなかったようだ、まっきーはすんすんとは良くない方の意味で違う感じの人だと望は感じた。

「“好き”ってそんなに簡単に言える言葉ですか?」

 望は紫とまっきーの英会話は聞き取れなかったが、まっきーの意図がももちんと自分の仲をつなぐことだと解釈した

「僕は語彙力が貧弱なので適切に当てはまる言葉が選べないだけだと思います。

 すんすんさんは最初の台詞から好きになりましたし、まっきーさんもさっきの台詞で好きになりましたよ」

 望はまっきーの顔に落胆の色が見える。会話の相性が良くないことは明確だ。まっきーは助けを求めるような顔で紫をみた、紫はため息をついたあと

「今日、望と話したのは中学の卒業式以来、あなたが期待しているような関係じゃなかった。だから始まりも無ければ終わりもないのよ。

 それとからかっているように見えるけど、望はどうでもいい奴にしか嘘つかないから」

 望はまっきーが言葉を発する前に言葉を繋いだ

「質問の答えになるか分からないけど、紫さんは憧れの人だった。中学の時は今は無理だけど、いつか紫さんと付き合えるような男になりたいと思っていた。

 紫さんと会うのは3年ぶりだけど、紫さんと僕は同じ螺旋階段を上りながら、今でも追いつけなかったみたいな感じってのが今日の感想かな」

 まっきーは首を左右に大きく振って、少し怒ったような口調で

「望さんは桃香の気持ちを分かっているんでしょう。”すきです”って言葉を聞きたい人にどうして言ってあげないんですか」

「僕に係わらない方がいいからさ」

 望は間髪入れず答えた。1ヶ月前までKと桃香が仲間で桃香が美人局でないかという疑念も捨てきれていなかった。この疑念こそが、望を恋愛に誘わなかった要因の一つだった。ただ、この仮説はまっきーに伝えるつもりはなかった。

 そもそも、碧との1件もあった自分に女性から積極的に近づいてくることはあり得ないというのが最大の根拠だった。女性が他人を差し置いて自分を恋愛の対象に選ぶ要素をもっていないことは自身が理解していた。碧の場合も自分がしつこく迫ったから渋々付き合に発展したのだという見解だった

「碧さんの件があったから?」

 望は桃香がそんな具体的な話まで、まっきーにしているのだと思った

「そうだよ、ももちんは真面目な娘だから、酷い噂を立てられても迷惑だろう。

 それと、ももちんから聞いているかな?碧さんをさらって行ったのはさっきの男だよ」

 望はまっきーがこの話に少しも驚いていないところ見て、桃香がまっきーに自分のことで相談していたことが理解できた

「ねえ、望さんそんなひどい目にあっても、取り乱さなかったそうじゃない」

「僕は、あんまり頭良くないから、考えても無理なんで、何も考えないようにしていただけだったな、あの頃は」

 それは嘘だ。望は断言できる。心を乱さないのはKと碧と戦っていたからだ、無関心ほど相手への攻撃力が高いことを知っていたからだ

「好きな人がそんなことになって、そんな風に平気でいられることが信じられない!」

 まっきーは強い声で言った。望はまっきーが自分の心踏み入って欲しくない部屋の扉の鍵を開こうとしていることが不愉快だったし、まっきーが紫やすんすんと比べると思慮が浅いことが残念だった。少し強い口調で

「僕が碧さんに愛想尽かして、碧さんの憧れだったKに誘わせたとでも?

 確かに色々な点で発展途上だった、紫さんやすんすんさんには遠く及ばない、でも一緒に登ればいいと思っていた」

 まっきーがたじろいだ。すんすんが口を添えて諫めてくれた

「まっきー、望の心に踏み込み過ぎだって」

 望はすんすんが自分のことをいつの間にか”望”と呼んでいることに気付いた

「ごめん、乱暴な言葉になってしまって」

 望が謝ると、まっきーも

「ごめんなさい。望さんの気持ちなにも考えていなくて」

 望は碧にはまっきーの様な発言は碧はできなかったということを思い出した。まっきーを紫やすんすんと比較したことを申し訳ないと思った。

「こういう嫌がらせは小学校の時から受けているので、鈍感になっているだけかもしれない」

 望はできればもうまっきーとは話したくなかった。刹那、紫のために中学生の自分が課した

 ”紫の前では不機嫌にならない”

 を思い出した。ここは紫のいる”場”だ

「そういえば、僕の中学の友達は紫さんの他には1人しかいなかったけど、そいつもこのことで気に掛けてくれたな」

 すんすんが気を遣う

「その人はなんて」

 望はすんすんの人間性の高貴さに感動した。世の中には同級生でも紫に相当する人が複数いることが嬉しかった

「ああ、中学の頃、紫さんと仲良くしていた僕を恨んで嫌がらせしているんだろうって。

実はさっきまで中学のときKが紫さんにコクった話は知らなかったし、まさかとは思ったけどね」

 すんすんは

「あの男なら有り得るわ」

 まっきーは悲しい声で

「さっき、むらさきにさっきの男と仲間で、頼んで2人を別れさせたんじゃないかって聞いたんだ」

 望は”何のために”と聞こうしたが口の手前で言葉を止めることができた。

 ”紫が望を好きだから”

 望はこの言葉に恐怖を感じていた。中学の時、散々冷やかされたからだけではない、そこに到達したら今度は維持する義務が生じるからだ、この恐怖は初めて付き合った碧を通して強く感じるようになった気持ちでもある。告白するまでの昂ぶった気持ちと、交際を始めて維持する難しさ。碧も初めて付き合った男が望だった。

「英語は聞き取れなかった、むらさきは何て答えたの?」

 すんすんが聞いた。紫が事もなく答えた

「もしその気があれば、はっきり望に伝えるわ」

 望は自分が好意を抱いた紫は期待を裏切らず紫のままだと感じた。2人が離れていた3年間自分がどれだけ紫に近づけたのだろうか?その話の前に厄介なまっきーの話を片付けなければいけない

「まっきーの話はももちんに頼まれたのですか?」

 まっきーは明らかに動揺して左右に首を振った

「私のでしゃばり、桃ちゃんに頼まれた訳じゃない。これだけはお願いだから信じて」

 望は気を遣うことにした

「ももちんにはいい友達がいるな」

 望は、Kならばまっきーを口説くだろうなと思った。多分先ほど話しかけてきたのもその目的も含んでいたのだろう。望の中ではまっきーは三人称の人のままだ

 まっきーは衝撃的な言葉を吐いた

「望さんはむらさきのことをどう思っているの」

 望は、まっきーも大分混乱しているなと思った、浮気現場でもなければこんな質問はしないだろうと思って可笑しかった

「紫さんに僕が好意を抱いた時、紫さんは僕の心を読み取って2つの課題を僕に課した

その1つを僕はまだ達成できていない」

 すんすんはすぐに反応して紫に2つの課題を聞いた。紫は答えなかった

望はすんんすんに笑顔で先ほどの螺旋階段の話だとだけ伝えた。

 すんすんは望の顔を見つめたまま次の言葉が発せずにいた

 まっきーはすんすんの話を遮って

「もしその課題を達成したらむらさきさんに告白するの」

 望は笑って

「そのとき紫さんが近くにいればね」

 4人に沈黙が訪れた。口を開いたのは望だった

「その時誰かと付き合っていたら

・・・きっと付き合っている方を優先する

・・・碧さんと同じことはしない」

 まっきーは呆然とするだけだった

 すんすんはうつむいた

 紫はぽつりと

「碧さんは何かが足らなかったのじゃない?

 望はすんすんみたいな人のが好きだから

 そういう人だったら、捕まえたらよそ見もしないし、離さないよ」

 すんすんは慌てて

「むらさき! 何てこと言うのよ! 望と会話出来なくなっちゃうじゃない」

(碧と同じことはできない)

 望はそう無言で呟くと紫が今でも遠いと思った。

「紫さんはやはり凄いな。螺旋階段の真上にいるのに追いつくことができない」

「望はリーマン面で私を追っているのね」

 望は”リーマン面”が何か分からなかった。明日図書館で調べようと思った。

 まっきーは不躾な質問をした

「望さんは桃香と付き合う気があるの?」

「答えになっているかどうか分からないが

 合格したら2人で出かける約束をしている」

 望はまっきーが満足そうな顔をしているように見えた。

「そうか、ももちゃん約束していたのなら教えてくれても良かったのに」

 1ヶ月前の日曜日、望は桃香に県営図書館で勉強に誘われた、1問解いたところで、気分転換だと近くの公園に連れ出された。その後は桃香にとってはデートだったようだ。望はもしかしたら桃香は演技ではなく自分に好意を持っているのではないかと思った。もし、Kと内通して自分を騙していたとしても甘んじてそれを受けようと決心できた

 ”訳ありの僕なんかに係わっていいことなんかなかったろうに、ももちんは物好きだなぁ”

 桃香は何も答えなかった。参考書を見ると望は本屋に誘われた。2年生が模試なのだろうか、本屋には紫と同じ制服の学生がいた。桃香はその制服を毛嫌いしていることは1年近く一緒にいた望は容易く仕草で気付いた

 ”ブスでバカじゃ救いよう無いよね”

 望は桃香のあざとさが気に入らなかったが、否定しておいた。桃香は望はそういうことを言わない人だと言った後に、人の目を気にしないで堂々としているところは凄いと褒めてくれた。望は自分が鈍感で相対論が嫌いだと言ったら桃香は笑ってくれた。

 旅行ガイドのコーナーで望の腕を桃香が抱えた。”合格したらどこか行きたいね”と桃香が言った。”僕は青べか物語の舞台に行ったことがないので行ってみたい”と望は答えた。青べか物語の舞台は浦安である。桃香は山本周五郎の小説が好きだと言っていた。本屋のこの一角、この時間の2人は受験生の会話ではなく、恋人同士の会話だった。望はその日がきたら桃香の苦労を労って彼女が望むことを全てに応えてあげたいと思った

「あれ、もう富田駅だ、私はお先に失礼します。今日はお疲れ様でした」

 まっきーがそう挨拶すると残る3人は”お疲れ様”と答えた。

 扉が閉じると桃香がまっきーのところに駆け寄るのが見えた。まっきーは笑顔だった。電車が発車するとすんすんが望の肩を叩いて”望、お疲れ様”と言った。望はすんすんのような人と添い遂げられたらこれからの人生が安泰だろうと率直に感じた。恋愛は付き合った後もどちらかが放棄するまで維持しなければならない。碧が教えてくれたことだった。

「紫さんがKに頼んで碧さんと別れさせたって件(くだり)は笑った」

 すんすんは真顔になって

「望は碧さんのどこが好きだったの?」

「碧さんは相対理論を否定してくれると思ったから」

「なんじゃそりゃ」

「自分で判断基準を持っている人と誤解していた」

「ももちんとのデート楽しみだな」

「”合格したら”の条件付きだからきっとご破算だよ

 ももちんは先月までKと仲間で僕を誘惑して精神的に翻弄して受験を失敗させようとしていると勘違いから、そのお詫びでももちんが望むことは全て叶えてやろうと思った」

「モテる男は大変だな」

「すんすんさん程の女性に冗談でもそう言ってもらって嬉しいですよ」

 電車がブレーキをかけて電車が揺れた。すんすんは体勢を崩して望の胸に飛び込んでいった。望はすんすんを抱きとめた。

「むらさきごめん!」

 他の学生達の響めきも気にせず、すんすんは望の腕の中で紫に微笑みかけた

「望、ありがとう」

 すんすんはそのままの体制を不自然な時間保持していた。紫が何か言おうとしたとき、何事もなかったようにあっさりと紫に

「お疲れ様、また明日」

 紫もすんすんのように平然と

「お疲れ様、じゃあここで」

 望もすんすんに別れを告げた

「すんすんさん、お疲れ様、短い時間だったけど楽しかったです。ありがとう」

「うむ、苦しゅうない」

 すんすんは右手を額に付けてお巡りさんが敬礼するような真似をした。

 望は紫の荷物を持って電車を降りた。乗客の流れから逃れて立ち止まり、電車に残ったすんすんを見送った。望は荷物を持ち替え自分の荷物を下ろしてすんすんに手を振った。

 硝子越しに元々細いすんすんの目がさらに細くなり微笑む顔に望は見とれていた。


 **********

 東京の朝、望を乗せた水色の電車は東京駅を過ぎた。

 望は将門の呪いを山の手線が結界になっているという話を聞いたことがある。将門を討った秀郷の末裔の小夜が毎日ここを通って学校に来ている現実を、滅多に乗ることのない自分が電車の中から眺望しているのが可笑しかった。部外者である自分は物見櫓から見下ろす風景を連想させた。

 そういえば、試験の帰り、すんすんと別れた後の記憶がない。それとすんすんの本名はなんだったか?

 望は高校生の時、記憶については調べたことがあった。動機は学生の業務で考えることは20%位でそれ以外はひたすらに覚えることだと分かったからだ。楽して覚えられればこんなに効率のいいことはない。自分は覚えることより考えることの方が好きなのと、持ち前の調査癖が顔を出して個人的な結論までたどり着いた。

 世の中には教科書を数回読んだだけで全て覚えてしまう人がいる。大学で数ヶ月前に揉めた愛美はこの種類の人だったようだ。残念ながら望にはそういう能力はない。記憶は”追補性(ついほせい)”であると結論づけた。

 追補は言葉の意味は”追加すべき事象(情報)を補足すること”である。語彙力が乏しいのでこの表現が適切とは思わない。

 ”追補性”は世の中にはたくさん事象があって、それを意図的に記憶し、維持するためには補足する何かが必要ということである。

 試験の為に新しい事象、情報を覚えたとしても試験の時には記憶に残っていない、もしくは試験中に覚えていても試験が終わって数日経てば記憶に残っていない事象は自分にも起こる。もし全て覚えていれば翌日の試験は満点を取れるかもしれない。

 例えば、昨日の14時28分46秒に左足かかとの状態を記憶している人は、足をケガしている人でもなければ覚えていないだろう。少なくとも自分は数多の情報の中で意図した事象しか覚えない。また本人が望んでいなくても外的な要因によって覚えていることもある。大げさに例えれば交通事故の記憶や災害の記憶がそれに当たる。

 事象は自分の視点から見て単独では意味を為さない。それを観測もしくは意図せず巻き込まれることで記憶になる。記憶は追補する内容によって自分の中に記憶として維持する時間が異なるというものである。これは”量”の問題である。先程の左足のかかとの場合、発生時の”量”を100とすると、ほぼ0に近い時間(Δt)の後、全て失われてしまう。もし”量”が1~2残っていれば今、説明できる筈だ。つまり0になっていると言って問題ない。そして1~2残っていれば繰り返し記憶し直すことで”量”は戻るが100に戻るとは限らない。

 では、覚えている記憶とはどういうことだろうか?自分の考察では追補した内容によって”量”の減少の速度が減るということである。

 ある人と会話して翌日、”量”として20しか覚えていないが、美人女性と会話して翌日も会話を覚えている場合、”量”で90くらい残っているということならば”美人”や”女性”が”追補性”ということになる。”追補性”は記憶の寿命が延びるということである。しかも”美人”や”女性”をきっかけに相補的に会話を思い出すことも有り得る。ゆえに、記憶の際、刺激的な要因があるほど寿命が延びるのである。

 この理屈に従って化学の元素は女性にはとても言えないようないやらしい語呂で覚えていて今も記憶に残っている

 話を戻そう。すんすんの名前はなんだったか?

 大田原真希?

 それは”まっきー”の方だ、”ももちん”こと桃香にセンター試験の次の日聞いた。高校生の自分でも桃香に”すんすん”の話題を上げることがまずいことは気づいていた。

 田沼由樹?

 これは斎藤の彼女だ、夢にでてきたゆき先輩の美しい顔が浮かんで来た。田沼?

「そうだ、黒羽量子さんだ!」

 望は思わず言葉を発してしまった。美人つながり、そして田沼も大田原も黒羽も栃木の地名つながり、センター試験の翌日、桃香がまっきーのことを大田原と言ったとき黒羽の隣の町だと不思議な関連があることを思った記憶が蘇った。桃香にすんすんの話はできないし、すんすんに本名を聞いていない筈である。なぜなら、後であだ名の由来を聞くのを忘れたと後悔したことは深く記憶に刻まれているからだ。

 もしかしたらこの1年半、自分の能力を超える脳の記憶媒体を酷使した代償で美しい記憶が失われてしまったのかもしれない。誰から黒羽量子の名前を聞いたのだろうか?

 望を乗せた電車が秋葉原に着いて乗り換えの階段を上ると、ちょうど東に向かう黄色い電車が扉を閉めたところだった

 あの日、ガラス越しに見えた細い目をさらに細くして微笑んだすんすんの顔が蘇った

「すんすん?ああ黒羽さんね、あの娘愛想がよくて、はっきりしたいい娘ね。

 望君、逢ったなら一目惚れしたでしょう

 でも紫、”黒羽量子”なのにどうして”すんすん”なの?」

 これは、紫の母親のに言われたのだ、何故こんな印象深い話が記憶に残っていないのか望は不思議に思った。

 刹那、望の頬に冷たい手が優しく触れ、輪郭をなぞると、その手が望の髪を掻き乱し、そのまま背中に流れ、力強く抱きしめられた記憶が蘇った。階段で両手に荷物を持った自分には抱き合う事ができず後悔したのだ


 ***********

 閉められた扉の向こうで

 目の細い女性が手を振っている

 望はガラスのを通したすんすんも美しいと思った

この列車は学生2人の駆け落ち物語を刻まなかった。2人は見えなくなるまで手を振った

「すんすんを見る目、いやらしいわね」

 紫が無感情に言った

「紫さんを見る目と同じだな」

「私には駆け落ちしようなんて言わなかったじゃない」

「聞こえてたんだ」

「女の同時処理力を侮るな」

「ああ、歯を磨きながら読書できちゃうやつか、男には無理だ」

 望は紫の表情が中学生の頃には見たことのない悲しいものだった

「ここでプロポーズすればいい?」

 中学校の頃、”私は話を聞いて欲しだけなのに、望は解決方法を用意する”とよく叱られた

「やっぱり望は望ね」

「”僕が医者になって病院を継ぎますから

紫さんには素粒子の勉強をさせて下さい”って言えばいいかな」

 すんすん達が合流する前にした身の上話だった。

「さっき別の女を口説いていた漢が吐く台詞とは思えない」

「紫さんの人生を奪いたいけど、医者は無理だな」

「やっぱり、人生はおなじところに行くんだ・・・駅員さんが困っちゃうから、改札を出よう」

 望は”おなじところ”の意味が分からなかった。人のいなくなったホームを2人は改札口に向かって歩き出した。

 中学の時、やけに大人びた紫が、実際は大人で身体だけ中学生になったのではないかという疑問を持ったことを思い出した

「もしかして2000年に隕石が落ちる話」

「ははは、そんなこと言ったかしら」

 望は紫が先ほどと同様に悲しい顔をしたように見えた

「でも私にはが経験した未来は1989年までだから」

「その話初めて聞きましたよ」

「うそ?初めてにしては、全然驚いていないじゃない」

「驚きすぎて混乱しているだけです」

「うそ、大学生の私が朝起きたら中学生になっていて、それがあなたと同じ学校に転校した日だったって話したよね」

「紫さんの服が透けて見える位の衝撃です」

「ごめんね、言ったと思ったのに・・・服が透けているなら、もっとお気に入りの下着を付けてくれば良かった」

 電車を降りたときから紫はなにかがおかしい。望は率直にそう思った。

 3年の隔たりが彼女を変えた訳ではない、むしろ変わったのは自分の方なのだろう、紫にとって自分は紫自身を映す鏡のようなものなのかもしれない。

 跨線橋(こせんきょう)の階段で急ぎ足の紫が先に進むと目で追う望は振り返る紫を見た

 次の瞬間、紫の唇と望の唇が重なった。望は紫のされるがままに紫の唇の動きを感じていた。碧では感じなかった大人の艶めかしさが支配している。映画のフイルムにしかない激しい男女の出来事がこの階段で起こり、望と紫は記憶のフィルムに映像として刻まれた。

 望は今起きていることにどうしていいか分からず、紫のされるままに身を委ねていた

 紫は唇を離すと何事もなかったように階段を上がった

 望は自分から言葉を発しないといけないと思った

「本当だったんだね」

 紫は何も答えなかった

 望は口づけの余韻だけが残っている。何も考えることができない。精算所に切符を渡して駅の改札をでた。待合室ににはまだ何人かの学生が残っていた。

 駅を出るとライオンの紋章の車が止まっていた。窓がゆっくり下りて、運転席の女性が女性が声を掛ける。

「お疲れ様、男と一緒か?あれ?・・・もしかして望君」

「こんばんは、ご無沙汰しております」

 望はそう言って女性に頭を下げた

「あら、望君?見違えちゃった、随分痩せてカッコ良くなったね」

「紫さんのお母さんもお美しいままで」

「あら、望君は正直ね」

「ご主人の具合が悪いとうかがいましたが、体調はいかがでしょうか?」

「ははは、ありがとう。医者の不養生ね、来週には退院できるみたい」

「それは何よりです」

 紫が言いづらそうにカタコトで

「望に本当のこと話した」

 紫の母親は医者の顔に戻って

「そう」

 と一言だけ。望はそのことに触れず別の話題をした

「その節は大変お世話になりありがとうございました」

 紫の母親は事務的な口調で

「望君、乗りなさい」

 望は黙って頷くと、紫と自分の荷物を車のトランクに入れた。

 ”やはりそうなるよな”

 ずっと憧れていた女性と交わした口づけの衝撃から、望は紫の母親との会話で幾らか正常を取り戻したところだったが、これだけの大事件が、単なる紫の気まぐれであるはずがないことは明確だった。世の中は仕合わせが振ってくるような出来事は自然には起きない。

 荷物を置くと紫が望の手を引いてくれた。紫と望は手を繋いだまま車の後部座席に座った。ドアを閉めると運転手の女性が言った

「お腹空いたよね」

 望は紫に手を引かれたときと運命を共にする覚悟ができていた。運転手の女性の前で微塵の躊躇も動揺も見せたくない。きっと同級生の誰にも出来ないがこれだけは自分にできることを紫と運転手の女性に見せたかった。自分の持っている手札はこれで最後だ

「行く先が黄泉の国でも紫さんがそこにいるのならば他に何も望みません」

 紫の母らしい運転手の女性は、黄泉の国に行った伊弉冉(いざなみ)が黄泉の国で食事をしたために現世に戻って来られなかった話を引いたのだと望は直感した

「望君は史学の道を選びたかったのよね」

 運転席に座る女性は怪しげに笑った。

 <つづく>

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