第26話 ゆき先輩と紫式部

 ゆき先輩と紫式部


 黒雲が速度を上げる。家に帰るより町に下って本屋で雨をやり過ごそうと思った。高校と違って原付きバイク通学は自由度が高い。

 本屋に到着すると強烈な雨が町を襲う。目に映る現実を見ながら自画自賛した。本屋で時間を潰すのは大学の過去問を解くのが最適だ、集中しているとあっという間に時間が過ぎていく。まあ、本屋を図書館代わりにするのは犯罪行為なので問題集を買って帰ろうと思う。

 ”赤い傘濡らすRain”

 そんな歌が蘇った、あのCMに出ていた女の子が何となく碧に似ていたような気がした、誰だったか?

”褒めすぎだな ”

少し笑った。 そういえば、そのCMは紫の家で見た。

 ”もう5年も経つんだ”

 そのアーチストは好きでアルバムも持っている。そのアーチストの行った大学の赤本を開いて、化学の問題を解き始めた。文章の解釈に苦労する。国語力の不足は読解力のに重い影を落とし、取りこぼしも深刻である。多くの解決できない問題は、大抵複数の要素に起因している

「富樫じゃないか」

 聞き覚えある声が聞こえた

「斎藤か、懐かしいな」

 そこには小中学を通しての唯一の友達、斎藤望が立っていた。偶然であるが名前が一緒である。小学校のクラブ活動で知り合って将棋盤に向かい合う間柄だった。斎藤は星愛美の工作で仲間はずれにされたときも、変わらず友達関係を続けてくれた人でもあった

「お前、今なにやってんだ」

「ははは、しがない浪人者だ、傘貼りの内職をしながら仕官先を探している、お前は?」

「ああ、この道を北に進んだ先にある大学に行っている」

「群大に受かったのか、おめでとう。今じゃマクスウエル博士のお弟子さんか」

「よく覚えているな、確か最後に会ったのは2年前か、彼女にフラれて落ち込んでたとき」

「あん時はありがとな、お陰で立ち直れたよ」

「よりによって、Kが・・・」

 あまり触れて欲しくない話題だったので話を逸らした

「なあ、俺って2年前よりいい男になったか?」

「何だよ、唐突に」

「さっきから、凄い美人さんがこっちチラチラ見ているんだよ」

 斎藤が振り向きその美女に目配せしてすると、微笑みながらこちらに歩いてきた

「彼女って紹介していいか?」

 斎藤が美女に聞いた

「彼氏ズラすんな!」

 笑顔の美女は声まで美しかった

「妻の”ゆき先輩”です」

 美女は斎藤の顔を拳で音の出ない程度で殴った

 僕は笑いながら

「ご結婚におめでとうございます。お2人の末永い仕合わせをお祈りします。

 お前、唯一の親友だと思っていたのに結婚式に呼んでくれなかったのか?

悲しいぞ。借金してでも恥ずかしくない祝儀くらい包んだのに」

「知り合いだったんだね、望がやけに楽しそうに話しているので、禁断の世界に足を踏み込んだかと思ったよ」

 ゆき先輩は真顔で言ったので、どこまで本気なのか分からなかった

「富樫望といます。斎藤とは小中学の同級生です。偶然ですが名前が一緒です」

「田沼由樹です。望とは同じ学科で、先輩といっても誕生日が2日早いだけで、浪人も留年もしていませんので、その点は誤解無きよう」

「富樫は今、浪人生なんだ。実は名前だけじゃなくて先祖も一緒なんだ1000年以上前の話だけど。それと、ゆき先輩のこと”凄い美人さんがこっちを見てる”って褒めてたぜ」

 斎藤は昔から、こういう場面の気の回し方が巧みである。ただ、浪人していることに僕は劣等感を抱いているわけではない

「美人さんに見られてときめいてしまいました。美人さんでも斎藤を選べるところに驚きました」

「おもしろい言い回しね」

「ゆき先輩ほどの美人ならば、数多の男が声を掛けるでしょうが、その中で斎藤を選べるんですから」

「褒めすぎじゃない?」

「僕は写真をやっているので、ゆき先輩がどのくらいの美人なのか分かっているつもりですよ。よろしければ座標で示して説明しましょうか?」

「いや、望のこと」

 斎藤の肩を小突いて

「お前の学校にいくと、こんな凄い女性がざらにいるのか、今から国立志望に変えようかな」

 ゆき先輩は手に持っている本に目を落として

「凄いところ、受けるのね」

「いえいえ、ただ見ているだけです。物理が物理的に無理です」

「他はイケそうなの?」

「英語も今じゃ無理ですね」

「数学と化学はイケるんだ」

 ゆき先輩の鋭さに驚いた。予想が正しいならば、自分の”浪人”という言葉のお詫びが含まれているのだろう

「問題によってはマグレが起こり得るでしょうね、数学と化学だけなら」

 斎藤が空気を読んだ

「コイツ、久保紫さんの元カレだぜ」

 ゆき先輩は驚いた顔をして

「紫式部の元カレ、うわぁ~大変失礼しました、とてつもない大物でいらっしゃいますね」

「あのう、ツッコミどころ満載でどこから手を付けていいか分からない状態なんですけど」

 斎藤から、紫と入学式の時に再会して言葉を交わしたという。紫は医学部に入学した。そのとき僕の話題がでたということだ。僕の友達は紫を除けば斎藤しかいなかったので話題は僕であってもおかしくないと思った。

「紫さん紫式部とか呼ばれているのか」

 ゆき先輩が笑いながら答える

「創立以来規格外で有名人よ、前橋の話が桐生で聞こえるんですから」

「紫さんの話は上毛電鉄みたいに前橋と桐生を往復しているんでしょうか?まず前提として、紫さんとは付き合っていませんから、僕の数少ない友人がエロ作家呼ばわりされているなんて不憫でならない」

 斎藤が真顔で

「中学中みんな知ってたぞ付き合ってたこと、お前、しょっちゅう紫式部ん家、行ってただろう、同級生にも見られているぜ」

「まあ、確かに紫さんの家には行ったことは確かだが・・・というかお前まで紫式部とか言うな」

「同級生で紫式部と付き合える人がいるんだ」

 ゆき先輩がからかう

「僕のこと、夫婦漫才のネタにしないで欲しい」

 斎藤は真顔になって

「本音を言うと富樫と紫式部には感謝している。

あの国語の先生は我々の先祖を芥川竜之介の小説を根拠に罵ったからな。捏造して金儲けする短距離大作家様もどうかと思うが、それをまともに解釈できず、鵜呑みにして侮辱を拡散する先生もどうかと思うぜ。その教師に2人は真っ向から立ち向かってくれたんだから」

 ゆき先輩も興味津々に

「なかなか刺激的な中学生だったんだ。まあ、紫式部の中学時代にうってつけのエピソードだけどね」

「あの教師、富樫が反論したら”お前、それ見たのか”と蔑(さげす)んだらしいじゃないか」

 斎藤はクラスが違ったのでその場には居合わせていなかった

「その通りだ、先祖を侮辱されただけでなく、僕の意見さえ侮辱したんだ、クラスの連中は爆笑していたけど、その後、落ち込んでいたら紫が声を掛けてくれたんだ」

「教室じゃ、先生は神様みたいに振る舞うからね。神様が下衆に意見されて謝ったら神様じゃなくなっちゃうので強硬手段を取った感じかな」

 そう言ったゆき先輩に紫の面影が重なるようだった

「僕は大切なことを学んだよ、人は簡単に騙されるって。先生とかいう肩書きを持つ人ほど疑わないとダメだってね。歴史の本に書いてあることを読む度に”お前、それ見たのか”って言葉が蘇って長いこと見るのが怖くなった。でも斎藤や紫さんがいてくれてよかった。2人のお陰で心まで神の偽預言者に侵略されずに済んだから」

「俺は何もしてやれなかったし、何も出来なかった。富樫と紫式部はすごいと思ったよ」

 斎藤はしみじみと語った

 僕は笑って答えた

「予備校の理科の講師が言ってたな

この世に神様はいない、預言者のみ存在するって」

「先生は預言者ってことか、上手く言うなその講師」

「理科の先生だって然りだ、先生の大学での教育課程だと現在の原子は説明できない、先生は19世紀に作られた魔法の書をもとに、インチキ霊媒師のように真顔で現代の解釈と違う内容を授業しているとも言ってたな、何の悪気も見せず」

 ゆき先輩が驚いたような顔で

「上手いこと言う講師ね、高校で理科を止めちゃうと、19世紀の理科の解釈でしかないからね、まあ、理科を使用しないで恩恵だけ受けている人はそれでいいんでしょうけど」

 斎藤は真顔で

「幽霊とか悪魔とか本気で信じちゃう人がいるからね。信じるのは勝手だけど、マクロとミクロの概念が無い人に長時間説得されても苦痛なだけだからね」

 こういう話にゆき先輩を巻き込むのはよろしくないので話を逸らした

「そういえば、お前のこと講師に話したら会いたいって言ってたな」

「俺?」

「岡部六弥太の末裔なんだその講師」

「保元、平治にも馬を並べた猪俣の岡部殿。嗚呼、極寒の龍華峠にて、源義朝親子を命懸けで御守り通した同僚の末裔・・・

 そうだ、思い出した、ずっと前にお前に聞かれていた”燧が城”の”斎藤太”、誰だか分かったぞ

 俺の先祖斎藤実盛の長男で尾張守を冠し宗家を相続した人物だ、ついでに凄いことが分かったんだ! 実盛の4男は養子だけどあの木曽義仲だぜ!!」

「すげぇな、木曽義仲かぁ、義仲と言って真っ先に浮かぶのは、

 心も剛に力も強い、強弓精兵”ともゑ(巴)”だな

 どこかに落ちていないかな」

「結局女かよ、スケベが、でも、お前の好みは変わってねえな、

 ・・・ところで、落ちてたらどうするんだよ」

「決まってるじゃないか、拾いに行くよ」

 ため息をついたゆき先輩が言う

「あのぉ~望1号、望2号、ゆきさんがここに居ることをお忘れではないでしょうか?」

 斎藤は笑いながらツッコんだ

「改造人間じゃないぞ俺達は!仮面ライダーみたいに言うな」

「そういえば、お前のご先祖様、松尾芭蕉にバッタ呼ばわりされているじゃないか」

「ああ、”兜の下のきりぎりす”あの兜、元服のときに義仲に送ったものだぜ、木曽から取り寄せて奉納したのが正しい、物語と事実は随分違う。歴史なんてこんな話ばっかりだ。

 言わせてもらえば平家物語の富士川の合戦負けた原因が先祖のせいになっている。”玉葉”読めつ~の。なんとか大学大教授様の意見で子孫の評価は左右されちまうってことだ、文系の世界なんてうんざりだ。万人がその数式を解けば同じ答えがでる理系の世界は居心地がいい、まあ計算出来なかったり、意図的に間違う奴もいるけどな」

 腕組みをしたゆき先輩が

「2人の話、大分がんばって理解しようとしたけど、結局意味不明なんですけど、

 元の話に戻してよろしいかしら?」

 斎藤が慌てて

「すまん、すまん、こんな歴史の話ができるのこいつだけだから昔みたいに話し込んじまった」

 そういえば、斎藤とは将棋盤を挟んでよくこんな歴史話をしていた。2人とも芥川竜之介が小説「芋粥」で侮辱した藤原利仁の末裔である。利仁の子孫は脈々と現在まで引き継いでいる。仮名にしなかったところに、世間で評価の高いこの作家に悪意を感じる。

「芋粥」の利仁像の歴史的な妥当性が低い話は、医者である紫の母親が完璧なEvidence Reportを作成し、それが国語の先生の発言を追い詰めることになった。斎藤も僕も利仁将軍は尊敬する先祖であり、その親族に対する侮辱に寛容する心の広さは持ち合わせていなかった。

「紫式部が動いたとなると、その先生タダじゃ済まなかったでしょう」

 斎藤は笑って

「お察しの通り、国語の担当は途中で降板、翌年度には先生は転勤、紫式部様の完全勝利で幕を閉じた」

 中学の時、紫との関係は執拗に冷やかされた。紫は終始大人の対応だった。先生に復讐をする代わりに同級生の妬みに晒された。思えば小学生の高学年から中学を卒業するまではずっと孤独で、同級生がいう”普通”と戦っていた。何が正解だったか未だに分からないが、あの頃に戻ってもう一度選択し、やり直すのは御免だということだけは確信している

「紫さんにはすっかり世話になったが、まだ何一つ返せていない」

 斎藤は呟くように

「あのクールな紫式部が、お前の話になると楽しそうだったぜ」

「学校ではなるべく会話しないようにしてたんだけどな、2人の関係はバレバレだったんだな」

「2人の関係?」

 楽しそうにゆみ先輩がからかった。それに被せて斎藤が

「俺の勘だと、紫式部様はまだお前に気があるぜ

 羨ましいな、KO-Boyと未来の女医さんのカップルか」

「斎藤てめぇ、ゆき先輩を口説くぞ!」

 斎藤は笑ったまま

「大丈夫、富樫は人の持ち物を羨ましがったり、欲しがったりしない奴だ、それに自分がやられて嫌なことは絶対他人にはしない。葵さんのこともあるし」

「葵(あおい)さん?源氏物語みたいね」

「わざと言ってるだろ! 碧(みどり)さんだ」

 ゆき先輩は怒った口調で

「望、ここで冗談言うところ?富樫さん、碧さんって?」

「高校の時に付き合っていた女性です。2年の時に別れました。別れた後、斎藤に愚痴を聞いてもらいました」

 碧と別れた直後、県営の図書館で偶然斎藤と会った。斎藤は僕の行った高校より偏差値の高い進学校に進んでいた。昔話や現状の話をした後、高校の友達には決してしなかった碧の話をした。碧をさらった男は、斎藤と僕と同じ中学の同級生だった。話を一通り聞いた斎藤は信じられない仮説を立てた。

「お前の仮説は正しかったみたいだ。僕のせいで碧さんに辛い思いをさせてしまった」

「俺の仮説が正しかったなら、富樫のせいじゃない、碧さんがお前を見る目がなかっただけだ」

 泣きたくなった

「お前は、いい奴だよな」

 ゆき先輩が口を挟んだ

「話が見えないんですけど、もっと詳しく聞かせて」

 本屋の外は雷雨の”盛り”の頃だった。

 隣の書棚から聞き覚えのある声が聞こえる

「ウチに泊まってもらうよ」

「いいの、望には裏口を合わせてもらったけど、

本当は前からそういう関係なの

両親にはまだ内緒でお願い」

 斎藤とゆき先輩はその興味を引く声を気に留めることなく話を続けた

「ああ、あの後俺も色々調べたんだ」

 話を遮った

「ちょ、ちょっといいか?」

 訝しげな顔でゆき先輩が訪ねた

「どうしたの?」

 なぜか斎藤とゆき先輩には隣の書棚の声が届いていないようだ。耳をそばだてても聞こえるのは雨音と時々響く雷だけだった、店内には自分達の他には制服の高校生が5人だけだった、声の主であろう中年のおじさんはどこにもいなかった。

「すまん、聞き覚えのある声がしたようで」

 斎藤はその言葉さえも無視するように話をつづけた

 碧を奪ったKは、紫に告白して振られたらしい。斎藤の仮説だと、僕に恨みを持って嫌がらせのために、彼女となった碧を奪ったのではないかということだった。

 にわかに信じ難い話だったが、Kと碧がラブホテルからでてきた噂の後に、2人が一緒にいる場面をみたことがなかった。仮説を信じるならば碧は目的を達成した後に用済みで捨てられたという話に真実性が帯びる。

 その出来事の1年以上後の話になるが、センター試験の帰りに紫と3年ぶりに再会して話し込んだ、そのとき紫から中学の時にKに告白されて辛辣に断った話を聞いた。斎藤の根拠の設定は適切だった

「本当なら随分酷い奴ね」

 ゆき先輩が憎悪に満ちた顔で言った

 あのとき、

”こんなこと言って富樫に申し訳ないが、怒らないで聞いてくれ”と前置きをした斎藤は、Kの学力は中学でも上位で、僕と同じ学校は学力に合っていないと言った。

 確かに入試は学年トップで、1年生のときはずっと学年最上位だった。容姿端麗で運動もできていたので女生徒から過剰なまでの注目を浴びていた。そんなKが自分を袖にして紫がどう見ても格下の僕と親しくしていることに、激しい憎悪を抱き、修羅を燃やし、やり場のない憎しみをぶつけるために僕と同じ学校を選んで執拗に自己顕示と嫌がらせをしたのではないかという。

 最初は斎藤の仮説を信じられなかったがその後に起きた話を2人にした。

 碧と別れて数ヶ月後、文系国立大学志望のメンバーと放課後一緒に勉強するようになった。最初は特に気にしていなかったが、定期的に聞きに来るうちにメンバーの1人の女性と親しくなって”がっしー””ももちん”と呼び合う友達の関係に発展していた。

 彼女は群馬の公立校を受けたいが、数学が苦手だと言っていた。いつしか碧のことを話したら涙を浮かべてくれたこともあった。恋愛に発展するところで、地学教室という空き教室でKと彼女が二人きりで話しているところに出くわした。話は聞こえなかったが5分以上2人の会話は続いていた。僕は気付かれないよう、その場を去った。

 ゆき先輩の目から涙が溢れて、斎藤の腕を掴んでいた。

「僕は、ももちんが美人局だと誤解してしまった」

 涙声のゆき先輩は

「違う、美人局じゃない、Kはまた富樫さんの仕合わせを奪おうとしているんだ。人の心が無いのか?酷い酷すぎる」

「多分、それが正解だろうな、でも、そのことに気付けなかったし、酷い形だけどももちんが碧と同じ被害だけは避けられたことだけが救いだ」

「断腸の思いっていうの?本人じゃなくて、周りの人を攻撃して苦しむ姿を見るなんて最低で最悪ね」

 そう言うとゆき先輩はこらえきれずに斎藤の胸の中に顔を埋めた。ゆき先輩は他人の悲しみに自分の心を痛めてくれる人だと思った。斎藤が言った

「悪人には、天に変わって懲らしめる義務があるって、正義の味方みたいな感覚なんだろう。自分の信じる正義の為ならば暴力は暴力ではない。ミクロの感情がマクロで支持されると誤解している」

 斎藤の言葉が身に染みた。思えば小学校の頃から助けてもらってばかりだ、彼の元にゆき先輩のような美人で、人として尊敬できる人が寄り添っているところに、この世が不条理ばかりでなく希望が存在することが救いだった。

「もはや、だれも治療できない病だね、まあ、そのまま大人になってあの国語の先生みたいになるんだろう。でも、僕のせいで碧さんには辛い思いをさせてしまった。碧さんに惚れなければこんなことにはならなかった。僕は恋愛をしてはいけない人間なんだ」

 僕は、旧友かこの才媛のどちらかに否定の言葉を求めていた。自分が弱っている証拠だ。碧がKの元に去ってからずっと泣き言を吐かずに1人でこらえてきた、でもこの2人に会って、ずっと努力してきたことをほんの僅かで構わないから肯定して欲しいと思った。

「なあ富樫、もし碧さんが全てを詫びたら、また縒(よ)りを戻すか」

「高校の時はそんなことは微塵も思わなかったけど、大学受験に失敗して考えが変わった」

 泣いていたゆき先輩が言った

「縒りを戻しちゃダメ」

 斎藤が不思議そうに尋ねた

「なんで?」

 僕も斎藤と同じ意見だった

「もし、許したら富樫さんと一緒にいる間、ずっと負い目が積み重なっていくのよ。それがいつしか大爆発して取り返しのつかないことになる。だから簡単に許したらダメ」

 僕にはゆき先輩の言葉が消化できそうにもなかった。

 泣いているゆき先輩に質問するのは心苦しかったがこの美しい才媛ならば答えを持っているに違いないと信じた

「マクスウェル博士に叱られてしまうかもしれませんが女性は・・・」

 この枕詞にゆき先輩の反応を見た

 ゆき先輩は斎藤の腕を掴んだまま真顔でこちらを見た、涙を払うように

「マクロとミクロの話かしら?」

 やはり、ゆき先輩は過去のどこかの段階でこの分類を解釈している。政治家が意図的に人を騙す手段として使う場合がある。ミクロの現象をあたかもマクロの標準として理解力の浅い人を誘導する手段。何の為に微分や積分を勉強するかと聞かれて、授業の課程にあるからだと答える人には分類できない話かもしれない

「僕の偏見かも知れませんが、女性って男みたいにいつまでも前の人を引きずったりしないでしょう」

「まあね、多くの場合それは当てはまるでしょう。でも高校生になってまで白馬の王子様が迎えに来るなんて幻想を持っている人が対象なるかしら?」

「それは、ゆき先輩が美人で巨視的(マクロ)な世界と自分がちゃんと見えているからです」

 ゆき先輩が紫に匹敵する技量を持ち合わせていることは確信していた

「さすが紫式部の元カレで望の親友ね。

 そう私の意見はミクロ、そう確率的に言えば全ての女性に当てはまる訳ではない

でも、紫式部に選ばれる程の男が選ぶ女性ならどうかしら」

「僕は平和に暮らしていた碧を戦場に連れ出してしまった。

大学受験に失敗した後に色々なことを振り返り気付いた。

碧さんは僕に関わらなければこんな悲しい思いはしなかった」

「富樫さんは何様のつもり?」

 ゆき先輩の鋭い声が雨音を裂く

「富樫さんは碧を強引に押し倒して言いなりにさせたの?違うよね。彼女は身の程も知らず高スペックの男に乗り換えただけじゃない」

 ゆき先輩の感情的な言葉が胸を打つ、斎藤の彼女は彼氏の旧友にここまで親身に寄り添ってくれる

「ありがとうございます

僕のつまらないこだわりに言葉を投げてくれて」

「なんで、ここでも優等生でいようとするの?」

「碧を僕まで悪く言ったら、碧の気持ちは、ずっと1人ぼっちだ。17歳の碧の居場所と残像はずっと残していようと思う。せめて僕が1人でいるうちはね」

「誰とも付き合っていないとき?でも裏切った碧を憎いと思うでしょう」

 ゆき先輩には嘘をついていいと思った

「全然思わない! スポーツ選手と同じ、スポーツを生業にしているならば、いい条件のチームがあればそっちに行けばいい。貧乏チームにいたら飼い殺しですから」

「嘘つき!」

「ゆき先輩っていい人なんですね。斎藤が羨ましい」

「話を逸らさないで!」

「小さい町ですから碧さんだって付き合う前に僕の身辺は調べるでしょう。彼女はずっと紫さんと戦っていたと思います。彼女はそれが辛かった筈です。だから僕の元を離れていった。きっと僕は彼女に対してもの足らない顔をしてしまったんでしょう。あの頃の僕は恋愛をしてはいけなかったのです」

「そんなきれいごとを言ったって、碧さんは助けられない。彼女はきっと何度も同じ間違いをする」

 僕は分かっていた、でもそれを認めたくなかっただけだったと思う

「小学校の頃は斎藤とよく将棋をした。いつも将棋が出来たのは腕前が同じ位だったから。負けると研究するし、勝つと次やるときは手強くなっていた。斎藤も負ければ研究する。

 斎藤は大学に行っても同じ棋力の相手を見つけられた。

 親切な2人に一度だけ僕の愚痴を黙って聞いて欲しい。

 僕は人を見る目が無かった」

 斎藤は頷いていた。ゆき先輩は斎藤の腕にすがっている。ゆき先輩が口を開いた

「ねえ、余計なお世話にかもしれないけど紫式部はあなたを待っているんじゃないの、迎えに行ってあげなよ」

 顔を伏せた後2人に答えた

「センター試験の帰りの電車で偶然紫と一緒になって久しぶりに話したんですよ。話していて気付いたんですけど、

 中学の時、紫さんに2つの課題をもらって、まだ1つしか達成できていないって」

 斎藤が笑った

「そっか、達成したら紫式部のところ行けるな」

 どうやら雨は止んだようだ

「物理の問題集買ってKOでも受けてみるかな」

 ゆき先輩は笑顔で

「応援する、物理なら教えられるからいつでも頼って」

「馬に蹴られて死にたくないので、自分でがんばるよ」

「そっか、じゃあ俺たちは先に行くけど、受験がんばってな、困ったら電話ぐらいしろよ」

「ありがとう」

 ゆき先輩が最後に真剣な眼差しで依頼された

「握手しよう」

 僕は両手を出して礼を言った

「親身に話を聞いてくれて、ありがとうございます」

 冷たい手だった。中学の時に紫と繋いだ手の温度と似ているような気がした

 ゆき先輩は満面の笑顔で

「富樫さんが合格したら4人で会おうね」

 僕は2人の後ろ姿を見えなくなるまでずっと見送った。

 今のレベルよりランクの上の英語の問題集を買って店を出た

「さよなら、紫式部」

 雨上がりの青空にそっと言葉を捨てた。

 

 望は目を覚ました、ここはどこだろう?

 そして今はいつなのだろう?予備校に行く時間か?

 頭が痛い、昨日は酒を飲んだようだ。

 見慣れない時計が5時16分を示していた。

 ああ、斎藤、ゆき先輩、1年前に起こった事が夢で再現されていたんだ。

 ケンケンが笑っている。話しかけてみる。

「お前のご主人様は、今でも人の邪魔をして喜んでいるのか?

 予備校の恩師に教えてもらった言葉を教えてやろう

 ”人は念入りの下衆になると他人の不幸や失敗を喜ぶ以外に興味がなくなってしまう”えっ、誰の言葉か?だって

 君は相変わらず言葉の内容より肩書きの方が興味があるんだね」

 ケンケンの下着は自分のたたみ方の違うことに気付いた。

 ああ、僕は大学生の僕らしい、昨日菫と奈緒に見せたパンツだ。あきれた、綺麗な女性2人に何をやっているのだ。

もう一つ気付いた。僕は何も身につけていない。何も着けずに寝る習慣は無い。隣にはショートカットの女性の背中が寝息を立てている。小夜だ。

 小夜も何も着けていないようだ。

 望は星のように散らばる昨日の記憶映像をかき集めて、それをつなぐ作業に取りかかっていた。

<つづく>

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