第24話 神様から託されたサイコロ

神様から託されたサイコロ


 望は京浜東北線のホームで続きを話した

「そして、数学は真実があるが、理科は真実の近くにまでしか行けない、真実と合致するならばそれは偶然だ。恩師は課題を出したが全てを説明しなかった。自分で求めて掴んだものでなければ自分の財産にはならないというのが恩師の持論だ。

 大学に入って分かった。原子モデルとか水中や火中の原子の振る舞いなんて空想の世界を無理矢理科学にこじつけているのだろう。宗教に順応な人ならば疑わないだろうが、何かがおかしいってことを疑問に持てることを恩師は教えてくれた」

 望は言い終えるとパンタグラフの相方の架線とその先にある東京のくすんだ夜空を見た。青い電車がホームに滑り込む。秋葉原は降りる人が多く、複数の席が空き小夜と菫が座ることができ、望が2人の前に立つ形となった

「数学と理科の件は私も賛成。でもなんかその話、宗教っぽくない」

 笑いながら小夜はいう

「望が努力したから大学に受かったという単純な話なのだ、勉強しないで神仏に祈り続けて合格したなら神仏のお陰なのだ」

 菫が言葉をかぶせる、菫は”〜なのだ”の表現が気に入ったのだろうと望は思ったがその点には触れなかった

「恩師は僕に真実に近い世界を見せてくれた。人間関係は苦労の連続で人の言うことなんか話半分だったけど、師匠と崇められる方にやっと出会えたといった感じだった。恩師の80%以上は無条件で信じられた」

 小夜は不思議そうな顔をしいた。望は自分の話がうまく伝えられない無力さを感じた

「僕の行ってた中学、同級生が250人位いたけど、4年制の理系大学に行ったの10人もいないんだ」

 菫はその言葉に反応する

「それは明らかに分布に傾向があるのだ。中学だと1/3が大学行って、その1/3が理系、つまり理系大学に進むのは全体の1/9なので28人くらいが妥当なのだ」

 望は菫の言葉に心地よさと一緒に追憶が押し寄せるのを感じた。紫と一緒に仕事をしていたあの頃の出来事がこの言葉には宿っているようだった。菫、小夜そして奈緒は、どことなく紫と同じような言い回しをする、ただ中学の理科の先生には彼女たちとの共通性は全く感じなかった一方、学校に来なくなった愛美と理科の先生は考え方が似ているように感じた。

「中学校の理科の先生が禁じ手を使ってしまったんだんだよ」

 今度は小夜が反応する

「禁じ手?」

「続きは有料・・・」

 小夜が望のすねを蹴った

「イテテ、早々にお支払いありがとうございます

先生は高校に合格のためだけの授業をしてしまったのだ」

「詳しく説明するのだ」

 菫は望の顔を凝視した。望は2人の前で面識のない人の悪口を言うのは気が引けたが、なるべく誹毀(ひき)しないよう言葉を選んで話すようにした

「試験で点数の取れるだけのために、理論的なことを徹底的に無視したのさ。

 考えるな、暗記しろ、身体で覚えろってね。プラモデルでなく完成品を売られた感じかな。

 でも、気難しい話をしないで試験の点数が取れたので生徒にはウケが良かったな。

 教え方が上手いって賞賛されたよ。文系志望に取っては理想の先生だったのだろう。

 入試ってさ、その学校で学べるだけの能力があるかどうかを測るための検査だと僕は定義していたけど、先生はそうじゃなかったみたいだ。

 先生を支持した生徒の多くは希望の高校に受かっても、理科が全く理解できないし、どう理解していいか分からなくなったみたいなんだ。僕は中学の友達が2人しかいなくて2人とも理系だったから、直に聞いた事は無かったけど。

 楽なやり方を覚えて、試験で高得点が取れるならば、苦労することがバカらしくなるからね。予習や復習を止めて他の教科に時間を充ててしまったようだ」

 望は砂漠のマングースで例えた。

 砂漠に住むマングースは絶対的に食べ物がない。だから強敵に遭遇しても倒して食さねば生命を繋げられない。マングースはオアシスの場所を教えてもらった。そこに潜んでいれば水を飲むときに油断した獲物を容易く狩れた。やがてオアシスが枯れてしまった。オアシスにいた期間にだらけていたマングースは戦う術を失ってしまった。獲物を狩れないマングースは息絶えた。

「皮肉なもんだ予備校で求めるものを中学校でやって、学校ですることを恩師は予備校で教えてくれたのだから。でも文系大学行った連中にとってはあの先生は女神様だったろう、連中に取っては試験が終われば理科とはお別れだからね。先生自体も生徒のことを思ってやったんだろうけど・・・あいつらは自分の状況を客観的に観察できなかった。今何をしなければならないか分からなかった。高校の時は思ったよ、あいつらもしかしたら肩書きのために学校に行くんじゃないかって。実は文系で国立大学行った奴も少ないんだ」

 菫の顔が優しい、望はどこかのお寺で見た観音像のような穏やかさを感じた

「望の考えに同意するところがあるのだ。望がどうして愛美ちゃんを怒ったのか気持ちが少しだけ理解できたのだ。望はどうして先生のプロパガンダに染まらなかったのだ?」

 菫の言葉に小夜が顔をしかめた。望は菫に紫の話をしていないことに気付いた。この先生の話題は紫と話したことがあり、結論に到っていた。ただ、プロパガンダという表現を使った菫に望は紫以上の好意を抱いた

「先生が授業中”私の学生時代は歴史の授業なんて何の為にやるのか分からないっていつも思っていた”って言ったんだ。それででこの先生を全く信じなくなった」

「ふむふむ、名探偵ビオラが謎解きするのだ」

「探偵さんすいません。僕が犯人です」

「こらこら、ここで自白したら探偵の商売上がったりなのだ。テレビドラマならばスポンサー様にお説教されるのだ」

 たいして面白く無かったが、3人で笑った

 菫の推理でこの先生は猜疑心が強く、人からどう見ているかをいつも気にしていて、低い評価をされることを嫌う。加えて負けず嫌いで、少々幼稚と推理した。望は菫がした推理が的を射ていると感心した。こんな少ない情報量でこれだけの分析が出来るのならば探偵と名乗っても名折れにはならないと思った

 小夜がさらに詳しく解説する

「私は理科に優れているが、歴史は苦手だ。それを生徒に言われるのは自尊心を深く傷つけられてしまう。だから先回りした。

 私の世界では歴史など意味の無いことだ、歴史の授業をするなんて日本の教育制度が間違った判断をしているだけだ。それを生徒のみんなにも同意してもらいたい。そんな感じかな。望の表現通りならば授業中に発言したなら相当精神的に弱い人ね、発言が冗談に取れないもの。きっと自分に自信がなくて人の評価に怯えている人、そして、自分を攻撃する気配を感じたら初期攻撃で反撃がムダだと思わせるくらい押さえ込む対応をする感じの人かな、自分に懐の深さがないので、目的のためなら手段を選ばない人のように思うわ」

 望は2人に軽い恐怖を憶えた。これは紫に感じた恐怖とよく似たものだ。女性が女性に対して厳しいという話は聞いたことがあるが、この2人の考察に深淵の縁を覗いたようであった。

「先生は自分が歴史を学ばない妥当性を生徒に認めてもらって共感して欲しいところは中学の時に気付いていた。そもそそも理論のない先生だから。先生にとって自分の指導で高校に合格させたということを誇りに授業をしていたのだと思う。

 1つだけお2人に誤解して欲しくないのは、僕はその理科の先生に微塵の恨みも持っていない。僕は理科に対しては予習も復習もして先生が省いてしまった理論的な解釈は自分で補填したから。

 正直なところ中学生の僕は友達も少なかったし、同級生から僕がバカにされているところもあったから、同級生には”気付かなくてお気の毒”くらいの気持ちしかなかった。

 ”人は配られたカードでしか勝負できない、足らないものは自分で補填するしかない”恩師が教えてくれた、世の中に平等を求める不条理を明言してくれたことと自分がやって来たことが間違っていなかったと、ただ涙がでたよ」

「何となくその中学の先生、愛美ちゃんと被るのだ」

 望の胸が痛んだ、避けたかった現実を目の当たりにしていた。愛美に対しては理科の先生にはなかった呪詛の感情を持っていたと思う。それは菫ほどの推理力を持った人に係ると簡単にあぶり出されるのだと分かった。

 愛美は小学生の頃に出会った”小さな工作員”と偶然名前が同じだった。そして愛美の性格は中学時代折りの合わなかった理科の先生と似ていることを感じ、中学時代に感じた同級生からの侮辱への仕返しを愛美に背負わせてしまったようだ。愛美にとってはとんだとばっちりだ。

 愛美はこの理科の先生に作られた同級生の象徴と位置づけていたように感じる。そして愛美は先に述べた”配られた手札”は天賦の才能すなわち俗に云う天才型の思考だったようだ、高校なら自分が2時間かけてようやく覚えた事柄も、愛美ならば教科書だけ読んで覚えてしまうタイプだと感じていた。中学の理科の先生が望んだ理想型、自分の同級生で起きたマングースの事象が愛美には大学で起こったと推測した。しかしこのことは小夜と菫に話すことではないと思った。

 望は合掌する

「愛美さんのことは、いつまで背負っても仕方がない。良い機会だから成仏頂こう」

 小夜はいつものように冷静な口調で

「あきれた、ずいぶん勝手な言い草ね。あなたの言葉で愛美さんは人生に影響を受けているのよ」

 望はこういう指摘には十分な程免疫があった

「僕はね、安全のために自動車のシートベルトをする人とは仲良くできるけど、警察に指導されるからシートベルトをする人とは、表面的にしか仲良くできないっていうことさ、冷たい言い方だけど、僕は愛美さんに気を遣う義理もないし、有美さんと付き合っている渉師匠を厄介事に巻き込むことを阻止する判断は間違っていたとは思わない」

 菫が念仏のように語り始めた

「勉強しないでも、教科書を読んだだけで理解できちゃう人がいるんだよね、努力とか我慢とか苦労とかそういう事にまったく関係なく」

 望はすでに愛美と理科の先生への供養は終えている。小夜と菫に軽蔑されることは分かっていたが本音を伝えることにした。女性に嘘を吐き通せる技量を持っていないことを望自身が自覚していた

「愛美さんは何でもできちゃうから人の苦しみが分からない、まあ別に愛美さんに僕の苦労話を分かってもらうつもりもないけどね」

 小夜よりも菫が先に反応した

「うんうん、強く賛成する。そういう人を見ていると真面目に努力するのがバカらしくなるのだ。実はね、泣いている愛美を見ても少しもかわいそうだと思わなかった。むしろ望が私の代わりに意見してくれたとさえ・・・」

 望は本能的に言葉が発せられた

「菫さんは今日話して、すごくがんばっている人だって分かったから、その言葉すごく良く分かる。誰が非難しても最後まで菫さんを支持する。

 理科の先生の印象も愛美さんも同じ印象で、天才は天才ゆえに勉強の仕方を知らないんだ、だから傾向分析が出来る決められた試験で採用される仕事が向いているんじゃないか、発展途上の学生相手に偉そうにしているのは天職だろう。どんな天賦の才能でも問題が起きたときに解決できる手段を生まない人は一般企業には向かない。先生に関して言えば、先生を悪く言って申し訳ないが、先生の考えを押し付けられるのは迷惑だ。話を聞くのは良いがそれを実践するかどうかはまた別の話だ。気に入らなければ理科室から追い出してもらって教室で1人学習しても構わないと思っていた。

 僕は世間知らずのバカだけど、船は陸では役に立たないことや、自動車は海では役に立たないことぐらいは知っている

 でもね、今回の愛美さんに関する件は全て僕の責任だ。僕は愛美さんに僕に起こった出来事を重ねて感情的に僕の言い分を伝えてしまった。でも、海には船が適切という考えは感情的にならなくても伝えたと思う」

 菫は望の顔が直視できず、望のお腹当たりに目線を合わせて言った

「望はすごいよ、あのあとクラス中から冷たい目でみられても、ずっと涼しい顔でいられたんだからね」

 望は笑って

「女性問題で人に冷たい目で見られるのは免疫があるからね、そう、碧が教えてくれた。自分の気持ちに正直に生きるってことは、他人から軽蔑や嫉妬みたいな副作用を背負うことも受け入れなければならない」

「人生って難しいね」

 指摘していた筈の小夜が独り言のように呟いた

 望は菫や小夜との会話で使用した言葉を通して2人が猜疑心を持たないと確信していた。2人を言葉には漠然と他人に同意を求める様な言い回しはしない。”バカ”や”そんなことも知らないの”といった他人を客観的に同意を得ることを意図した侮辱の言葉を会話に持ち込まない。自分の行為は”普通”で妥当だと第三者に認めてもらいたい軽い同意を求める言葉は2人から発せられることはなかった。

 望の口から泣き言が漏れた。小夜を恋してからずっと小夜に聞いてもらいたかった言葉だった。恐らく自分は心の中でずっと誰かに聞いて欲しかった言葉だった

「僕はさ、中学の時まで歴史を専攻したかったんだ

でも人に説明するのが面倒になって歴史の道を諦めたんだ」

 望はこのことを発する事で全てが成仏できる話だと信じていた。同意も解決案もいらない、ましてや”いままで1人でよく頑張ってきたね”なんて言葉もいらなかった。例えるならば、いらなくなったスプレー缶の中身を大気に放出するような行為と変わらない作業で、大学入学と一緒に処理できなかっただけのことである。一体何の未練があって処理できていなかったのであろうか

「国語の先生のせいで優秀な考古学者が潰されてしまった

とか言ってほしかった?」

 小夜が静かに冷たい声で言った。望は天井を見つめて小さな声で

「いいや、もっと楽しいことが見つかった

 あの国語の先生には感謝しているよ」

 あの先生はどう頑張ってもウチの大学には合格できない、仮に合格しても卒業は無理だという言葉が望の心の中に過った、でもそれを口にしない分別は5年の月日を経て身につけた。ただ望の心にこびりつく国語の先生に対する憎悪や呪詛の気持ちが拭えた訳ではない。自身も自覚している心の汚れた醜い部分でもあり、この大学に入学する原動力でもあった。受験勉強で辛いことがあるとあのアインシュタインに似た憎らしい笑い顔が浮かび、数多の煩悩を都度祓ってきたのだ。理科の先生には恨みは一切無いが、この国語の先生に対する呪詛は消えていなかった

「だって僕は人生の選択に微塵の後悔がないんだ」

 望は自分に言い聞かせるようにはっきりと言った。紫と一緒に作業を始めた時から”後悔だけはしたくない”という気持ちを持ってできうる最良の選択をしてきたつもりだ。自分のした選択はきちんと自分で責任を持って対応してきた。紫と離れてから選択は自分だけで判断してきた。泣き言だけは絶対言わない。責任を誰かのせいにするのは自分の弱さの象徴だとして、ずっと1人で戦ってきた

「大きく出たわね」

 小夜は薄笑いで言った

「だってこんな素敵なお2人と友達になって昔話ができるのだから」

 望も薄笑いで返した。小夜は真面目な顔に戻って

「口が達者なところも恩師が教えてくれたのかしら」

 望は薄笑いのまま

「きっと教えてくれたのは碧さんだったと思う」

 菫がからかってきた

「望は美人慣れしているのだ。きっと碧さんも美人に違いないのだ」

 この言葉はかつて有美から望に言われた言葉でもある。有美には言えないが菫には言える

「美人慣れか、菫さんが自分のこと美人っていうところ好きですよ」

「そんなことは言っていないのだ」

 菫はそういうと下を向いた

 言葉を失った菫の代わりに小夜が涼しい顔でいった

「望みには奥ゆかしさがないわね」

 望は終始笑顔で

「奥ゆかしさは、国立大学の合格を諦めたときに渡良瀬川に流した、精製の時に出た重金属と一緒にね」

「渡良瀬川って足尾銅山の?」

「そう、詳しいね。故郷の川さ、僕は恩師に合うまでは環境化学を専攻するつもりだったんだ」

「つもり?」

 望は小夜の顔が曇っているように見えた

「恩師にいわれたんだ、そこには行くべきじゃないって」

「どういうこと?」

 望は小夜がこの話に関心を持つことに違和感を覚えた

「君が行けば後悔する、人には適正がある、行けばきっと古典の豊崎講師と同じ悲しみを背負うと言われた。

 古典講師。この講師はかつて進学校の教師だった。組合の人と喧嘩して恐らくそれが原因で工業高校に転任された経歴を持つ。熱意のある講師だったので、古典に興味を示さない生徒だらけの学校にいくのは苦痛だったのだろう。高校教師を辞して古典を求められる予備校の講師になった方だ、これは恩師から聞いた」

「察し、なのだ」

 菫が言った。望は小夜には既に両親の仲人の話をしている。望は菫がこの話だけで日本特有な社会事情を把握できたのかは疑問だったが、菫ならば知ってもらいたいことは掴んでいると思った

「もしかしたら恩師から頂いたもので一番の財産は専攻選びだったかもしれない。それまでずっと1人で決めてきたけど、これは自分だけでは知り得ない情報だった。

 ・・・世の中には話し合いで解決できない人と人を分かつものがある。それは元素のように、それ以上分けることができない分類でもある。まあ核崩壊か核融合でも起こせば元素が変わるので絶対とは言えないけれどね」

「核融合を人類が手にするのは22世紀と言われているから、情報得る前に墓の中ね」

 小夜は言い終えると深いため息をついた。小夜の言葉に望は我に返った。巴の予言に従えばもうすぐ小夜は墓の中に入るのだ。菫を口説いている場合ではない

「恩師の意図を望はどう理解したのだ?」

 菫は小夜のため息に忖度したのだと望は思った。望は時間の経過と共に菫の人としての評価が上がっていく。自分は自分たちの未来に対してどうしたらいいのか分からなくて頭がおかしくなりそうだ。もしかしたら巴に言われたことを全て2人に打ち明ける選択肢が妥当かも知れないと思った。

「言いたくない話なのか?」

 菫が先程の質問の答えを催促する。望は出された質問を素直に答える作業は簡単で、気が紛れる思った。

「科学で環境問題を解決すると困る集団がいるのかもしれない。それを恩師は教えてくれたのさ。建築科の先輩が冗談で言っていたけど、”100年劣化しない家を作ったら俺たちの商売上がったり”だって。先輩、それは笑えないですよと答えたけど」

「ほんとうに笑えないのだ、保証の切れる10年で壊れる家を作るために科学を利用されるのは勘弁なのだ」

「科学者は自分の専門には執着するけど、それ以外には無頓着の人が多いからね、研究費を出すからとそそのかさされて、上手く利用されちゃう人も結構いるかも知れないね

・・・王子か、もうすぐ赤羽だね」

「ありがとう望」

「僕の祟りに巻き込んじゃったかも知れないから、お礼を言われる筋合いはないよ。むしろ僕が謝らなくてはならないかもしれない。僕にできることは何でもするよ」

「なんでも?」

 菫の頼みならば何でも叶えてあげたいと思ったが、小夜と奈緒に危険が及ぶ可能性のあることだけは菫を優先できない

「・・・僕に出来ることなら」

「武士に二言はないな!」

「御意にございます。

 ”ここでズボンを脱げ”位ならするぞ~、多分今夜は留置所にお泊まりだが」

 菫と望は笑った。望は小夜が何も喋らず落ち込んでいることに気付いた。

 菫は沈んでいる小夜に容赦なく言葉を投げる

「小夜ちゃん、今日はありがとう。ねえ、奈緒さんって2刀流?」

 メフィストーフェレス菫の舌鋒が火を吐いた。ここで いう2刀流とは奈緒が女性だけでなく男性も恋愛対象にするかという質問だと望は理解した。

 小夜は菫の質問に答えがなかった。望は慌てて繕った

「佐々木師匠、どうか拙者に”燕返し”を教えて頂けないでしょうか?宮本武蔵なるものを信じてはいけません、奴は必ず島に手の者を潜ませるはずです。拙者が手の者を抑えます。ヒロサワやイケヤマ位の活躍は期待していいです」

 菫が吹きだした。電車は赤羽に到着した。小夜は終始無言で、望が扮する武蔵と菫が扮する小次郎が即興の時代劇で遊び戯れていた。途中、望がアインシュタインがコペンハーゲンを訪れた際、話に夢中になり駅を乗り過ごし何度も往復する話をしたが、小夜が耳を傾けなかった。

 3人が改札まで来ると、望は

「じゃあここで、気を付けてな、明日電話を入れておく」

 と告げた

「薩摩守はダメなのだ。そういうことをするから運賃がいつまでも安くならないのだ」

 改札員の耳にも届いてしまったようなので、渋々清算して改札をでた

「望に家まで送ってもらって嬉しいのだ」

 3人は菫の家に向かって歩き出した。

「今時、10代の女性でキセルのことを薩摩守なんて言うのはかなり稀少だ」

「時代劇の流れなのだ、なんでそう言うか知らないが」

「ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば

 花やこよひの 主ならまし

 武芸にも歌道にも達者の平薩摩守忠度(ただのり)、平清盛の弟だ」

「そういうこと、やけに詳しいのだ?」

「実は、恩師はその忠度を討った、岡部六弥太の末裔。こっちは古典講師が教えてくれた

 四つめ結が旗印の佐々木菫さんに言われると趣が深いですね」

 望は喫茶店で聞いた(馬の)嘶きを思い出した。今日はバナッハ空間をさまよっているのだろうか。菫がわざと望の前に進み出て聞いた

「望は、本当は歴史の分野に進めなかったこと後悔しているんじゃないの?」

 先ほど小夜に聞かれた質問だ。菫はどういう答えを期待しているのだろうと望は考えた

「僕が観察した中学の国語の先生よりも中学の理科の先生よりも、僕は今の自分自身が好きだから、全然後悔していないよ」

 菫は今日1番の美しい笑顔で言った

「今度は私の話も聞いて欲しいな」

 歪んだ空間は本来あるべき出来事に戻したいのではないのかと望は思った。この無防備なかわいい女性の美しい黒髪をかき乱したい。碧とは唇を重ねただけでそれより先に進めなかった。小夜や奈緒の人生など、どうなっても良いとさえ思い始めていた。

 3人の会話が止まって、菫の後を追うように、菫の学生マンションまで来た。望は巴の歴史ではきっと菫と二人きりでここまで来たのだろうと思った。   

 望はここで神様から託された双六のサイコロを振らねばならなかった。

<つづく>

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