第19話 バナッハ空間、未来から来た菫

バナッハ空間、未来から来た菫


 望は、菫の折角のご厚意に甘えることにした。

 背中に手を回し、少し強めに抱き寄せた。菫の”うっ”という重い声が漏れた。

「直ぐ助けにきてあげられ”れ”なくてごめん」

 望はわざと”れ”を噛んでみた。調子に乗って髪の毛を優しく撫でた。違和感を抱いた。

「辛い思いをさせてごめん」

 周囲に沈黙が支配すると、静けさを打ち破って奈緒が怒った

「茶番は止めろって、それじゃ私が悪人じゃんか!」

「えっ違うの・・・」

 そのとき異変が起きた。菫が望に体を預けてきたのだ

「菫さん、菫さん」

 望は力が入りすぎて気絶させてしまったのかと思い、菫の名前を何度も呼んだ

「飲み過ぎちゃったみたいだよぉ~」

「ごめん菫さん、調子に乗って悪ふざけして、苦しかった?」

「望のえっち~」

「ごめん菫さん。ごめん菫さん」

 望はただ謝った。この件はいくらなんでも調子に乗りすぎた。

「望にはパンツ見られたし、胸や髪まで触られちゃったよぉ~

 でも望は、奈緒ちゃんよりずっと小っちゃいけど、ちゃんと反応してくれたよぉ~」

 周囲に苦笑が起こった。望は菫の身体が何事もなかったことに安堵した。それ以外の事以外はどうでも良かった。望は菫の耳元に小さな声で囁いた

「裁判長! 髪の毛は確かに下心で触りましたが、それ以外は争います」

 菫は望の背中にあった手で2回軽く背中を叩くと、望は意図に気付いて”大丈夫?”と一言入れた後に菫の背中に回した手を解いた。

「奈緒ちゃんからかってごめんねぇ~

 飲み過ぎちゃったみたいだから、今日は上がるねぇ~」

 幹事の奈緒は一転、菫の体調を心配した。

「大丈夫だよ、望がいやらしいことしたお詫びに、パフェおごってくれるから、少し酔い冷ましてから帰るよぉ~」

 奈緒は訝しい顔をして

「もっと危なくない?小夜さん、申し訳ないけど、菫さんのこと頼んでいい」

 幹事の仕事を全うしている奈緒に対して菫は

「へへへ、奈緒ちゃんだけ仲間はずれだよぉ~こういうの3人プレ・・・」

 小夜は菫の言葉を遮って、菫の頭を小突くと

「はい、確(しか)と承りました」

 菫は既に望に絡んでいた

「望~フルーツパフェでもいい~」

「はいはい、好きなもの頼んで下さい」

「素直ねぇ~。分かった、生クリーム私の体に塗りたくって・・・」

「菫さん、パフェはご馳走しますので、もう2度とお酒は飲まないで下さい」

「望ったら真面目なんだからぁ~また逃げられちゃうぞぉ~」

 望の固い顔が緩んで笑顔で答える

「誰に”また”逃げられちゃうんですかね~」

「ははは。ともえちゃんだよぉ~!! 

 時計を逆さまに回す女”巴”だよぉ~名探偵ビオラを侮ったなぁ~」

  反時計回りの漢字か、そういえば、なぜ人は右利きと左利きを不規則な頻度で存在するのだろう?神が人間を作ったとするなら、なぜ僕は右手ばかりを差別するのだろう」

「望の左手は右手より不器用だからだよぉ~。大学生になってまでそんな理屈も分からないのぉ~」

「それ、俺が愛美さんに言った言葉じゃないか」

「望は泣かないんだ~」

 小夜が収拾に動いた 

「はいはい、分かりました。望にご馳走してもらいましょうね」

 そう言うと小夜は出口の方へ菫を引っ張っていった

「ダメよ、望ったらそんなところのに生クリーム塗ったらぁ~」

「もう、菫さんはお酒を飲むと淫乱になるの?そもそもあなた未成年でしょう」

「飲酒年齢と酒害の正規分布に従うと菫ちゃんは飲んでも良い分布なのらぁ~」

「科学が許しても、法治国家は法律に従わないとダメよ」

 菫は頬を膨らませて

「もう、小夜ちゃんたら菫ちゃんを仲間はずれにして、楽しそうに望と話しているんだもん~」

 望は冗談と分かっていても嬉しかった。店の外に出ると少しだけ寒さを感じた

「東京の秋か、3つめの季節だな」

 望が呟くと小夜が

「私は4度目の秋ね」

「今度は、小夜さんの昔話聞かせてよ

でも、その前に菫さんの話かな?」

 坂の上にある喫茶店に向かう道すがら、菫は無口になっていた。菫はしんみりとした口調で

「ねえ望、カエサルがルビコン川で賽を投げたら目は5だったと思う~?」

 菫がなんの脈絡もなく聞いてきた。望にはこの質問から菫が小夜に何を相談したかったのかを知るのは困難だった。分からないにしろ、誠意のある答えをしたいと思った

「測定者がサイコロを見たとき初めて目が決まるので、5とは限らない思う」

「じゃあ、投げ方やサイコロそして環境条件を設定したら必ず5が出るかなぁ~」

 今度は小夜が口を挟んだ

「ラプラスの悪魔ね。運動と位置は同時に測定できないので5の目の出る投げ方を制御するのは無理だと思う」

「そっかぁ~」

「でも、菫さんが5がでて欲しいと願ったなら、きっと目は5でると思う。違う目が出たときは見ない振りして5が出るまで付き合ってあげる」

「5が出るまで付き合ってくれるのぉ~」

「さっきのお礼に謹(つつし)んで付き合うよ」

「望はスケベだねぇ~」

 望は菫が言葉を発したことに安心した

「菫さんは友達になれたからね

 優先するのは当然さ」

「友達なんだ」

 小夜は含みのあるような良い方で言った

「僕の定義では電話番号交換すると友達」

 望はメモ帳に自分の電話番号を書いて小夜に渡した。(スマホのない時代の話です)

「小夜さんにも友達になってほしい」

 望は自分でもあざといと思った。ここで断られたら余程嫌われている筈だ

「しょうがないわね、変な電話しないでよ」

「菫さんのお陰で小夜さんの連絡先入手できたよ

パフェは一番高いの頼んでいいぞぉ~」

 今の発言が菫のためか、小夜のためか、望自身もよく分からなかった

「ねえ、菫さん、私たちも連絡先交換しましょう」

 望は二人にメモ帳を渡しながら

「なんだもっと二人は親しいかと思ってた」

 あえて口にしてみた。いつも小夜を見ていた望にとっては、小夜と菫の関係がそれほど親密でないことを知っていた

「ねえ望、友達と恋人の差はどういう定義ぃ~?」

 これはこの国に住む者の暗黙の隠語があって直言するのは日本の文化に合わないのかもしれない。隠れている答えは”肉体の関係”があるか無いかである。望も作法に従って

「優先順位でしょ

恋人ならば何を差し置いても

その人のために持っている資源を投資する

愛人ならば身体目当て」

 小夜が笑って

「まなじん(愛人)の読み違いじゃない?」

「僕の過去に絡ませるの止めてくれる」

 菫は小さな工作員の名前を知らない。

「小夜ちゃん感じ変わったねぇ~」

「そう?」

「なんか、とっても楽しそうだねぇ~」

 小夜は空を見上げた

「楽しいのかな私?・・・望は楽しい?」

 望は、小夜が答えにくいので自分に転化したのだと思ったが、”友達”に忖度して小夜の意図を汲むことにした

「範囲が広すぎて答えが難しいな

 でも、小夜さんや菫さんとする話はとても楽しいですよ」

「ははは、私、何言ってるんだろう」

 望は小夜が予想外の回答に戸惑っているようにも見えた

「私も、望や小夜ちゃんと話していると楽しいよぉ~」

 望は少しだけ発言を躊躇したが、鎌をかけてみることにした

「小夜さんも気になる人のことを考えている時は楽しくないの?」

「一番楽しくないね」

 小夜は仏頂面で即答した

 望は”じゃあ何で気になる人なんだよ”と思ったが、自分も碧と付き合う前はそんな不安もあったことを思い出して口にしなかった。

「小夜ちゃんは誰が気になるのぉ~?」

「秘密」

「望のことは気になるのかしらぁ~」

「望は気に障る」

 望は笑っていた。菫は望の顔をのぞき込んだ。望は菫がなんでこんな悲しい顔をするのか分からなかった。

 そんな話をしているうちに3人は喫茶店に到着した。喫茶店は混んでいたが、運良く空席があった。上座に小夜と菫が並んで座り、その対面に望が座ってため息をついた

「はあ~、この時間でもこんなに客がいるんだ」

「まあバブルってことでしょう」

 望は小夜っぽい言葉だと思った

「駅ビルに入っている喫茶店

 マンデリンが一杯2000円だって、狂っているね。

 コーヒー栽培を支える低賃金労働者に還元できればいいけどそうでもないんだろうな」

 望の言葉に、二人からの返答がなかった。この場には不適切な話かと望は反省した

「小夜さんも好きなもの頼んで」

 小夜は顎に手を当てて

「一つ仮説がある。望は女性と寝るまでは優しい男である」

「仮説が正しいかどうか、早速実験して検証するか?」

 小夜は笑って

「理論物理学者は実験が嫌いでしてね」

「マイケルソン=モーリーの実験ぐらい人類に意義のある実験ですが・・・あれ小夜さんも菫さんも化学科だったような」

 菫が口調を変えて

「優しいよ・・・望はいつでも」

 何かがおかしい、望は菫に感じている違和感が大きくなっている。小夜はすかさず

「やっぱりそういう関係だったんだ」

 望は菫のことだけが心配だった

「そうなると、僕は菫さんと付き合いながら小夜さんを口説いた訳だ・・・最低だな」

 小夜は反論しなかった。三人は沈黙してメニューを見つめた。

「ああは、言ったけどパフェは重いなぁ~レモンスカッシュにしようかなぁ~」

 望は菫の発言に安心すると共に、さっきの発言が何だったのか謎が解けずにいた。

 アルバイトと思われる高校生くらいのウエーターが菫を見た後、望に軽蔑のまなざしを与えて不機嫌そうに注文を取っていった。小夜はミルクティーを頼み、迷った菫はチョコレートパフェを頼んだ。望はレモンスカッシュを頼んだ。

「あの兄ちゃん、なんでこんな冴えない男が二人も女連れてんだって目が語っていたぜ」

 この望の言葉も二人には興味がなかったようだ。小夜が僕が被虐性愛症(マゾヒスト)だという話を菫に始めた。いじめると喜ぶから、野良猫に餌を与えてはダメだといっていた。望はシュレーディンガーに捕まえられた哀れな猫のように何も知らずに笑っていると伝えた

「シュレーディンガーの猫ねぇ~あれどういう意味なの?」

「望、愛しの菫さんに教養のあるところをアピールチャンス」

「小夜さんの専門でしょうが、それに僕の経験上、科学系の話は真面目に説明しても引かれる記憶しか無いのですが?」

「望ぃ、ごめんね、理解していないのに聞いちゃってぇ~」

「菫さんが僕を罵るその口の動き、たまらないなぁ。そういえば菫さんって誰かに似ているよね」

 望は二人が軽蔑した目で自分を見ていることに気付いた

「もう、菫さんったら、野良猫に餌を与えてはダメといったのに」

「僕は二人の才媛に弄ばれて最高にしあわせです

 ”扉を開ける前の猫の状態は現在の科学水準では分からない”

 僕はディラック博士の説を推しています」

「なにそれ?2次方程式の”解なし”みたいな話ぃ~?」

 望と小夜の目が合った。さらに菫は

「2sin2X-5sinX=-3 のXの解、π/2(すなわち90°)じゃない方の座標かな」<残念ながら2乗が表記できませんでした。2sin二乗Xです>

 望は自分がお釈迦様手のひらの上で飛んでいる孫悟空だと思った。短歌の返歌ならば完璧な風流さである。小夜が口を開いた。

「もしかして、複素関数のこと言ってる?

 なんか・・・さっき望が言っていた

 外国の僻地で日本語を話せる人に会ったみたいな感じね」

「あの夜、望が教えてくれたんじゃないのぉ~忘れたのぉ~」

「絶対、絶対思い出すから、再現させてくれ~」

「あんた達、バナッハ空間で何やっているのよ!」

「小夜ちゃん流石ぁ~」

 小夜は顔を緩めて呟いた

「なんか・・・楽しいこと見つけられそう」

 小さい声も望の耳に届いた。声も波長である、観察している望は、言葉の実体が存在することに気付いた。

 3人の会話は菫より高い女性の声で中断する。

「お待たせしました」

 パフェを持ってきたのはウエイトレスだった。高校生のアルバイトだろうか、

「チョコレートパフェはどちら様ですか」

 小夜と菫が望を指さした。望はウエイトレスに”ありがとう”と愛想よく答えた。小夜と菫の顔を見たウエイトレスは、笑いをこらえる様に”レモンスカッシュは・・・”と聞くと、菫が手を挙げて”奈緒ちゃんのだよぉ~”といつもより低い声で言った。菫の喋り方がウエイトレスのおへその茶を沸かしてしまったようで、笑みがこぼれてしまった。すっかりペースを乱されたウエイトレスはレモンティーを小夜の前に置くと”ごゆっくり”と笑いをこらえながら去って行った。

「あの兄ちゃん注文間違えてやがったな、替えてもらおうか」

 望がウエイトレスを呼び止めようとすると、小夜は制止しして

「いいよ、これで。そんなことより、望はいじめられると嬉しそうね」

「女性を差し置いて、パフェを食べちゃう変態男だよぉ~って顔してたよ、あの娘ぉ~」

 そう言う菫は、既にレモンスカッシュに口を付けていた。

「僕は興味のない人からどう見られるかって、あんまり気にしないんだ」

 望が反応すると直ぐに菫が

「興味のある人は気にするんだぁ~」

 望は菫に注意されたら全て態度を直したいと思った。

 突然菫が忘れ物があるから、居酒屋に取りに行くといいだした。体調の良くない筈の菫に取りに生かせるわけに行かないので、望が取りに行ってくるといったが、自分で取りに行くと言って譲らない。軽く言い争いになったところで、小夜が気を遣って自分が行くと言った。望は菫が自分だけに何かを伝えたいことに気付いた小夜が忖度したのだと思った。


 小夜の後ろ姿のを見送ると、菫は望の隣に席を変えた。3度目も菫のお尻が望の腿に触れた。菫は、届いたパフェのクリームを細い指ですくうと、そのまま望みの頬につけた

「なんの冗談」

 望は優しい声で言った

「怒らないんだ」

 声は甘く、二人の時の喋り方だった

「菫さんか小夜さんならばギリギリ許すかな」

 次の瞬間、菫の指が望の舌を目掛けて侵入すると、望の頬に生暖かく、今まで経験したことのない生暖かい感覚におそわれた。望が口に入れられた指に気を取られている隙に菫の舌が頬のクリームを舐め上げていた。望は平静を装って

「菫さんは酔うとこんなにだらしないのですか」

 菫は大人の女性の口調で

「大学生の望も優しいのね」

 望の肩に胸の感触を残し、菫は何事もなかったように席に座り直し、レモンスカッシュを一口吸い上げると、寄り添い望の肩に頭を預けながら呟く

「ウルリッヒが勝った年、私達は再会する」

 ウルリッヒとは誰のことだろう?望の知らない名前だった、ドイツかオーストリアの科学者だろうか、いや勝ったというのだからF1パイロットかもしれない。

 

 *****

 私は小夜の故郷に行こうと言った。

 翌日望は車で迎えに来た。

 2人で出かけるのは江ノ島以来、あのとき、本当は3人で行くはずだった。

 望も私も涙が枯れるまで泣いた。

 帰る気力もなくなっていた。

 ビジネスホテルで良かったのだが、望はリゾートホテルを探してくれた。

『私だけに優しい人』

 大学の頃と変わっていない。

 何もなければずっと続く筈だった。


 地方の百貨店で着替えを買って、峙(そばだ)つ山のリゾートホテルにチェックインした

 ”高いところは怖い?”と望は聞いた。

 江ノ島の展望台の時と同じ言葉だった。

 私はあのときから色々なものを失ってしまった。

 望の左手にしがみついた。

 あの頃よりも逞しい腕だった。


 夜空の星が突然降ってくる

 硝子張りの向こうに薄闇が

 ゆっくり峰々を隠していく

 とても贅沢な時間の流れに委ねられながら

 移りゆく風景に引けを取らない

 美味しい夕食を頂いた

 私は望に話したいことがたくさんあるのに

 何も話せない

 漂う時間の透き間を縫うように

 望はずっと笑顔で星に宿る物語を話してくれた

 どうでもいい話

 でも無言の時間に脅迫されて

 泣くことしかできない私には

 望の言葉で涙を紛らすことができた

『私だけに配慮してくれる人』

 小夜のためにロゼのワインを用意した

 2人だけれど3人で乾杯した

 こんな最高の夜に悲しいのは辛かった

 

 部屋に戻ると望はベットに伏せたまま

 なにも言わなくなった

 私はベットで横になっている望を

 泣きながら眺めてい。

 私には望を癒やす言葉を知らない

 あの事件の後

 望は坂道を登る私の風よけになってくれた

 全力で私を庇ってくれた望は

 坂道の途中で望は力尽きて落伍していった

 落伍していく望の顔は笑顔だった

 望は私には辛い顔を見せたことがなかった

 ”容姿で足らない分は笑顔で補完だ”

 と望は最初の夜に言っていた

 私は望の容姿になんの不満もなかったけれど

 言えなかった

 望は私の容姿を必要以上に褒めてくれた

 私は望のアシストのお陰で力を残したまま

 峠を越えることができた

 一緒に登っていた坂の途中

 望は私のなにもかもを否定しなかったし

 どんな無茶苦茶なことを言っても

 笑顔で応えてくれた

『私だけを護ってくれる人』

 私が恋に気付いた日、そう今日この日

 望は言葉は放射能物質と同じと言った。

 ゲーテの詩を引いて

 ”言葉というものを、高く尊重することはできぬ”と念を押した

 では、どうして私を恋してくれるのと思った

 別々になって分かった

 望が伝えたかったことが

 答えを知っても伝える術がなかった

 私には勇気も自信もなかった

 でもそれは大学生だった私の

 都合のいい言い訳だった

 

 だから今度は

 私が望に大切なことを教えてあげることにする

 言葉より意味の無いことを

 言葉を持たない生き物の無邪気さを

 

 私は泣くのを止めた

 躊躇なく服を全て脱ぎ捨て

 望に覆い被さった


 望はなにも言わない

 私も声を出すのを我慢した

 私は望の服を無理矢理剥ぎ取った

 私の呼吸が激しく乱れている

 望は空虚な目をしてなすがままになっていた

 途中で気付いた

 私の激しい衝動は

 望が私以外の女性のことを考えているからだと

 望の胸の上に馬乗りになって

 望の首に両手を掛けた

 望が微笑んでいる

 擦れるような声で”すみれ”と呼んだ

 続けて

 ”この世で見る最後の景色がこんな美しい女性の映像で仕合わせだ”と言って瞳を閉じた

 雨粒が乾いたアスファルトの色を変えるように涙が望の顔を濡らしていく

 私は望の身体に覆い被さって号泣した

 力強い腕が私を抱きしめた

 二人は泣きながら互いの名を呼び合い

 獣のように身体を重ねあった

 

 私はいつの間にか眠りに落ちていた

 目が覚めると、望の優しい目が私を見つめていた

 私は涙を落として

 ”もうどこにもいかないで”と伝えた

 望は”ずっと一緒だ”と言って手を握ってくれた

 望はそのまま眠ってしまったようだ

 望の首には私の手形

 殺意の記憶がまだ残っていた

 

 私が1人で越えたあの峠

 次の坂では落伍していた望がまた追いついて

 私を助けてくれている

 私は望を起こさないように手を解いて

 頬にキスした

 望は疲れているようで深い眠りの中

 軽く唇を重ねた

 

 シャワーを浴びて鏡を見ると

 昨日の激しさが身体に残っていた

 でも、服で隠せる場所以外は

 夜の余韻が残っていなかった

 望は私とのあしたを描いていた

『私だけを見ていてくれた人』

 大学の時も無茶苦茶な行動をするくせに

 私への配慮は決して忘れない

 もっと早く望のことに気付きたかった

 奈緒よりも早く

 そして小夜に心が傾く前に

 

 ソファーに身を預け

 変わりゆく朝の彩りを眺めていると

 望が起きてきた

 お互い”おはよう”と一言だけ

 私は望が起きる前に

 鏡に映る自分が一番美しくなるよう

 準備を済ましていた

 私は窓の外を見つめて

 ”素敵な景色をありがとう”とお礼を言った

 望は私をソファー越しに背中から抱きしめて

 ”きれいだね”といった

 

 江ノ島の後止まってしまった

 二人の時計は回り始めた

 同じ慣性運動上にいる二人に

 9,192,631,770 Hzで基準を取って

 時計を合わせる必要はなかった

 人が定める時間なんて2人には意味が無い

 

 望は交際を再開した後も

 変わることなく私が一番だった

 ”ノストラダムスが書いた自筆の神秘の書を誤読した奴が

 Septemberにこの世が崩壊するらしいからその前に夫婦になっておかないか”

 それが望のプロポーズの言葉だった

 私は不束者でヤキモチ妬きですがよろしくお願いします。

一つだけお願いがあります。

 夫婦になったら2人の分まで私に優しくしないでいい、

もう私だけの望でいい・・・

 そうじゃない、私のことももっと雑に扱ってもらっていい”と答えた

 望は何も言わず少し乱暴に私を抱き寄せた

 3人分の強さだった

 望みの言葉は”ありがとう。ずっと一緒だ……ずっと一緒だ”

 私たちは浄化の月(Februrius)に夫婦になったことを

天照大御神にご報告した

 ******


「未来の俺はかっこいいな。そんなことより、未来の菫さん話が刺激的過ぎて体の一部が大変なことになっているのですが」

 望の軽いからかいにも、菫は真剣な表情を崩さなかった

「消えちゃう思い出なの、望、頭の片隅にでも残しておいて」

 望は解釈が追いつかなかったがおおよその察しはついた

「いつからこっちの世界に来たの」

「昼と夜が一緒の日から、

 でもどうして望は、突然こんな不可思議な話をされても何も疑わず平気な顔して聞けるの?」

「たいした取り柄もない男が、こんなかわいい女性と付き合っているなら・・・菫さんを疑うこともないでしょう。居酒屋で僕に抱きついてきたとき菫さんに違和感を抱いていたし」

 望は高級車を駆って、夜はもやしをおかずに食事をしている自分を連想した

 菫の声が震えていた

「なんでそんな些細な違和感に気付けるの?」

「多分”私は差別論者”と言ったところから、君のこと好きになったからだと思います」

 望は他人行儀に返答した

「・・・私の望は嘘を言っていたね。私を好きになったのはその発言の4時間後だと言っていたんだよ」

 望はパンドラの封印を解く勇気はなかった。この状況を把握するのは困難だが、菫さんは未来から来たと考えることが一番簡単に説明つくことだけは気付いた。最もこういう仮説は紫と一緒にいた頃に思考済みでもあった

「ごめんなさい、私は20歳の望が私の話を疑うと思っていた。

 でも私があなたに恋した日も望は望だった」

 菫の動揺が20歳の望にも読み取れた

「ねえ、僕を信じて正直に答えて欲しい。未来の菫さんは生きているの」

「幽霊じゃないのよ、ほら足だってちゃんとある。でもこれは19歳の私の身体か」

 菫は瞳を潤ませながら先ほどと同様に、笑いながら望にスカートの中身を見せた。

「そうか良かった、良かった」

 望の目から涙が溢れた。菫の顔から生気が失われていくのが分かった

「ごめんね。私のことそんなに心配してくれていたの」

 菫は望の髪を優しく撫でた

「未来の菫さんは、こっちに来てから誰にも話せず

 ずっと独りだったんでしょう」

 今度は菫の瞳から涙が溢れた。菫は涙を望の胸で拭った

「仕組みは良くわからない、多分有美さんじゃなきゃ説明は無理」

「有美さんって、勧修寺有美さんですか」

 菫はただ頷いた

「ごめんね奈緒。あなたが見つけた宝物を私が奪ってしまって」

 今度は望が菫の髪を撫でた。漂う香りに不快がない。望は化学薬品過敏症で香料全般が苦手であったが、菫が自分と同じシャンプーを使っていることに気付いた

「僕は何をすればいいの?」

 望はおおよそ、未来の菫が何をしようとしているか予想ができた。菫は望の胸から離れて望の瞳を凝視した。

「今夜私を抱かないで」

 呼吸を乱して

「私を送った後、小夜の話を聞いてあげて」

 そして、

「小夜と私と望の3人で鶴岡八幡宮にお参りをして」

 力強い言葉で言い切った

「分かった、約束する」

 望には考える余裕は無い、本能で回答した

「ありがとう。お礼しなくちゃね」

 菫は望の太股に手を乗せた

「小夜の好きな人って・・・奈緒なの」

 望は不謹慎ながら別の期待をしていた

「驚かないんだ」

 望は菫の声が艶(なま)めかしく聞こえた

「十分驚いているさ、未来の僕はこんなかわいい人と結婚しているのだから」

「のぞみ・・・、そろそろ19歳の私に身体を返さなくちゃ」

「なあ、未来の菫さん・・・」

 返答はなく、既に菫は眠りの中だった

 望が肩を叩いて菫の名前を連呼すると菫が目を開けた

「望、やっぱり助けに来てくれたんだぁ~」

 菫は周りを見回し、頭を望の肩に預けていることに気付くと

「あれ、ここどこ?望もしかして私が気を失っている間に・・・」

 望は言葉を遮って

「菫さんのおへその上にかわいいほくろが2つ並んであるんだ」

 望は明らかな嘘を言ってからかうつもりだったが、菫は意外な行動を取った。慌ててブラウスをめくり上げて確認したのだ

「おへそまで僕に見せてくれるのか、今夜は独りで大分楽しめそうだ

 菫さんは19年間連れ添った身体に何を確認しているんだよ?」

 菫は突然泣き出した。

<つづく>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る