第17話 胡蝶の夢

胡蝶の夢


「小夜ちゃん、試すなんて酷いよぉ~」

 菫の声が二人のテーブルまで届いた。

望は紫と菫の共通点を考察していたがタイプは明らかに違う。むしろ、紫の冷静で頭脳明晰なところは小夜の方が近い気がする、だから小夜が紫の代替品という小夜の考察は的を射ているといえる。多分小夜が意図なく言った”巴”がこの謎の切り口のような気がする。

 ここで中学生の頃の望だったら、したり顔で歴史蘊蓄の話して相手に気を遣わせていただろうと当時を振り返った。こんな話に耳を貸してくれる小夜に、大学生の望は感謝できる。中学生の頃には持ち合わせていなかったものも、今ではたくさん持っている。紫との出来事でも後悔がないのも、望が築いた財産の一つかも知れない。


******

「富樫君、あなたは本当に存在するの」

 紫の追憶は衝撃的な言葉で始まる。僕は教師から受けた言葉の暴力で悔しくて眠れない日々が続いていたのでその言葉を平然と受け入れた。紫は僕の態度に安堵したらしく、雑誌のグラビアの写真のような美しい笑顔になった。

 その大人びた少女の美しい顔が40 cm先にあって、しかも手をしっかり握られている。これは夢の中であるような気がした

「富樫君の手、暖かい」

 このとき、初めて女性の手は冷たいこという感想を持った。

 大学生になった今の望ならば分類に”女性”という大きい主語は使わない。当時は根拠が曖昧でも巨視的な分類(識別)に疑問を抱かずに、自分の仮定した分類に自分が縛られていた。思えばまだ数学の知識も幼稚で微分の考えは学んでいない中学生だった。

 単純に女性と手を繋いで舞い上がっていて、自分に起こっていることを処理できず心身共に混乱していた。

 紫は続ける

「私ね、私以外の者が存在しないんじゃないかって思う事があるの」

 衝撃的な仮説だが、紫は頭が良いのでそういう風に考えるのかな?位の感覚だった。

 僕は一つの結論に到った。これはどうせ夢の中だから、少年マンガの主人公みたいに、信じられないことを言って格好つけてやろうと割り切った。思えば僕は、自分の夢の中でさえ遠慮した行動を取っていたのだ。

「実は、久保(紫)さんは神様なんだ」

 できる限り真面目な顔で答えた

「富樫君は私がおかしなこと言う人だと思わないの?

 からかわれていると思わないの?」

 紫の手に力が入った

「久保さんにからかわれているなら、僕も大人になったのかな」

 紫の顔が険しくなったことを覚えている

「もし、私がからかっているとしたら富樫君は悔しくないの?」

「久保さんならば、からかわれても悔しくないかな」

「なんで?」

「久保紫さんに・・・僕は作られた訳だから」

 紫は少し不機嫌な顔になったように見えた

「もしかして、私をからかっている?」

 僕はとびきり凄い言葉が用意できた

「久保さんは僕に否定して欲しかったの?」

 冷静に振る舞っている紫の顔に憂いが現れたように見えた

「ねえ、望は、わざと太っているの?わざと勉強できない振りをしているの?」

 僕は軽い怒りを感じたが、呼び名が”望”に変わったことの方が気になった。夢の中だから怒っても仕方ない、ああまた夢の中で遠慮していると笑った

「そんなわけあるか~」

 紫の目が潤む。僕は夢の中でさえ、紫の手を振り払って抱きしめる勇気がない

「この世界は小説の中みたいで、この小説の中にいる君と、小説を書いている君の2人いるってことかな?違っていたら指摘して」

 紫は些か怒った口調で

「違っているところは、あなたが自分に甘いところね。太っていることは自分の管理ができていない、成績が悪いのはあなたが勉強しないから、これだけの考察力があるのにどうして、プライド高き老国語教師に歴史解釈の過ちを指摘したのかしら?」

「あの先生は小説と史実がごっちゃになっていたんだ。真実を伝えたかったんだ」

「猛獣に言葉は通じない。猛獣は竹刀を見た時点で襲ってくるものよ。力に長けた猛獣とはいえ自分の被害は最小限で済むように考える。命の危険を感じたら躊躇なく危険分子を潰しに来る。もしや富樫君は先生を賢者か神様と勘違いしていない?」

 紫の言葉が胸に染みた。僕もきっと泣いているのだと思った。捨てる神があれば拾う仏もある。主語の”神様”に対して日本には貧乏神も疫病神もある。この閉じられた教室の中で、少なくとも紫だけは教師が放った魔法に掛かっていないと思った。そして僕が剣道部だというどうでもいいことも紫は知っていたようだ。 

 僕は小学生の頃から”変わり者”という名札を付けられずっと一人だった。でも、心のどこかに多くの人に認められたい気持ちもあった。紫もずっと一人だった様な気がする。しかし僕とまったく違う所は同級生の誰より頭脳が明晰であることだ。先生さえ見下せる頭脳を持ち合わせている。だから僕のように支配者と奴隷のような卑屈さはない。

 紫はさらに続けて

「彼らの仕事は実体の無いものを提供している。そんなことを何十年も続けていると実体との無いものでも実体があるように誤解しちゃうのかもね」

 紫の言葉に矛盾を感じた。紫の仮説が正しければ自分たちのいる世界は実体のない空想世界であるはずである。

 では、今考えている僕はこの世界にいるのだろうか?

 それともこの世界を見ている紫と同じ世界にいるのだろうか?

 あるいは自分自体どこにも存在しないのではないか?

 この恐怖こそが紫を支配しているのではないかと思った。

 この夢は考えさせられる夢である。どうすれば紫の不安を和らげることができるだろうか

「最初の話、考えても結論がでない話じゃないかな

 久保さんの意見に同調したいが・・・少なくとも今の僕には理解は無理だな。

 数学の解なしみたいな話かな」

 紫が僕の顔を凝視している

「あのう、そんなに見つめられると恥ずかしいのですけど」

 夢の中なので気が楽だ

「解なしということは複素関数の領域にもう一つの答えが存在するってこと?」

「ごめん、聞いた事ない言葉」

「ありがとう望、最高の助言だった。

 らせん階段にいる私と望がイメージできたわ。

 ねぇ望、余計なことかも知れないけど、歴史の分野に進むと、あの教師や学級長みたいな人間と係わって行かなくちゃいけなくなる。あなたぐらい考察力があるならば絶対理系に進むべきよ。

 数字ほど頭の悪い連中を説得させるに使える便利なものはないから、望ならきっと説き伏せられる筈よ」

 紫の言葉は真っ直ぐすぎて嬉しかった。こんな言い回しはきっと僕以外にはしないのだろうとも思った。自惚れでもいい、これは僕の夢の中だから。自分が太っていて成績が悪いことが唯々悔しかった。

「久保さんは人間的に凄い人だね。どんなに”ありがとう”と言ってもとても返せないくらいのものを久保さんからもらったよ。目が覚めたら心を入れ替えて前を向いて歩いて行けるよ」

 僕は、今は無理だけれど、いつか紫さんのような人と会話のできるような人になりたいと思った。

 

「あー」

 聞き覚えのある不快な声、振り向くと

 星愛美が立っていた、彼女は小学校の頃から僕を目の敵にした小さな活動家だ。

 紫は愛美に見られても僕の手から手を離そうとしなかった。

 紫は薄笑いを浮かべ蔑むような顔を愛美に浴びせた。僕は紫の鋭い視線に導かれてもう一度振り返ると、愛美は紫の冷たい視線に含み笑いの顔を残して、何も言わず逃げるように立ち去ってしまった

「面倒な奴に見られちまった」

 紫は真顔にななって

「私に手を握られるの不満?」

 と聞いてきた。僕はどうして良いか分からなかった。少年マンガならばここは紫の手を振りほどいて、力強く紫を抱きしめる場面だが、僕は夢の中でさえ、勇気も自信もなかった。悔しい、悔しい、悔しい、でもこれが今の、14歳の自分なのだ

「僕が小学生の時からずっと仲間はずれなのは、彼女に係わるところが大きいかな」

 紫は包みこんでいた手をそっと離した

「ずいぶん複雑な言い回しね」

「星は、活動家だから、言葉を選ばないと犯罪者にされてしまう」

 紫は笑って

「”活動家”傑作ね。彼女、私と話すときも自分を小さく見せようとする言い回しをするわね。察するに、弱者を装って利益を得るタイプね。保険金詐欺みたいな感じ、係わらないのが一番ね」

 僕がかつて愛美から受けた攻撃を見ていたかのようだった。ちなみに紫は転校生で、僕と愛子の小学校でのやり取りを見てはいない。僕は、手を離された今、起こっていることが夢の中ではないのではないかと思った。

「望って呼べないな。教育委員会のこともあるし、少し距離を置きましょう」

 僕はあの愛美は、つくづく僕の人生に悪影響を起こすと思った。前世の仇同士だったのではないかと真剣に考えた。

 そんなことより僕の人生にとって最も重要な日になった。

「紫さん。ありがとうございます」

 僕は勇気を振り絞って名前の方で呼んだ。紫の笑顔が瞳に焼き付いた。

 僕は紫さんのおかげでこういうことが言える大人になった。”ありがとう”なんて言葉は軽すぎて、何度言っても足らない。言葉はこの世界に漂い誰も捕らえることのできないものかもしれないと思った

「教育委員会の件、考えといて」

 紫の問いに

「お願いします」

 僕は即答した。

******


「凄く興味深い話ね」

 小夜がまた顎に手を当てて答えた

「紫さんと会話ができていたから、つまり言葉が繫がっていたから、僕は残像を見たのだ

 僕は紫さんと並んでらせん階段を上っていたつもりだったが、実は一周上すなわち真上の階段を上っていたんだ」

「望、それって複素関数のこと指している?」

 小夜は望が長い時間を要して噛み砕いた内容を瞬時に解釈した。

「きっと、小夜さんは何度もこの台詞を聞いたと思うけど・・・」

 小夜は望の言葉を遮って

「愛美さんにキツく当たったのはそういう事情だったのね、かわいそう、名前が同じだけなのにね」

「小夜さんが興味深いってのはそれ?」

「今夜だけじゃ、全部の話を紐解くのは無理ね」

「小夜さんなら一晩中付き合いますよ”胡蝶の夢”に」

「へ~。でも小夜ちゃんも面食いなのぉ~」

「あれれ、さっき眼鏡屋一緒に行くの断りましたよね」

「それはリーマン面の残像よ」

「らせん構造・・・複素関数になるとお手上げだな

 確か、ボーアがあの世のアインシュタインに説明するために準備した・・・」

「詳しいのね、ソルヴェイ会議の光子箱とリーマン面

 ところで”胡蝶の夢”ってなに?」

<つづく>

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