第16話 聞きたくもない話と色白長髪の美女"中原巴"
聞きたくもない話と色白長髪の美女中原巴
「ねえ望、どうしてりんごは地面に落ちるのに月は落ちて来ないの」
有名なニュートンの話から切り出された。竜志は黙って2人の向かいの席に座った。奈緒が座っていた場所だ。望は小夜の質問にとっておきの言葉を用意した
「りんごも月も実体があるからね
ところで小夜さん、どうして電子は原子核に落ちて来ないの」
小夜もコペンハーゲン解釈の支持者ならば答えは”実体がないから”と答える筈だ。だがそれでは小夜の自尊心が許さないと望は予想した
「別れた相手を自分じゃ探せないから
新宿区内を歩き回っているからじゃないの」
小夜の答えは、望に対する敬意を含んでいることを望は快く受け取った。そして、自分が小夜のために予習した話がどこまで通じるか試すことにした。
「ニュートンの万有引力やアインシュタインの特殊相対性理論を打ち破る理論を小夜博士はお持ちかと存じますが」
これは、測定される前の量子を粒子に仮定したときの矛盾を示している。恐らく才媛の小夜は意図を読み込んでくれると望は信じていた。
「もしや私のことを原子核の周りを電子が惑星のようにぐるぐると慣性運動をして回っているという新興宗教の信者だと思っているのかい」
小夜は望の期待を全く裏切らなかった
「私はアインシュタイン、特にそのお顔がとても大好きなので
光よりも速い速度があるとは信じません。
1000光年先の分かれた相手が測定すると合体して実体になるなんて信じられません」
小夜は冷ややかな笑顔で
「仕方がないな、私の知っている英単語は800字程度しかないが英語で論文を書くことにしよう」
これはコペンハーゲン解釈論者の天敵アインシュタインらが記したEPR論文嫌味である。望は小夜がコペンハーゲン解釈論者であることは確信していた。コペンハーゲン解釈の支持者にとってアインシュタインは反対勢力なのである
「でも小夜博士、電子の重さから考えると光速を超えないと原子核に落ちてしまいますが」
これは、先ほどのニュートンの万有引力とアインシュタインの光速度不変の原理を破らない限り成り立たない実例である。量子的に考えると測定前には粒子であるならば、特殊相対性理論で論じた”光速より速いものが存在しない”という定義を覆さないといけないのである。
小夜はしたり顔で
「安心し給え望、私の実績があれば後援者がひどい手口を使って白を黒にしてくれるさ
昔、取得した肩書きというのは人を騙すのに役に立つ」
「ところで望、君はどこの大学出身だ」
「小夜博士と同じ大学ですが」
「なに、それでは肩書きで人が騙せないじゃないか!」
「でも僕はボーア博士の功績を説明できますが」
「そんなこと、物理を学んだことの無い人にどう説明するのだ!
しかも、物理を学んだことのある竜志君でさえ興味なさそうではないか!」
竜志が何か言おうとしたが、それを制して望が
「ラザフォードは”女性バーテンダーに説明できなければ理論ではない”と仰っていますし、耳を傾けてくれるなら説明しますよ」
小夜は腕組みをしながらご機嫌そうな顔で
「6歳の子供に説明できなければ科学ではないのだよ」
これはアインシュタインの言葉の引用である。望の意図は単にアインシュタインがラザフォードの言葉を盗んだだけだと思ったが、この瞬間別の考えが閃いた。
「小夜博士、それは分からない奴には説明してもムダだと言うことですか?」
「望、私は君を見くびっていたようだ、その通りだよ! 物理を学んだことのない者は、解説者が無能だから自分が理解できないと思わせるのが一番だ。
もっとも君は、バーテンダー相手ならば、さっき菫と話したときのように鼻の下をありったけ伸ばして理論を説明するだろうがな。論ずるには新たな要素(パラメーター)を足さねば真実には近づけぬがな」
「小夜博士! 大切なことを論じていません。
経営者は誰でもバーテンダーにはしないでしょう」
小夜は顎に手を当てて少し考えた
「さすがはラザフォード。やっと意図が分かった」
少し間を開けて小夜が呟いた。
「望、・・・ごめん」
望は小夜がなにを謝ったか分からなかった
「小夜さんに謝ることは山程あるけど、小夜さんに謝られる筋合いはないぞ」
また小夜は顎に手を当てて考えている
「なんか、望の日本語、おかしい」
「ああ、留学が長かったからね。日本語が不自由かもしれない」
「あら、どこに留学していたの?」
望は、冗談のつもりだったが、少しだけ小夜が騙されたようなので補足することにした
「スピンする相方が水星にね。水銀中毒になって帰ってきた」
「へ〜誰が観察して地球に来られたの?」
「碧さんかな」
ここでようやく偵察でやって来た竜志が口を挟んだ。
「ミドリって誰」
「ああ、高校の時付き合っていた人」
「菫に話していい?」
竜志はからかうような口調で言った。望は菫のことを呼び捨てにする竜志に不快を覚えた。否、道化師を演じている菫はこれでいいのだが、竜志の口から聞くのは面白くない。
小夜が露骨に不満そうな顔をして、会話の権利を自分に戻した
「ところでさっきのマクスウェルの悪魔を飼い慣らした秘密はなんで分かったの?」
竜志は二人の会話からまた、追い出されてしまった。
「僕が碧さんといたとき居合わせた、一度相互作用した量子スピンをかき集めるということでしょう。再現するのは理論的にできそうだけど、居合わせた量子スピンだけ集めることができるのはマクスウェルの悪魔しか思いつかない」
「ははは、私は変装したバーテンダーさえ見破ることができないのに、マクスウエルの悪魔を飼い慣らすのは無理よ」
「ちぇ、少し期待したのに」
「もし、見られたとしたらなに見るの」
望は、菫を軽く見ている竜志をからかってやろうと思った。
「竜志なら奈緒さんの入浴シーンかな」
「そんな訳あるか!
つうか、いきなり俺の話かよ」
「小夜さんと僕の話に退屈してそうだし」
今度は小夜が竜志に
「ねえ竜志君、戻って、菫に確認して欲しいことがあるんだけど」
「なんだよ、いきなり。お前達の会話、訳がわからねぇ」
小夜は竜志の言葉など気にしないように
「望が名前しか情報のない女性を紹介されました
ともこ
ともみ
ともえ
さて、望はどの娘を選んだでしょう?」
「なんだそりゃ?女の子は顔見てから選ぶだろう」
「竜志はな、もっともお前の場合はバストか」
「怒るぞ!」
小夜が口を挟んだ
「もう怒っているって」
竜志が絶句した後、言葉を振り絞った
「小夜さんってそういうこと言う人なんだ、意外。
それと、小夜さんも菫もお前のこと”望”って呼ぶんだな」
「僕と一緒にいたからから小夜さんも少しバカが感染したんじゃないか」
「それも菫に伝えておく」
どうやら、竜志は望と菫が男女の関係になっていると勘違いしているようなので、望はもう少しからかってやろうと
「あ〜お腹の赤ちゃんの名前、考えなきゃ」
小夜は笑いながら
「物理の法則から言うと
ペパーミントブルーなんてどお?」
望も笑いながら
「親には子供の名前の責任があるだろう」
「なるほどね」
小夜はぽつりという。ペパーミントブルーで昔聴いた曲を思い出した。
「そんな風に僕たちも愛せたらいいのに」
竜志は驚いた顔をしている。竜志は少し前の二人の会話を知らない。
小夜は連歌のように答える
「水のように透明な心ならいいのに」
小夜がこの先の部分の曲を鼻歌で奏でると、望は口笛で曲に重ねた
「重なる音がシュレーディンガーの猫ね」
望は小夜と音楽の趣味も似ていると思った。バナッハ空間を彷徨うベクトルは竜志に観察されることによって実体を顕した。
小夜が好きな人から、望は小夜を奪える自信も、口に出す勇気も、そして断られる覚悟もあったが17歳の望がそれを拒んだ。いや、これは体裁の良い言い訳だ。結局望は、過去の望を越えていないし、こんな手のかかる小夜よりもあのメフィストーフェレスに弄ばれた方が楽しいという、人として軽蔑される選択肢を手に入れていた
「扉を開ける前の状態は朧げなる瞳では分からないさ。
ところで、何故シュレーディンガーは実体のあるものを例えにしたんだろう?」
「【火薬の装填】の話は知っている?」
「知らない、是非教えて欲しい」
竜志が露骨に不満げな顔になっている。望の邪な迷いを知らない竜志は、恋人同士の会話に割り込んでしまったような疎外感に、この場所にいることを拒否されている空気が充満しているように望には見えた。竜志も奈緒に好かれるためにやっているに違いない。菫を呼び捨てにした意外は、なんら竜志に対する嫌悪はない。
竜志は小夜が作った逃げ道に縋ってこの場を去ること決意したようだ。
「奈緒と菫に報告するから」
追い返すつもりだったが、弾幕に当たって撃墜された偵察機が小夜が用意してくれた救命艇に乗って奈緒のところに戻るような風景が望の脳裏で上映された。望は小夜のために用意した花火を打ち上げられたことに満足している。恋愛に発展しないのはいつものことだ。
竜志の後ろ姿を見送りながら、小夜は
「ずいぶん菫さん”には”優しいのね、ヒントを出すなんて」
「菫さんは友達だからね、困ってたら助けるさ」
望は”それに答えが違ったらがっかりするからね”は言わずにおいた。小夜が嫉妬しているという発想もなかった。
「それにしても最低ね。極東の三流学生の分際で大物理学者を罵るなんて」
「最低の人間は最低の振る舞いをしないと、自称”普通”と思っている人が迷っちまうだろう」
「”普通”の人ね・・・」
「小学生の時の活動家の同級生は”普通”という奴隷に洗脳しようとしていたからね。菫さんが僕の心を読み取ってくれたのはすごく嬉しかった。心の中に鍵を掛けてしまっておいて、いつしか鍵をどこかに無くしてしまった。みたいな話だから」
望は、小夜の顔に憂いを感じた。もう望という船は菫に舵を切り始めている
「ところで望の答えは?」
「せ~ので言ってみる?」
「せ~の」
『ともえ』
波長は重合した
子供の名前のは親に責任があるというのがこの問の鍵である。(当時)女の子の名前のほとんどが子、美のつく名前だった。
親が何かの意図があってそういう凡庸に準じないのならば魅力のある大人の可能性が高い。子供は成長の段階で良くも悪くも両親に影響を受けるので、そういう経緯から名前しか判断する要素がなければともえを選ぶ。
もっとも菫ならば、”選ぶのは菫よ、でもお断りするけれどね”とか言うだろうと言ったら小夜が大笑いしていた。
「ところで小夜さん」
望は菫が以前から小夜と仲が良かったか質問した。小夜のことはずっと観察していたが、菫と親しくしている印象はなかったからだ、もし、そういう印象を持っていたなら、間違いなく菫にも小夜を攻略するための工作活動をしていたはずである
「会話は何回かしたけど、ちゃんとお話しするのは今日が初めてね。どうして?」
「菫さん、何か小夜さんに相談したかったんじゃないかって、そう思っただけ」
「望が邪魔したんだ」
「謝っとくかな」
「ずいぶん菫さん”には”優しいのね」
「誰の子かもしれない、お腹の命も面倒を見るって約束したからね」
「真顔でそういうこという?さすが天魔!」
「マクスウエルの悪魔を飼い慣らした小夜博士には容易い作業でしょうが」
「ねえ、紫さんの話、続きを聞かせてよ」
脳裏に色白で髪の長い美人、太刀を持ち強い弓を引く女。木曽義仲の最後”だけ”に突然登場した巴が浮かんだ。”菫・・・”望は古典も苦手だったが、歴史好きの手前、先祖の登場する平家物語”火打ち合戦”の箇所とその周辺だけは読んでいた。小中の親友斎藤が巴を葬送の使者と称したことを思い出した。
紫と菫、色が近いだけでなく、何かが似ているような気がする。
望は紫の追憶の傍ら、入学当初の菫の記憶を手繰ってみた。なぜか印象に残る記憶が無い。
あんなにかわいくて特徴のある娘なのに。そしてあんな魅力のある腰回りの持ち主なのに。
<つづく>
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