第15話 マクスウエルの悪魔を飼い慣らせ!

マクスウエルの悪魔を飼い慣らせ!


「それ、騙されたでしょう」

 小夜は高らかに宣言した

「さすが小夜さん、学問だけでなく一般常識も弁えているのですね」

「明らかに宗教の勧誘と手口が同じじゃない。弱っている人に近づいて、大きな力を借りてあなたを助けます。ってね。中学生の望はチョロいのね」

 小夜は冷静に淡々と告げた

「実は、活動家教師の人生に汚点を付けてやったよ」

 したり顔で望は答えた

「えっ、そんな奇跡があるんだ」

 小夜の顔は笑顔だった。望は自分の話を聞いてくれる小夜に違和感を抱いていた。いままで出会った女性の中で、何の目的もなく男の話を聞く女性は初めてだった

「実は紫さんは別の理由で僕に接触したんだ」

 小夜は顎に手を当てていた。望は小夜が考え事をするときは顎に手を当てるのだと思った。

「ねえ望、”ゆかり”ってどういう字を書くの」

 望は予想外の質問に面食らった。

「むらさき(紫)という漢字でゆかりさん」

「では高校の彼女の名前は?」

 別に隠す必要も無いので望は正直に答える

「碧(みどり)という名前でした、紺碧の”ぺき”ですね」

「ふーん色の名前ね」

 望はそこで、小夜が何を言いたいのか分かった。しかし、小夜はなぜ高校の彼女が色に関係する名前だと分かったのか不思議だった。

「素敵な物理法則に気付いたわ」

 望は発言を先回りして

「菫さんを悪く言うな!」

 と答えた。

 二人でケタケタ笑った

 お酒が入っていたせいで少々声が大きくなっていたらしく、菫の耳に届いてしまったようだ。菫が何かを喚いているようだったが、奈緒は菫を解放してくれないようだ

「ところで高校の彼女が色の名前だってどうして分かったの?」

 小夜は笑いながら

「過去の特定の場所の音声を聞く装置を開発した。名付けて”しのぶ摺”」

 望も笑いながら

「そんなことできるの」

 小夜はしたり顔で

「古典の授業は寝ていたのかしら?

 望は電子スピンは分かる?

 1molって量子がいくつあるのかしら?

 音声を再現するのにどれだけの量子が必要かしら?

 そして観察すると収縮されるってご存知かしら?」

 望は少し悩んで

「もしかして小夜さんはマクスウェルの悪魔を飼い慣らしているのですか

どおりで菫さんや僕を簡単にあしらえる訳だ 

僕は、とんでもない大物と係わっちまったみたいだ」

「朧げなる瞳の持ち主よ

あなたの恋愛観はさっきの話で分かった

奈緒さんには学級長を重ねて

私には紫さんを重ねているのね

私は代替品ってことね」

 望は小夜に気を使うために言った”顔が好みでない”が逆効果になったと感じた。相手が大きすぎる。残り少ない手札を切っていくだけだ

「有名な映画監督が言ってた

想像力はもともと人に備わっているものではない。経験から想像力が生まれるのだと」

 小夜は沈黙している。顎に手を当てながら、この才媛が何かの答えを出しあぐねているようだ

「私、私ね、好きな人がいるから」

 望は不思議な緊張から解き放たれるようだった

「そう」

 望は無機質に短くそう答えた。

 そもそも望は旅行に行くより、旅行の予定を立てる方が好きで、実際旅行になっても段取り通りとか、予定外の出来事が起きたときの対応ばかり考えて旅行自体を楽しめない性分だった。例えば彼女と遊園地に行っても、彼女が楽しんでくれることだけが目的で、自身が催し物(アトラクション)に興じることは殆どなかった。察しのいい女性ならそれを嗅ぎつけて、二人でいることが楽しくないと不満を感じるだろう。望は彼女と別れた後に反省した点であった。反省したからと言って性分は直ぐ直るものではない。

 振られたサイコロの目の数を素直に受け止める。結果に真摯に向き合うところが望の長所でもあり短所でもあった。碧は出されたサイコロの目が意図した数と違った場合、泣き言や不正を疑うことをする人だった。それを「普通」と定義する人でもあった。望は共鳴したフリはできても、同意は無理だった。その気持ちが態度にでて、碧との心の距離を広げてしまったのかも知れない。

 小学校の時、ある少女に「それが普通なんだから普通にやってよ」という命令を受けた。少女は自分を小さく見せて弱者を装い、教師を抱え込み、少女の考える理想を押しつけた。思慮の浅い小学生を少女の意見の賛同者に誘導した。反論すれば弱者を攻撃する悪人に仕立て上げられ、小学生時代は悪人の名札を付けられ、孤立を余儀なくされた。女性が怖くなったのはこの少女が原因として間違いない。小学生の望の心にこの小さな工作員が深い傷を負わせた。望にとっては少女の言葉が「奴隷なんだから奴隷らしくしなよ」と聞こえた。

 望は小夜の行動を見る度に小夜が自分の考えと近い人間だと勝手に思い込んでいた。小夜なら「普通」を押しつけない人だと観察して信じていた。小夜には自分の基準があって、「普通」などという身勝手な基準で強制を求めない人だと確信していた。かつて、遠く手の届かなかった紫と同じ領域に住む人をこの学校で見つけたのだ。

 こんな凡庸な自分が小夜に近づくため、小夜の興味のあるものを調べて、その話ができるようにしたし、用意できることは可能な限り準備して今日を迎えていた。だから小夜の答えに何の心残りもなかった。自分に実力が足らなかっただけだと納得できる。強いて言えば今日の段階で恋愛に発展するような深入りした展開になることは想定外だったことぐらいである。

 望が冷静でいられたのは、自分に住み始めたの薄紫色のメフィストーフェレス(悪魔)の影響が大きい。涼しい顔で差別論者を自称した彼女が笑顔で手招きしているようだ。彼女は「普通」という言葉に嫌悪感を持っていることに一瞬で気付いている。恐らく彼女も紫と同じ領域の住人だ。

 薄紫色の邪心は望が造った偶像に過ぎないことも分かっているつもりだ。微視的世界で起こった事は統計学上の存在でしか、巨視的世界には存在できない。小学生の時に言葉の暴力を受けた少女のように、あたかも偶然的に起こった事象を科学の法則にするような詐欺活動がまかり通らないことも把握している。

 このメフィストーフェレスに弄ばれて朽ちていく自身を見るのは”あはれ”。予備校の古典教師が仰った”あはれ”に近いのだろうか、教師は”情趣のある美しさ”と説明した。菫に毒を盛られてもがき苦しんでいる自分の姿とそれを見ている菫の映像が浮かんだ。彼女の薄笑いが”あはれ”に思えた。望はどんなに毒が苦しくても彼女の前では笑顔でいたいと思った。”もう騙さなくてもいいんだよ”そういって息絶えるキザな自分を想像していた。

 望は巡りめく思いを祓って、

「僕は好きになった人には想いを告げる主義だから、小夜さんにもそうしました。

もし、小夜さんが不快な思いをしたとしたらそれは申し訳なかった

でも小夜さんが僕のために笑顔を作ってくれたのは嬉しかった

もう小夜さんのこといやらしい目で見たりしないよ」

 望は小夜が哀しげな顔をしたように見えた。厚かましいとは思ったが最もずるい提案を小夜にした

「今日話ができてとても楽しかった また同じように話しかけてもいい」

 小夜は躊躇なく無言で頷いた

 望は小夜の反応の早さに、自分より菫と仲良くした方がいいのではないかという小夜の謙譲の可能性を勘ぐった。望が探る言葉を探していると、小夜が先に口を開いた

「ねえ”別の理由”教えてよ」

 望は分かっていたけれど、あえてとぼけた。まだ小夜の本意が覗けていないまま話を変えられては厄介だ。

「何の話だっけ」

「紫さんの別の理由。分かっててとぼけているでしょ」

 望は強引に小夜の右手を取り上げて両手で包み込んで言った

「富樫君、あなたは存在するの?」

 小夜は驚いた顔をして、悲鳴を上げた

「きゃっ」

 小夜の聞き慣れないかわいい声が木霊する、居酒屋が静寂に包まれ、大衆の視線は小夜の手を包み込んでいる望に注がれた。

 小夜は呆気にとられている

「あ~望が小夜ちゃんにいやらしいことしている~」

 菫の声に静寂は破られた。小夜は左手で望の頭を叩くと、包まれていた望の手から右手を振り払った。

「ば、ばか、いきなりなにすんの!」

「紫さんとの出来事の再現ですけど、小夜さん結構初心なんですね、中学生の僕もあのときは同じぐらい驚きましたが」

「ば、ばか、そこまで鮮明に再現しなくていい、どおすんだよ、この視線」

 ざわめきの視線の先には望と小夜があった。

「名家のお嬢様に相応しいお言葉とは思えませんね」

 望は引き潮のように小夜の怒りが引いていくのを感じた

「家柄なんて明治より前の話よ、今更言う人がいるなんてね」

「今だから言いますけど、僕は頭がいい人と家柄がいい人は、機会があれば積極的に狙います」

「なにそれ、ちょっと理解に苦しむわね」

「巨乳好きとかロリコンなどは市民権得ていますからね、そういった個別の嗜好の一種ですよ」

「その話、今作ったでしょ」

 望は小夜の言葉に構わず話を続けた

「渉師匠の彼女はもっとすごい本流に近い名家ですけどね、寝取られ男は自分のされた事を他でしませんから、そもそも渉師匠相手じゃ僕が選ばれる要素はなにもないですけどね」

 小夜もこの話には反応した

「ああ、勧修寺有美さんね”右翼魔女”の異名を持つ人」

「小夜さんは交流があるのですか?」

「話した事はないけど、噂は聞いた事ある。美人だけど右翼思想が強すぎて、言い寄る男を精神障害にしてしまうとか。望は話したことあるの」

「ありますよ」

 夏休みに写真の現像で学校に来たら、部室に渉と有美がいた。渉は有美を紹介してくれて、そのとき言葉を交わした。望は畏まって、ずいぶん名家の名字といったら、いつも名字を侮辱されていると愚痴をいい、こんな風に言われたのは初めてだと喜んでくれた。ロリコンが少女が好きなように望は名門家系の女性に異常な執着があることを告げた。

 渉の視線が険しくなったので、実は平将門を討った、俵藤太こと藤原秀郷の末裔がいてその娘とお近づきになりたいという話をした。彼女は量子力学に興味があるようなので予習をしたいが化学屋の自分には難しく、物理屋のお二人の力を貸して欲しいと頼んだ。有美は手強そうねと笑った。それが最初の出会いだった。

「問題なく会話が成り立ったんだ」

 ”お近づきになりたい”とは小夜のことだが、そのことは小夜は気に留めていないようだ

「有美さんすごくて、黒体放射からプランク定数までの説明してもらったら凄く分かりやすかった」

 小夜は深いため息をつくと真顔になり

「偵察機が来るわね」

「ああ、竜志は奈緒さんのこと好きだから頼まれたら断らないな」

 偵察機とは二人のことを調べに来る竜志のことである。にやけた小夜が提案した

「撃墜する?」

 望は笑顔で

「いや丸腰の偵察機を撃墜するのは気が引けるので、弾幕張って追い返そう」

 小夜も笑顔で

「賛成。さっきの電子スピンの話にしようか」

 望は小夜とはいい友達になれそうだと思った。

<つづく>

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