第14話 教室という系の支配者

教室という系の支配者


「へぇ、面白い、美人って言われた奈緒さんはなんて返したの」

「肯定も否定もしなかったな

 でも君みたいな美人と話していると、他の男からの視線が痛い

 羽衣を盗んでまで天人と付き合いたくはない って結んだ」

 小夜は少し考え込んだ様子で

「余程、高校時代の失恋が尾を引いているのね」

「小夜さんの考察は的確だね」

 小夜は、望の返答が予想外だったのか話題を変えてきた

「その美人じゃない人の話聞かせて」

「僕は、美人じゃないなんて言っていませんよ、顔が好みじゃないとは言いましたが」


 中学の人は久保紫(ゆかり)という名前で、小夜にはあのような表現をしたが、奈緒よりも美人だと思う。紫は頭脳明晰で成績もよく、成熟した大人の女性の雰囲気を漂わせていた。まるで、タイムスリップしたかのように躰は中学生だが中身は20代の印象だった。そんなこともあって話が誰とも合わず近づけない印象だった。

 望も彼女から声をかけてきたので会話になったが、自分からは話しかけられない存在だった。もっとも、中学生の望は女性に自分から話しかけられるような人間ではなかった。小学生の頃苦手な少女がいて、それを原因として巨視的に女性を恐れていた。とは言っても女性の躰には興味があったので、自分に都合のいい女性が現れたら恋愛をしたいとも考えていた。

 中学生の思慮の浅さは今考えると恥ずかしいが、誰も教えてくれる訳でもないし、誰に話す訳でもない、当時はそんなあり得ない理想と妄想の中にあった。言ってみれば歴史学者になることを夢見たのも妄想の一端だった。

 紫のお陰で望は、人生を棒に振らなくて済んだと確信している、紫は歴史学者の未練をきっぱり断ち切ってくれた。

 

「僕はその日から卯の舵(面舵)を切って小夜さんや菫さんのいるこの場所。心地のいい場所まで来たんだ。まあ、ここに居ることを維持するのは僕には大変だけど。でも小夜さんや菫さんと話したらそんな辛い話も吹っ飛んだよ」

 小夜は見る見る表情をこわばらせて

「面舵って・・・」

 

 望の生まれた場所は、いわゆる朝敵の地であった。両親の仲人は生涯を掛けてこの汚名の地を返上するために尽力した人であった。戦後世の中が変わった、祖父の話では仲人は来客の度に公安が偵察に来ていたという。そんな方を両親はどのような経緯で仲人親をお願いしたか知らないが、ある訪問者が仲人の遺影に深々と頭を垂れて涙を流した話を父から聞いたこともあった。

 一方教師の方は、県にはないが組合系の意向の強い人で、授業でもしばしば革新の意向を吹き込んだ。家がどちらの思想に寄っているわけでもなかったが、望は歴史学者を志すだけあって教科書以外の歴史の本にも目を通していた。教師の支持する大本は戦争のさなかでも交渉の使者を平気で殺害してしまうような組織だったと理解していた。そんな思想に加担するのは望の正義に反した。

 残念ながら入学前に生徒の素性は調べるようで、ことある毎にこの教師は望に強く当たった。ただこういう関係は社会では当然存在する事情だということも望は受け入れていた。

 右左は宗教のようなもので、どちらかが滅びるまで統一されることはない。仮にどちらかが滅んだとしても、残った組織から左右が生じる。大学生の今ならば均衡が理想であると思うが、中学生の望にはそこまで到達できなかった。

 教師と生徒は明らかに階級がある。教室という”系”で教師は頂点に君臨する。大学生の望は、教師は単なるサービス業の一つであると分類できているが、知能や経験の乏しい中学生のこの閉じられた”系”では自分が神あるいは神の預言者と錯覚する教師がいて、”神らしきもの”の預言を受けて人の心を支配するのだ。”神らしいもの”は教師の”微視的な正義”であるが、これに気付いたのも予備校生の頃である。高校時代に学んだ微分や積分が非常に役に立った。

 義務教育というのは国が国民の為に教育の機会を与えるだけで覚えるか覚えないかは生徒次第なのである。工場で不良品を出せば企業はその責任を負わされるがこのような理屈は教師には当てはまらないのだ。

 人生の先輩である教師が、思慮の浅い生徒の考えを修正することは間違いではない。ただし、競争を煽ったり、個人を侮辱したり、生徒が教師の間違いを指摘したことに対して言葉の暴力を以て報復をするようなことが教師に与えられた権限でないと予備校時代に気付いた。

 望は、この教師には鞭で威されて猿芸をさせられた印象しかない。彼の思想に合わない屑人間は、屑に見合う生活をすればいいという教師の名を借りた活動家、平等を詠いながら実は支配層と奴隷層が存在する見せかけの理想を望は見抜いていると自負していた。

 それも中学生ならでは思想である。人生は悪いことばかりではない、国語教師を恨んだお陰で、数学や理科の勉強が全く苦にならなくなった。数学や理科が分からなければ彼らの世界の奴隷層に進む道しか残っていない。芸術や運動などに特化した能力の無い望が、猿芸をしなくていい手段はもう理系科目にしかなかった。

 紫と出会った後は、授業でも教師の言葉は正しくない要素が含まれる(場合によっては含まれない)、自分で調べ直して正しいと判断したものだけを信じた。どんなに辛くてもあの教師から受けた屈辱を糧に乗り越えてきた。いつかあの教師を屑人間と罵ることができるまでは、自分に弱音は吐かずにがむしゃらにやって来た、予備校に入って恩師と会い考えが変わるまでは。

 この大学に合格したとき号泣した。望はあの教師が今更どう努力しても合格することができない学校が望の修学を認めてくれた、大学がここで学んでいいよと客観的に認められたことを以て中学時代のわだかまりの大半を洗い流してくれたのである。

 紫は、アインシュタインに似た国語教師が望に浴びせた言葉の暴力が許せず、話しかけてくれたようだ。教師は猜疑心が強く、紫のように自分より優秀な人間が教室という”系”に存在することが面白くなかったようだ。中学生の望でも教師が紫に対する嫌がらせは、自分にされたものと似ているような気がした。優秀な紫と自分は立場が違いすぎたので紫が話しかけてくれるまでは、対岸の火事でしかなかった。

 紫も望同様この教師を恨んでいたようで、望の一件を紫の親を利用して教育委員会に報告することを提案してきた。直前に学級長がこの教師に望が謝罪する提案をしてきた。望はこのとき学級長に恋心を抱いていたが、勇気を振り絞って、”自分に過失が有ると思いますか?”と問うた。学級長の答えは”先生が怒っているから、謝った方がいい”だった。

 学級長にとっても望は、階級の下位にいる屑人間だったと理解した。目映く輝いていたものは、酷く汚れたものに変わってしまった。ここで学級長に意見してくれたのが紫だった。紫は望の正当性を主張してくれただけでなく、学級長の提案が人としての道徳性を欠いていることを指摘した。学級長は泣きそうな顔をして、教師が宗教家の信仰対象であるかのような理屈で言い訳をした。紫は軽蔑するような、蔑むような目で学級長を見て言葉を発しなかった。望は大人の女性が中学生をあしらうように見えた。

 学級長は逃げるように「私の提案は伝えたから」と捨てゼリフ言って去って行った。望は自分が未熟で人を観る目がないなと反省した

「あの子、両親が先生だからね」

 望は勇気を振り絞って大切な言葉を伝えた

「ありがとうございます」

「富樫君も大変よね、厄介なのに絡まれて」

 最初の言葉が出てしまえば、続きは最初ほど緊張しなかった。

「あの件から悔しくてずっと眠れませんでした。今日は危うく学級長にとどめを刺されるところでした」

「富樫君、同級生なんだから敬語じゃなくていいのよ」

「ありがとう。同級生の女の子と話したことなくてどう話していいか分からないんだ」

「まあ、慣れよそんなもんは、ところで・・・」

 紫の提案は今回の1件を教育委員会に訴えようという話だった。訴える準備は紫の両親を巻き込んで進めていたが、今回の話の方が確実に問題視されるということだった。紫の両親が開業医なので娘の告発がリスクが大きいという話を隠さず告白した。無理強いをするわけでもないし、途中で放り出すこともしないという。告発は紫の両親が行い最後まで対応するという両親の誓約書を出すとまで言った。望は起こるべき聴取の際、事前に準備された通り対応すればいいという話だった。

 望は決断を出せずにいたが、紫が両親の仲人の話も把握していたことで、自身の両親に相談することなく、協力する決心をしていた。

<つづく>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る