第10話 メフィストは数字をきれいに書く女性だった
メフィストは数字をきれいに書く女性だった
「渉師匠に似ている気がしたからかな」
「私はともかくとして鏑木先輩は人嫌いなの?」
「渉師匠は、昔ファンの女の子に硫酸を掛けられたんだ。
まあ、未遂なので”掛けられた”は正しくないけど」
「その話、詳しく聞かせてもらっていい」
望はいつになく真顔な菫の言葉を裏切ることができなかった。
「渉師匠、感じ悪い人ですけど
本心は結構親切な人なんですよ・・・
容姿端麗で親切じゃ、女性は瞬殺ですからね
女性によっては自分の都合のいいように思い込みしますし。
察するに、渉師匠は人と係わるのが面倒になったので人を寄せない態度を取っているみたいですね、直接聞いたわけではないですけど」
「そうなんだ」
淋しそうに呟く菫に、望は渉に感じた憂いが重なった。思い切って言葉にした
「菫さんもかわいいから、男だけじゃなく同性にも苦労したんじゃないですか」
「・・・」
望は自分の仮説が的を射ていたのだろうと思ったが、絶句してしまった菫に何を続ければいいか分からなかった。女性には控える言葉だったかもしれない
「”かわいいって罪よね~”とかいって空気を入れ換えて欲しいな」
菫はため息をついた。望はそのため息にはきっと菫の憂いが詰まっている様な気がした。山の頂上でするような、臨終の時にするような、自分がこの瞬間に立ち会ってしまったことが恥ずかしくなるようなため息だった。選んだ言葉に後悔した
「そういうところね、鏑木先輩が望を信頼しているところは」
望は、菫が親切から出た言葉か、自分の選んだ言葉が適切だったのか分からなかった。気を遣わせているのならば申し訳なかった
「鏑木先輩の件は誰にも話さないで下さいね
菫さん以外には誰にも話していませんから」
「私なんかに話していいの」
「いいんですよ、僕が勝手に話しているのですから」
「誰かに話しちゃうかも知れないよ、あの美男子、ファンが多いから」
「それはそれで諦めますよ」
「どっちを?」
望は、菫という女性の明晰な頭脳が否応なしに襲ってくるように感じた。”どっち”とは”渉の秘密を他人にしらせること”と”信頼していた菫”を意図していると理解している。そもそも入学以来喋り方を変えている秘密を明かしたのは菫が先だった。菫の秘密を背負うには重すぎたので鏑木先輩の話を提示して均衡を合わせた。菫が自分のことを探っていることは分かった。この賢くてかわいい高嶺の花が手の届くところまで来ているのは錯覚ではないのかもしれない。
大学に合格できて良かったという感動に包まれた。浪人を経てだったが、大学生になったら明らかに周囲の見られ方が違う。奈緒、小夜そして菫といった、才媛達に話をすれば期待を裏切られることもなく、レベルを合わせて話を調整することさえ心地いい。地元に居た頃にはこの水準に相当する女性には2人しか出会わなかったが、3人ほどでなくてもざらにいる。
「諦めるのは、両方ですかね。
でも今日は菫さんとお話ができて嬉しかったですよ」
望がそう答えると、菫は笑顔になった。その笑顔は美しかった、菫の些細な挙動さえも意識してしまう。菫をずっと自分に引き留められる特性が欲しいと思った
「安心して、二人で渡った吊り橋の思い出にしてあげる」
「光栄です。でも失敗したな、どさくさに紛れて肩でも抱けば良かった」
「ははは、策士ね。ぶん殴ろうとしたら、抱き竦められちゃうやつね」
二人で笑った。笑顔の後に菫ははっきりとした口調で
「どうして望は小夜さんがいいの」
望は、一番答えにくい質問を直接聞いてきた。高校の時の恋愛の反省から女性に嘘をつくことは最も避けなければならないことだと学んでいた。
「小夜さんの魅力は他の男が気づけないからかな」
「ブルーオーシャンってこと?」
「ごめん、聞いた事ない言葉」
望は菫の顔に曇りが消えたように見えた
「未開拓の領域みたいな意味かな」
「菫さんってすごく頭が切れるのですね」
「惚れた?」
「先ほども話したとおりです。いつかあなたみたいな賢くてかわいい女性とお付き合いできる漢になりたいです」
望の真正直な言葉だった。いくら菫が隙を見せたからと言って、菫にとって自分は役不足なのである。先ほど菫が言った例のように、吊り橋で偶然出会わせた二人に過ぎないのだ。
「望には何が足らないの?」
望は、今まで言葉を交わした女性の中で最もすごい方だと確信した
「まだ、他人の目が気になるんだと思います」
「そんな風には見えないけど、いい意味で厚かましいし」
「菫さんと歩いていたら、俺なら奪えると勝負を挑まれます」
「望とは言わないけど、女は惚れた人が一番よ」
「残念ながら、これは経験談ですよ、菫さんの1/3位かわいい女性でしたが」
「ごめん、女のくくりが間違いの原因ね。女性にも人としての階級があるから」
「高校の時に付き合っていた人がいたんですが、僕より二枚目が奪っていきましたよ。苦労してお付き合いまで漕ぎ着けたのに、その男には簡単になびいてしまったみたいですね。僕は1番じゃなくなった」
望は人に話すのが初めてだと思うくらいで、感情なく淡々と話した。
「まあ、その程度の女ってことね。ごめん・・・思ったこと口にしちゃった」
「いんですよ、今思えば9割方体目当てですから」
望は、今の言葉が本当だったのか自信がなかった。明らかに負け惜しみで女性の前でいう台詞でないこともわかっていた
「望の人柄かな、そんな女に謙譲することなんてないよ」
「軽蔑してくれればいいのに。菫さんは親切な人なんですね。つくづく渉師匠に似ている気がしますよ」
望は、菫の顔に緊張が走ったことに気付いた
「パパは嘘つきですね~」
お腹をさすった菫が、以前のような口調で呟いた。
「望、ちょっと菫さん借りていい」
望は奈緒が来たことに気付かなかった
「ごめん、今、大事な話しているから、話が片づいたらそっちにいってもらうから」
「あなたたち・・・。分かった終わったらお願い」
少し青ざめた顔をした奈緒は元の席に帰って行った
「大事な話ってなぁにぃ~」
「お腹の命の父親は僕ではありませんが・・・その命も含めて僕が・・・」
「うわぁ親がどうしていいか分からなくなって気絶しちゃうわ」
「そんなことはさておき、菫さんがなにか僕に愚痴を言い放したいんじゃないですか?」
「今日は止めておく。さっきの寝取られた彼女の話してよ」
望は、菫が”寝取られた”と表現したことが面白かった。
「つまらない話ですよ」
彼女は大人しい女性だった。僕は容姿には自信なかったけれど、迷惑そうな顔されても、誰に冷やかされようと、同じ口調で、いつもの道化師を演じていた。彼女も諦めて親しくしてくれた。
ハイエナ野郎は様子を見ていた。奴は容姿端麗で運動も勉強もできたので、結構女性ウケは良かった。彼女に奴がどういう好意を持ったのかは分からないが、僕から奪うことを選んだ。そしてまんまとさらっていった。町工場で苦労して開発した新製品を、発売したら直ぐ大手企業が類似品を作られてしまうような話である。
望は彼女を軽蔑した。彼女に後悔させてやろうと思った。ハイエナ野郎の欠点を見つけてはそれを持たない漢になろうと思った。高校卒業する頃には容姿と運動以外は何も負けていない自信があった。いつか彼女より美人な人と一緒に歩いているところを見せびらかしたいと思った。
望は受験に失敗して浪人した。失敗して気付いた自分の無能さと自分の評価の甘さ。
いつも何かを理由にして現実から逃げているツケはいつか払わなければならないこと。
いつも誰かの目を気にして生きてきた自分。
だから僕は自分が信じられる人間になろうと考えた。勉強も忙しかったし、いつしか彼女を恨んでいる自分がバカらしくなった。
「慰めてほしい?」
望は菫がこの時点でこの言葉が言える人間の大きさに驚いた
「気持ちだけ頂いておきます。言われなきゃ思い出さない話だし」
「嫌なこと思い出させちゃった」
「気にしていないから、聞かれりゃ話すさ。成長しているうちは、前を見て歩かないと止まっちゃうから。って何の話でしたか」
「奈緒があなたを気にしている理由。でもその話してもらって理由は分かったわ」
「そんな話でしたっけ、奈緒さん、僕のこと気にしているんだ。夢みたいだな」
「あなたへの態度、違うのに気付かない?」
「なにその、少年マンガみたいなモテ設定。現実離れしているね」
望にとっては過去に自己分析した案件だった。中学生くらいの頃に自分は選ばれた人間だと錯覚する。しかしこれは客観的に自分が見られない人の特徴だ、模擬試験の結果をみれば自分の実力が分かるはずだが、具合の良い理由を付けて現実から逃れてしまう。人より劣っていることを受け入れるのはかなりの能力と判断した。
人は大抵比較して判断する。単純に言えば同じ価格の商品を選ぶならばより利益が大きい方を選ぶ。量が良かったり、質が良かったり、品質がいいものを選ぶ。価格が同じという共通条件が重要である。自分の客観的な商品価値を自己評価したら他より優れている要素を持っていない。ゆえに自分が他を差し置いて選ばれる可能性は極めて低い。
さらに言えば、自分も同じで凡庸で容姿に特徴がなく自身を主張する機会がない女性を選ぶ事はない。これは男女お互い様である。その人がどんなに素晴らしい人であっても観察しなければそれを知る事はできないし、何かきっかけがなければ観察もしない。こう考えると何らかの手段で自身に付加価値を付けない限り選ばれる状況は発生しないのだ。
望は一通り菫に昔話を説明すると、からかうように菫が聞いてきた
「で、仮に奈緒が好きだとしたらどうする」
奈緒のように容姿が他者より秀でていて、誰にでも屈託なく話ができ、人を引きつける能力のある女性が、わざわざ自分のような凡庸な男を選ぶような気まぐれが起こることは希だ。既に過去の時点で的を射た決断を下していた”あってはならないことは起こりえない”
「早撃ちが自慢で35歳まで生きた奴はいない」
「なによそれ」
「西部劇だよ。奈緒さんと付き合ったら他の男に勝負を挑まれるってこと。
高校の時に起こった事から学んだことだよ。
この話、つい先日婉曲に奈緒さんに伝えたんだよ」
「ほんと?」
「菫さんには冗談の時以外は嘘ついていませんよ」
「確認できないけど、望の言葉を借りれば気持ちだけ頂きます」
「菫さんも、今の僕じゃ無理だな。
もっとも菫さんから100年早いって言われそうだけど」
「そんなこと・・・言わないわよ」
「賢くて、かわいくて、おもしろくて、親切で荷が重いな
偶然親の遺産が入って、憧れの高級車を買ったはいいが、維持費が高くて運転できないみたいな未来しか想像できない」
「褒めすぎよ・・・そういえば小夜さんトイレ長いね。お腹壊しちゃったかな」
「帰っちゃったかな。予想外に攻めすぎたな、嫌われても仕方ないか」
「土曜日のデートの時、がんばれば。そうだ、望、遅刻しそうだから電話番号教えて(この頃はスマートフォンはおろか携帯電話もなかった)」
望は携帯しているメモ帳に電話を書いて菫に渡した
「あのう、大変申し上げにくいのですが、菫さんの連絡先を伺っても宜しいでしょうか?」
「ダメ」
「予想通りだな」
渡したメモを半分に切って、電話番号を書いてくれた。
「嘘よ、はい」
「菫さん、綺麗な数字書くのですね」
「望はすけこましね」
「さっきも申しましたとおり、菫さんにはみんな正直に話していますよ。大体菫さんみたいな賢い女性に嘘つくなんて自殺行為だ」
「じゃ、さっきのお腹の赤ちゃんの話もホント?」
菫は笑っていた、反して望は真顔で
「僕じゃそのくらいのハンディキャップがないと、菫さんほどの女性と結婚するのは無理でしょう」
しばしの沈黙の後、菫が口を開いた。
「そろそろ奈緒ちゃんのところに出頭しなくちゃだよぉ~」
望は菫の口調が変わったのを聞いて、今度は誰か来たのだろうと思った
「奈緒さんいなくなっちゃったんだ」
小夜が帰ってきた
「小夜ちゃんお腹壊しちゃったのぉ~」
「ガイガーカウンターのこと調べに図書室に行ってきた」
望は予備校の頃から気付いていたことだが、頭良い人と成績が良くない人の明らかな特徴は、分からないことが生じたら、頭良い人はそのままにせず、直ぐ調べている。そして一度間違えた事は2度間違えないのが頭良い人の特徴だと認識している
「あなたの予備校の講師、只者ではないわね」
望にとっては、小夜のために予習した努力が実を結んだ形であるが、予習時には意識していなかった菫の存在が無視できない状態になっていた。
〈つづく〉
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