第4話  頭脳だけもっている女

 頭脳だけもっている女

望は小夜との別れにお互い隠し事がなかったと信じている。小夜が渉に話したことも間違いではなかった。ただ小夜が心を奪われた人物を渉も有美も気づけないと思った。

「”みくり”さんのこと紹介してもらおうと思いましたが、諦めます」

 ようやく踏ん切りがついた。未練と下心からの開放感が心地よかった。

「怒ったの?」

 有美が申し訳なさそうに言った。

「まあ、別れたのは事実ですし、過去が消せる訳ではないですからね。

 人はそう簡単に変われないから、別れる理由を繰り返すというのは理屈に合っている。もし、みくりさんの意志でそれを調べたとしたなら、真剣な気持ちでお付き合いしたい意図が感じられます。僕では役不足だとも実感しています。

 でもね、でもね僕の都合で小夜さんの踏み入って欲しくない領域に他人が入ることをどうすることもできないことが辛いのです」

 申し訳なさそうな顔をした有美が呟くように

「望はどうしてそんなに女性に親切なの」

「誰にでも親切な訳じゃないですよ。さっきの小夜さん解釈を引用すれば小夜さんは”平等や権利を要求しないしものの道理を弁えている人”だったから好意を持ったのです。

 もっと僕らしい表現をするならば”普通”みたいな相対的表現を使う人には結構冷たいですよ僕は」

「なるほど、私はそういう基準で親切にされていたのか」

 口を挟んだのは渉だった。

「お前、なんで小夜と付き合ったんだ」

「恋愛は始まりには理由がないけど、別れには理由がある

 これじゃダメですかね」

「ダメだ」

「ならば、多分、多分ね、僕の泣き言を聞いて欲しかった。

 あなたの言っていることは的を射ていると同意して欲しかったのだと思う」


昭和63年(1988年) 神無月

 小夜と付き合うきっかけになったのは、クラスの飲み会だった。女性の絶対数が少ない理系で女性は人気者だが、現役より3歳年上で無器量、無愛想の小夜に話しかける人はいても、会話を継続できる人はいなかった。

 小夜は他の大学を中退して、この大学を再受験なったらしいが、事情を知っている学友はいない。望は最初の飲み会で奈緒と小夜がその話をしているのを偶然聞こえた程度の情報しか持っていない。

 そもそも、大学卒の社会的価値は24歳まででそれを過ぎた卒業は価値が激減してしまう。これは入学式のとき教授から聞いた。

 企業の最大の目的は利益を得ることだ。予定よりも3年以上時間を消費して大学を卒業した人の企業的評価は芳しくない。企業は大学卒業という単純な要素だけで人を採用しない。企業に利益をもたらさないものはいらないのだ。

 酷い比喩だが、20代の男性が、20歳の女性を紹介してもらうのと40歳の女性を紹介してもらうようなもので、同じ土俵ならば、40歳の女性はかなり20歳の女性より秀でたものを持っていなければ選ばれることはない。これは綺麗事では片付けられない事実である。

 小夜は既に負の要因を持っているが、失った過去を取り戻すことはできない。望は、彼女は彼女なりの今できる最善の選択をしているのだと感じた。

 望は、小夜の観察と数少ない会話から頭脳が明晰なのは解った。頭脳明晰な人と付き合いたい願望も強かった。そして望にとって小夜は自分が最も重視する身体的特徴を持っていた、クラスの中で声を掛けるとしたら小夜だろうと、春の頃から意識していた。

 クラスと言っても高校までのように組織的な意味があるわけではなく、大学では区分に過ぎない。掲示板が学校の活動を指示しているのでホームルームなどはない。クラスと呼ばれるものは、同じ時間に同じ必須授業を受けているだけの関係といっていい。この飲み会も発起人が企画したからできただけであって、わざわざ会席を設けて交流を図る理由は望には合理性を欠いているように感じた。それは下宿でかつ仕送りを受けている身分だからかも知れない。

 

 奈緒から声を掛けられた。

「今度の飲み会、小夜も参加するよ。当然望は参加よね」

「はい、謹んで参加させて頂きます」

 即答の望に奈緒は不満げな顔で

「否定しないんだ。つまらない」

「気付いていたから言ったのでしょう」

 奈緒は不機嫌そうな顔で

「隠さないんだ」

 望は真顔になって

「しあわせにしてあげられなくてごめん」

 奈緒は望の軽く頭を軽く殴った

「だ、だれがチミ(君)に」

「イテテなんだよ、からかったのは奈緒さんが先だよね」

「レディには言ってはいけない領域があるの

言ってはいけない冗談があるの」

 望はそっけなく

「なんか定義というか、日本語がおかしくない?」

 奈緒は困ったような顔をして

「なに、じゃあ望は私より小夜さんの方が美人だと思っている」

 奈緒の動揺が望にも分かった

「奈緒さんみたいに社交的で、明るくて、美人で、そこそこ頭のいい人が

彼女だったらみんなが羨ましがるだろうな」

 奈緒には予想外の言葉だったらしく、相槌が打てずあ然としていた

「でも、そしたら直ぐに勝負を挑まれる」

 奈緒はここでやっと声が出た

「どういうこと?」

「いま、すごく視線を感じない? 

 奈緒さんと僕の会話を快く思っていない男達の熱い視線を・・・

 奈緒さんは自分が思っているより、みんなから惚れられているんですよ

 僕には羽衣を盗んでまで天人と付き合う気はないんですよ」

 奈緒はおどけて頬を膨らませた

「おい望、”そこそこ頭が良い”って何よ」

「小夜さんにも花を持たせてあげてよ」

 奈緒は肩を落として溜め息をついた

「はあ、おもしろくない。望と話していると調子が狂うわ。

 来週の金曜日ね、ちゃんと空けといてよ」

「酔った奈緒さんモデルに写真撮ってみて~」

「カメラ持ってきたら殺す!」

「美人に殺されるのは僕の夢。あなたのナイフでレポートと試験から解放されたい」

 奈緒は笑いながら、わざと周りに聞こえる声で

「毒飲んで独りで死んでしまえ!!」

 奈緒が望から離れると、熱い視線を送っていた男達が奈緒に近づいていくのがみえた。奈緒は任侠映画の一場面のように、包丁で人を刺すような素振りをして、寄ってきた男達から笑いが起こる。笑いの中心には奈緒がいる。望は小夜を探したが、既にこの教室から出た後だった。飲み会の時でいいかとほくそ笑んだ。


 飲み会では小夜の来る前に望が到着してしまい、小夜の隣に偶然を装って座る作戦は頓挫した。下座に座って仕込みの本を読んでいた。仕込みの本は「唯識」。三蔵法師玄奘がはるか天竺まで求めた論蔵である。

 多くの人は三蔵法師を知っていても何のために天竺まで行ったか知らない。子供の頃テレビドラマで「愛の国ガンダーラ」という歌の歌詞が耳に残っているが、これはテレビの演出で現実とは程遠い。お釈迦様の12縁起といわれる苦の原因の8番目に「愛」があり、仏教を勉強すると早い段階で学ぶ概念である。

 仏教を学んでいない人には理解できないかもしれないが、愛には侵略的要素があると望は解釈している。例えば競技などでひどく喉が乾いたときに水を求めるような状況で、この場合“水”が“愛”を指す。宗教と言葉の定義は不毛な言い争いになるので大抵は相手の出方に合わせて、適当に話を合わせるようにしている。

 まだあの頃は、テレビやテレビを取り巻く環境が厳格で「物語」は「物語」として解釈されていたのだと思う。厳格な仏教の僧侶達も「物語」に目くじらを立てなかったようである。もっとも法律で公立学校では宗教の教育はできない約束になっているので自分で調べない限り知ることの無い話である。

 「唯識」は仏教が残した最大の功績と言っていい。但し極めて難解であり、三蔵法師玄奘のいる震旦には伝聞はしていたが正しく理解できている者がなく、玄奘は現地に行って「唯識」を学びたいと考えた。それが前人未到の長旅の動機である。

 以前小夜が読んでいる本を盗み見した。「相補性」と書かれていたようだ。それはあたかも19世紀の最後の年にプランクが発見した物理定数が新しい世界への扉への鍵となったように、小夜の心の扉を開いてくれると望は信じて疑わなかった。

 「相補性」は量子力学の父と言われるニールス・ボーアの言葉だ。ボーアは人類がおよそ100年掛かる発見を数年で見出した稀代の逸材で、その弟子たちも大きな功績を残した。

 難解な量子力学も望にとっては小夜に繫ぐ小径だった。量子力学の初等概念は予備校の講師が示してくれた上に仏教の概念とは相性がいいと仰っていた。反面当時の欧州の神教思想とは非常に相性が悪く、量子力学理解の足枷になっていたようだ。

 実際望の檀家である俗に云う禅宗や唯識論とは極めて相性がいいことは恩師の言葉の後に望は識ることとなる。難解たるが為に小夜ではなく量子力学に没頭したのかもしれない。本末転倒なのか「相補性」の言葉が適切なのか分からないが小夜と量子力学の話をしたい気持ちに望の心は満たされていた。

<つづく>

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