第2話 神様に祀り上げられた音速の貴公子

 神様に祀り上げられた音速の貴公子

 中学生の仲良しメモから既にレポート用紙を使った筆談に換わっている。紙面にはマイケルソンモーリーの実験のプロットやローレンツ収縮の式、リュートベリ定数など書きなぐった数式や図、文字で不規則に埋められていた。

「なんでこんなことになっているのか?」

 有美が小声で呟いた

「でもね、でもね有美さん。

まずは真摯に起こっている事態に耳を傾けなくてはいけないと思う」

 望は自分が”でもね”を繰り返す小夜の口癖が自分に身についていることを感じて苦笑した。そもそも有美との話に対応できる知識は、今では他人の小夜が恋人同士だったときに自分に残してくれた財産に他ならない。さらに言えば小夜がいなければ2年生に進級もできたかどうか分からなかった。有美のような美人に気後れすることなく話ができるのも、小夜と付き合った経験で培ったかけひきが生かされている。小夜だけではないが…。


 委員長は必ず最後に添える「最高の学校祭にしましょう」の言葉を以て本日の委員会は終了した。

「ねえ、望は多重世界を信じる」

 何の前触れもなく有美は呟いた。

「分かりません」

 望は無機質な返答をした

「うそつき」

「・・・」

「うそつき」

 有美は繰り返した。

「正直に話すと小夜さんが・・・

いや小夜さんとの思い出の場所に踏み入って欲しくないんです」

 以外だったのか有美は黙って言葉を探しているようだった

「・・・一生胸にしまっておくつもり」

「いつかまた付き合う人ができて、その人に聞かれたら正直に話すと思いますが」

 望は間髪入れず答えた

「じゃあ、私と付き合ったら話してくれる」

「そんな明日には到着しませんが、話しますよ。

僕は惚れた女性に嘘はつかない主義なんです」

 これも小夜から学んだことだと望は思った。小夜についた嘘はすぐにばれたし、些細な嘘さえ吐くことをなによりも嫌っていた。望は自分の持ち合わせている技量では女性に嘘をつき通せないことも思い知らされていた。

「私では不足?」

 望は有美が瞳の奥で笑っているように見えた

「”私はしばしば誰の記憶にも残りたくないと思う時があるのです”エンッオ・フェラーリが残した言葉になります」

「フェラーリって、あのスポーツカーの?」

「宝くじに当たって、フェラーリを駆っても、税金やガレージ代、タイヤにエンジンオイルといった維持費の高さに気付かされます

そして

ニキ・ラウダ

ジル・ヴィルヌーブ

ゲルハルト・バーガー

といった偉大なパイロット達が築いてきたものを

僕のような者が汚してしまうのは、性分に合いません」

 後ろにいた”あいつ”が話を挟んできた。

「昨日のセナとプロストの件どう思う?」

 ”あいつ”の唐突な発言は学生の間でも話題になっている先日のF1日本グランプリの話だ。

 マクラーレンの同僚プロストとセナはワールドドライバーズチャンピオン争いをしている。プロストはポイントを先行していて、セナはこのレースで優勝する以外にワールドチャンピオン獲得は不可能だった。

 レースは終盤、先頭を走るプロストにセナはインから強引に仕掛けたのだ。結果2台は接触し互いのタイヤが絡み合い停止した。プロストはレースを諦めたが、セナは停止した(ストール)エンジンをコースマーシャルに押し掛けしてもらい、コースを突っ切ってレースに復帰した。セナの執念はトップを走っていたナニーニを捉え、トップでチェッカーフラッグを受けた。しかし、コースを突っ切ったことがレギュレーション違反として失格となった。

 日本ではセナは神格化されていた。明らかに偏見の見える欧州で活躍する南米出身のパイロットは、活躍する日本産のエンジンを敵視する風潮と重なって多くの日本人の心を掴んでいた。しかもFIA会長バレストルを偏見を持つ者として誇張された演出者となっている。

 これは否定も肯定も難しい話だが、

 ”あいつ”は自分と有美の話を盗み聞きしながら、会話の参加を目論んでいたのだろう。不幸なセナの同情話ならば同調してもらえると考えたか、あるいは自動車部在籍の”あいつ”の純真な思いなのかもしれない。”あいつ”の信仰対象はセナであることを察した

「34週目で見るのを止めた」

 望は英語を話せるフランス人にUK人がいきなり英語で話しかけてきて会話を拒絶した話を思い出していた。

 望は、最初にセナの話をする人とF1の話はしない。通常はF1に興味のない素振りでかわすが、フェラーリの話をしているのでその手は使えない。とりたてて相手のプロストを贔屓にしている訳ではない。彼らの確執にはほとんど興味はない。ただ、ジル・ビルヌーブの死のきっかけを作ったピローニはプロストの親友であることは知っている。望みのモーターレースの歴史は深いのである。

 望の純粋な目で観察するとプロストがインを閉めて接触したことは批難されることではない。あれはセナが強引に突っ込んだだけの話だが、多くの視聴者がセナという神様の神威にたぶらかされて適切な判断をできなくなっていると理解している。誤解してはいけないのはセナ自身に問題があるわけではなく、セナを祀り上げている周辺に重大な問題がある。もはや宗教の世界だ。

「プロストにもセナにも興味がない」

 そっけなく答えた。

 宗教に係わるのは御免だ。しかもこんな重い話をしているときにF1の話などをしてくる神経構造が望には理解できなかった

「なんだ浮気か?」

 新手が登場した。

<つづく>

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