リーマン面の残像
ひとえだ
第1話 すべてもっている女
1 すべてもっている女
冬は来る。
東京で迎える冬は2度目になる。一昨年の冬は風の中、風が止むと透明な風景が広がっていた。東京では風は穏やかで風が淀む場所さえ散点する。
富樫望は浪人を経て大学生になった。入学すれば勉強が楽になるという幻想は直ぐに崩壊した。サークルの同期5人中2年生になれたのは望1人だけだった。そのうちの2人は学校にさえ来なくなってしまった。学校の常識と世間の常識が乖離していくのがまだ望の肌で感じられている。
東京で起きていることが一連の日常を繰り返す等速直線運動とするならば、この学校で経験することは同じ風景を繰り返すらせん階段を歩いているのかもしれないと気付いていた。
けだるい黄昏の下、望は学校祭実行委員に招集されている。写真部にとって展示のできる学校祭は最も重要なイベントだ。1人だけの2年生は栄誉ある特務を全うしている。
会場に1人の女性が入って来た。教室の空気が変わり会話が途切れた。理系しかない大学に女子は稀少であり、それが美貌を持ち合わせた女子に出会うのは頻度は低いはずだが、起きえない話ではない。宝くじと同じ理屈だ。
「のっぞみぃ~ 独りか?」
その美女は望に話しかけてきた。周囲が美女の発言に聞き耳を立てているのが分かった。
望は、1割程度しかいない女学生の中で相手から僕に声を掛けてくれる女性がいることに仕合わせを感じた。その女性が偶然器量好しなだけのことだ。
「半年前から独りですよ」
周囲に配慮しながら望は笑顔で答える。美女は黙って望の隣に座った
「有美さん、今日はなんで」
勧修寺有美。望と年齢は同じだが、1学年上の物理科の美女である。日本史に詳しい人なら名字で気づくだろうが藤原の本流に近い血筋である。富樫も一応は藤原北家の流れだが、大鏡で定義する通り末流である。
有美との出会いの時、名前を聞いて畏まった事が好印象だったと後から聞いた。望の家も家柄を重視する家庭だったので、この名字がどれだけの名家であるかは直ぐに分かったが、それは稀少な出来事である。昭和の小中学生や教師でさえ変わった名字の認識しかなく、子供の頃の有美は名字を冷やかされたこともしばしばあったという。望は敬語を知らない粗野な子供の映像が頭に浮かんだ。
「綾ちゃんの代役、一応私は茶道部の幽霊部員なのよ」
確かにこの委員会には2人の女性が参加していた、茶道部の部員までは知らなかった
「ご苦労様です」
「ほんとご苦労、出席していないとややこしいとかで」
突然男が会話に割り込んできた
「彼女、髪型変えた?」
望がこの男と会話した記憶はなかった。ただ写真部と自動車部は部室が隣だったので顔だけは知っていた。有美は気に入らない男とは会話をしないことは有名だったので、今ならば会話に参加できるのだろうと思ったのだろう。
「お前の感性だと小夜さんが髪を伸ばすとこんな感じになるのか?」
望は少し強い口調で答えた
「お前じゃなくて石井です」
望は不快を感じ、会話を続けることを放棄したくなった。これは今まで何度か不快をくれた人達が好む論点ずらしの手口だ。この話題の結論に対して”お前”でも”石井”でも影響は無いはずだが、定義の違う領域を同一視させて錯乱し、話の主導権を握るための手法と解釈している。
例えば
”シュレーディンガーが色魔だからそんなふしだらな博士の波動方程式を認めない”
というような考えを植えつけた上で
”シュレーディンガー方程式を使うと色魔になる”
という異常な仮説を提唱する。さらに
”女誑しだからシュレーディンガー方程式を使うのだ”
といった滅茶苦茶な仮説を被せてくる。
印象の強い表現を利用して、最初の仮説の検証を有耶無耶のままにして話を進め、本来検証しなければならない重要箇所の検証をさせないようにする手口だ。これはまるで、住んでいる家が突然壊れた、調べて見たら基礎工事に問題があった。家が立派で基礎工事の欠陥が分からなかったみたいな話である。
冷静に考えれば、物理の法則とそれを導いた科学者を同じ尺度で測定するからおかしい話になっているということだ。2X+3Y=5XYにはならないのだ。XはX同士、YはY同士のように同じ変数でないと足し引きはできないのである。
望は、世の中のおかしい話のほとんどは定義がおかしいことに気付いている。そして、優秀な法則を導いた科学者は、人格者である必用はないことも理解している。高校の数学で習った必用条件や十分条件の話だ。
神様のような人物だけが素晴らしい発見や発明をするわけではない。色々な要素が物事には係わっている。“お前”はきっとは自分同様に多くの数学や理科の問題を解いてきたと思うが、そこで得たものを人生の出来事に反映できていないことを気の毒だと思った。
望は大学生になってこういう理論構築をする人と会話する機会がなくなったが、美人と遭遇する確率同様、”起きうることはでくわすことがある”という当たり前の事実に過ぎない。この学校でもバッタとイナゴの名前にこだわる輩がいるのかと嫌味を言ってやろうかと思った矢先
「望と話しているので遠慮してもらえる!」
望より先に有美が強い口調とキツい視線を浴びせた。有美は保守思想が強い女性なのでこの会話に強い怒りを覚えたに違いないと望は思った。有美が彼女ならば自分がやらなければならない役目だった
石井は予想外だったらしく怯えた顔して二人の後ろの席に座った
「確かあいつ、望と出会う1ヶ月前にもちょっかい出してきた奴だ」
聞こえよがしは明らかだった
「まあ、有美さんぐらい美しかったらお近づきになりたいと思って声ぐらい掛けるでしょう」
「鬱陶しい」
どうやら”あいつ”は竜の髭をなで、虎の尾を踏んでしまったようだ。
こういう才媛には然るべき準備をするのが礼儀だと思う。予習なしに授業にに臨むのは有美教授に失礼というものだ。ともかく放たれた龍虎をなだめなくてはならない。
「小夜さんが髪の毛を伸ばしたら有美さんと見間違えるなら、小夜さん、喜ぶだろうな」
小山小夜。望が半年前まで付き合っていた女性だ。“おやま”と読む。彼女も藤原の血統だ、源頼朝が藤原秀郷の正統と語った家柄の裔らしい。その秀郷は平将門を討った人物である
「元カノをブスって言ってる?」
有美の怒りは収まっていないようだ
「僕は言ってもいいんですよ」
「えっ? なにそれ」
有美は意外な返答に声が上ずっていた。望は軽いため息をついて有美との視線をず目をした目をした。
「小夜さんの良ところも悪いところも含めてずっと一緒にいると誓ったから」
「重っ」
「そうかもしれない」
「否定しないんだ。って、それほぼプロポーズじゃん」
さすがの有美も驚いた表情を隠せなかった
「人は配られた手札でしか勝負することができない。とっておきの切り札を切ったけど逃げられちゃった」
「そりゃ引くわ」
望は精一杯の笑顔を作った。有美は真剣な眼差しになって
「・・・今でも別れたことを後悔している?」
望の脳裏に一人の女性が蘇った。中学2年のとき、助けてくれた女性の言葉
”サボっていないで私たちのところにいらっしゃい”
恋心に移る前に拒絶の言葉を浴びせられた。14歳の少女が言った言葉の意味を問い続けて、一つの答えが”今できることを後で悔やまないよう今やろう”ということだった。そして”今は無理だけれど、いつかこういう人と会話ができる人になろう”と誓った。
「僕は高校以降後悔したことないな、栃木県には海ないし」
「船に乗ってどうするのよ」
「宜候(よーそろー)卯の舵いっぱい」
望は有美に対して右に舵を取っていると洒落てみた
「望はさあ、もっと他にも誰かいたんじゃないの」
望は笑って
「僕には恋愛に及ぶ基準がありましてそれを満たせば簡単に惚れちゃいます
・物事を理論的に考える女性
・自分の判断基準が明確な女性
・肩書きに支配されない女性
・できれば年齢が近いこと
・・・」
望は小夜を選んだ最も重要な身体的要素を隠した。有美には話す必要はない。
有美は笑って
「もしかして私、口説かれている?」
望は表情を変えず
「人妻には手を出さない主義で」
有美は望の頭を軽く叩いて
「誰が人妻だ!」
2人が笑うと、急に視線を感じた。望と話しているのは学校で1番の美女なのである
「望はブス専?」
望は笑いながら
「小夜さんに謝れ!でも一理あるかな・・・」
望は久保紫の話を有美にしていない。意図して話さないようにしていた。紫も有美と同様”すべてもっている女”だった。有美との仲も1年半になる。もう気を遣う間柄でもないだろう
「中学の時”すべてもっている少女”と仲良くしていて、周囲から嫉妬やひがみに曝されたから、その心の傷が未だに癒えていないのかもしれません」
有美は真顔になって
「面白そうな話ね。聞かせてよ」
「そういえば、彼女ウチの大学志望していたな、順調にいけば有美さんと同期の筈だったけど、家庭の事情で別の大学に進学したんだ」
「ふ~ん。で、どこまでいったの?」
望は有美の言葉をはぐらかすことにした
「そういえば、紫さんの家には何度も行ったが、デートしたことなかったな」
「”ゆかり”さんっていうんだ、望の元カノ」
「付き合っていませんって」
「中学生の男女がしょっちゅう同じ部屋にいて何もないわけないでしょう」
「格が違います。天人に僕ごときが手を出すなんてあり得ない」
ちょうどここで委員長が話が始まった。有美は「つまらない」と小声でいった。
有美からメモを渡された
”ワタシヲクドイテミテ”
中学生の授業中交換メモを思い出して懐かしくなった。会話に付き合うことにした。しかし、どうしてカタカナなのかは分からなかったが。
”人妻には手を出さない”
”マジメニコタエテドウスル”
”有美さんの世界観が解りません”
”ワタシノコトキライナノ”
”活字に残るのはまずいでしょう”
「じゃあ、言葉で言って」
委員長が、なんでしょうかと問いかけた。有美はごめんなさい確認していましたと返答した。
望は天才の思考回路は理解できないとしみじみ思った。有美は写真部の先輩である鏑木渉と付き合っていることは周知の事実である。暇を持て余してからかっている以外には自分の頭脳では答えが出せなかった。
「委員会が終わったら思いを告げさせて頂きます」耳打ちするように手をたてて伝えた。
有美はクスクス笑って交換メモを続けた。
”ナンテイウカタノシミ”
”僕をからかって楽しんでいますね”
メモを読み取ると有美は小声で呟いた
「望が私にアインシュタインがペテン師かもしれないって言ったの、いつだったかしら?」
去年の夏休みの前だったか、望が渉に”電磁誘導”を聞いたがうまく説明できず、渉の恋人である有美が替わりに説明してもらった。このことが”有美”という大器の片鱗を知るきっかけだった。
有美はこの大学に不釣り合いな美貌だけでなく、明晰な頭脳も持ち合わせていた。その反面、有美の評判はすこぶる悪るかった、渉以外の男性との私的な会話は決してしない女性だと、誰かが話していたことを聞いた事があった。
それでも有美は“アインシュタインをペテン師と言った奴”と枕詞を着けて望に会う度、からかうように声を掛けてくれた。
11月の学祭の後、望は小夜と付き合い始めた。望は有美に出会う前から小夜に特興味を持っていて、有美を美しいとは思っても、高嶺の花である上に、信頼する渉と付き合っている女性だったから有美を女性として特別意識することもなかった。望は小夜のことも有美に伝えて相談に乗ってもらったこともあった。
さらに加えれば、望は女性の大多数は怖い生き物だという偏見を持っていたので、美女との関係に取り立てて身構えることもなかった。もっとも、美人女性への振る舞いは紫と一緒にいた頃に身に着けた作法かもしれない。そもそも電磁誘導は小夜にお近づきになるための話題として調べていたものである
「その節は大変お世話になりました」
望はその出来事がなぜかとても古い記憶に感じた。有美は不思議なことを言い出した
「ねえ、小夜さんとどうして別れたの」
「ここで話す話ではないですね」
委員長が鋭い視線をこちらに向けていた。有美は気にしていないようだった。
<つづく>
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