第34話 三間先輩


 トイレで手を洗うついでに腕まで水で冷やす。眠くなったときと同じ要領で昂った気持ちを落ち着かせようとしていると、廊下がガヤガヤ騒がしくなった。レオ先輩たちが戻ってきたのかと手をハンカチで拭いてドアに手を掛けた途端ドアノブが勢いよく回ったと思ったら、おでこに鈍い痛みが走った。



「あ、わりぃ。大丈夫か?」



 聞き覚えのある声に顔を上げると三間先輩が眉間に皺を寄せてボクの顔を覗き込んでいた。一瞬怒っているのかと思ったけど、ボクのおでこに触れて撫でている辺り心配してくれているんだと思う。



「大丈夫です。すみません、避けられなくて」


「いや、普通避けられねぇだろ、こんなん。てか、でこ赤くなってる。保健室連れてくから冷やすぞ」


「大丈夫ですよ、このくらい」



 ボクの腕を引く三間先輩に少し抵抗したけど、力が強くて抗えない。ふとボクの手を掴む三間先輩の手から腕に視線が移るとワイシャツの袖が捲られていて、鋭利なもので切ったようなまっすぐな切り傷から血が垂れていた。



「先輩こそ、血が出てるじゃないですか!」


「ん? あぁ、さっき部室の棚に引っ掛けただけだ。あれささくれ立ってて危ねぇんだよな」



 そう言って頭を掻く三間先輩に手を引かれるままに階段を下りて管理棟の1階にある保健室に連れていかれた。


 保健室には誰もいなくて、三間先輩はボクを丸椅子に座らせると手慣れた様子で冷凍庫から頭に巻くタイプの保冷剤を取り出した。それを棚の引き出しに入っていた手ぬぐいで包んでいる手つきを見ていると、やっぱり慣れていることが分かる。



「よく保健室には来るんですか?」


「ん? あぁ、俺は天文部以外にもハンドやっててさ、仲間が怪我することもあるからな。アイシングは慣れてる」



 三間先輩はそう言いながら正面からバンドをボクの頭に巻き付ける。目の前にある三間先輩の服からは甘いクッキーのような匂いが微かに香っている。



「これで良し。しばらくはあんまり動くなよ?」


「はい、ありがとうございます。じゃあ、次は先輩ですね」


「あぁ、まぁ、そうなんだけどさ」



 決まりが悪そうに頬を掻いた三間先輩はボクの前にガーゼとテープを置くと黙って顔を逸らした。



「先輩?」


「やってくんね?」


「それは、良いですけど……」



 急にどうしたんだろうとは思ったけど、ゆっくりとはいえ止まる気配がない血が服に着く前に何とかしないと。



「とりあえず洗いましょうか」



 三間先輩の手を引いて流しで幹部を軽く流すと、三間先輩の顔が歪んで眉間に皺が寄った。



「痛いですよね、でも菌が入ってしまっても嫌なので我慢してくださいね」


「べ、べつに痛くねぇよ」



 顔を赤くして否定されると、強がっているんだなと逆に可愛く思える。ついつい頬を緩ませると三間先輩に左頬を摘ままれた。



「いひゃいれす」


「可愛い、とか思ったんだろ、どうせ」


「すみません。つい」



 頬を摘まんでいた手を離した三間先輩は、フンっと顔を背けた。一応謝ったけど、三間先輩の視線が痛い。



「素直だな。ったく、ガーゼ、よろしく」


「はい!」



 2人で並んで置かれた丸椅子に座って、三間先輩が棚から出してきたガーゼで傷口を押さえてテープで固定する。これくらいならボクでもなんとかなる。



「できました」


「ん。ありがと」



 わしゃわしゃと頭を撫でられて、窓に反射したボクの頭はぼさぼさになっていた。



「先輩、ぼさぼさになっちゃったじゃないですか」


「ふははっ、良いんじゃね? 犬みたいで可愛いぞ」


「それならまぁ、良いですけど」


「良いのかよ。じゃ、そろそろ戻るか。粋に何か言われてもめんどくせぇし」



 立ち上がった三間先輩の背中を追って保健室を出る。教室の方に戻ろうと歩き始めた瞬間、前を歩いていた三間先輩が急に立ち止まったからその背中にぶつかった。



「先輩?」



 鈍い痛みが走る鼻を押さえて三間先輩を見上げると、三間先輩は眉間にシワを寄せたままボクの腕を引いて教室とは反対に歩き始めた。



「ちょっと、先輩?」



 無言のまま歩く背中から溢れるオーラが強くて背筋に冷や汗が伝う。


 そのまま管理棟を抜けて部室棟の方までボクを引っ張ってきた三間先輩は、天文部の部室の前に来るとドアノブを回してドアを引き開けた。ギィッと嫌に軋みながら開いたドアをボクが物珍しく眺めていると、部室の中を見回した三間先輩は中に入ることなくドアを閉めた。そして暗唱キーのロックボタンを押すと、しっかり鍵が掛かっていることを確認してふうっと息を吐いた。



「あの、先輩?」



 声を掛けると、三間先輩はようやくボクの腕を掴んでいたことに気が付いたようでパッと手を離した。解放された腕にやっと血が巡っている気がする。



「わりぃ、無人の部室には鍵をちゃんと掛けておかねぇと停部になっちまうから焦ってて。先に聖夜だけ帰しても良かったのにな。って、何赤くなってんだ?」



 グイッと顔を覗き込まれて慌てて顔を手で覆い隠した。日も落ちて暗くなってきたからバレないかと思ったのに、気が付かれた恥ずかしさも相まってさらに顔が熱くなるのを感じた。



「えと、学校で呼び捨てで呼ばれるのに慣れてなくて」



 思わず口籠もると、三間先輩は首を傾げて歩き始めた。あとについて行くと、三間先輩は管理棟に入るドアを手で押さえてくれていた。



「ありがとうございます」


「これくらいはべつに。さっきのだけどさ、武蔵は聖夜のこと呼び捨てにしてるだろ? ほかにいないのか?」


「いないです。クラスの友達にはあだ名で呼ばれますし、粋先輩は聖夜くんって呼びますから」


「へぇ。武蔵と仲良くなったのはいつごろなの?」


「結構最近です。粋先輩も同じくらいで、まだ仲良くなって1か月くらいですかね」



 隣を歩いていた三間先輩の姿が視界から消えたことに気が付いて振り返ると、三間先輩は立ち止まって顔を顰めていた。



「1か月であの溺愛っぷりなのかよ」


「ですね。あはは……」



 付き合っているなんてことは言えないから笑って誤魔化すと、三間先輩はボクから視線を外してがら空きの掲示板を見ていた。



「はぁ。でもなんか、意外だわ」



 ため息を吐いてまた歩き始めた三間先輩の隣りを歩く。無言で歩く三間先輩をじっと見ていると、視線に気が付いた三間先輩は口元を緩めた。



「粋って誰とでも仲良くなるけど、いっつも周りに一線引いててさ。多分粋自身が仲良くなれたと思っている相手にも無意識で壁を作ってる節がある気がすんだよ。でもあいつにも本気で向き合える相手がいるなら良かったって話だよ」


「三間先輩と粋先輩ってクラス違うのに仲良いんですね」


「ああ、レオ経由で話すようになってそれからな」



 粋先輩の顔の広さは分かっていたつもりだったけど、友達の友達の繋がりまで持っているだなんて思わなかった。それに、遠い繋がりの友達にまで心配してもらえるような愛される人柄。人として誇らしくも羨ましくも思うけど、恋人としては少し寂しい。


 別棟に着いて3階まで三間先輩と他愛のない話をしながら上っていると、2階と3階の間にある踊り場から見上げた先に人影があった。



「粋先輩! 武蔵くん!」



 ついつい駆け上がると武蔵くんに腕を引かれてその胸の中に抱きしめられた。



「聖夜、頭大丈夫?」


「武蔵くん、言い方が悪いですよ」



 グイッと肩を引かれてよろけると、今度は粋先輩に肩を組まれた。武蔵くんが粋先輩を睨んでいるから粋先輩を見上げると、すごいドヤ顔をしていた。睨みたくなる気持ちはなんとなく分かる。2人が仲良くしているときにこの顔をして見せつけられたらと考えるとむかつく。



「ちょっとぶつけちゃっただけだし、三間先輩が保冷剤巻いてくれたから平気だよ」


「蛍が?」



 粋先輩が三間先輩に視線を向けると、三間先輩はビクッと肩を跳ねさせて苦笑いを浮かべた。



「そんなに睨むなよ」



 三間先輩は粋先輩の耳元で何かを囁くと教室に入って行った。近くにいたけど何を言ったかは聞き取れなくて、粋先輩を見上げたけれどはぐらかすように微笑まれた。



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