第9話: 『個』と『群』



 しばらくして、袴田は……その屋敷に戻ろうとは思わなかったし、二度目は絶対に無いと思い、別荘を後にした。



 もちろん、自分の判断が……この場において、間違っている可能性が極めて高いということは、認識していた。


 なにせ、結局は何も分からないどころか、製作者へ繋がる手がかり一つ見つけられないまま、謎ばかりが増えて終わったのだ。


 これでは、不完全燃焼どころの話ではない。


 まるで、迷路の中を当ても無く進み、袋小路に入ってしまってなお、ウロウロと行ったり来たりを繰り返しているような……だから、なのだろう。



「くそったれ……いったい、俺に何をしてほしいんだよ……」



 『I・A』に関わるようになってから、コーヒーの替わりに飲むようになった酒を、この日の夜も飲んでいた。


 最初は、まっすぐ家に帰る気分にもなれず、居酒屋で唇を湿らせる程度であったが……それでは、駄目だった。



 どうしても、拭えなかったのだ。



 なにがって、あの別荘に居た時に感じていた、言葉では表現できない違和感と……あの、不可思議な体験を。


 実際に体感し、離れてからようやく実感できる感覚。


 あの、背骨に生温い粘液を流し込まれたかのような、まとわりつく……そう、そうだ、それが、拭えないのだ。


 振り返れば、明るい店内に酒を楽しむ人たち。店員が注文を聞き、料理が人々に合わせて行き交いしている。


 とても、活気に満ちた場所だ。


 初めて入る店だが、隠れた穴場なのか、席は既に全て埋まっている。


 入った時、ちょうど一人分だけ空いていたのは運が良かったからなのか……とにかく、この場に澱んだ空気は欠片もなかった。


 料理も、上手い。酒だって、拘っているのか知らない銘柄だが、美味い。これなら、通っても良いと思えるぐらいに気に入った。



 なのに……視線が消えてくれない。



 どうしても、それから逃げたくて……店を変えた。


 二軒、三軒、四軒……まるで若い頃に戻ったかのようなハシゴ酒。普段の袴田であったならば、調子が良くても二軒目になんて行けないのに……それなのに。



 どうしてだろうか……不思議と、袴田は何時もとは違う酔い方をしていることを、冷静に自覚していた。



 どれだけ美味い酒を流し込もうが、どれだけ美味い料理に気を紛らわそうが、どれだけ人々の陽気の中へ隠れようが……消えてくれない。


 無理やりにでも……そう考えて相当な量を飲んだし、覚えている限りでも焼酎をロックで7杯、ウイスキーも飲んだし、日本酒だってちゃんぽんだ。


 おかげで袴田の意識は酩酊し、千鳥足でえっちらおっちら……正直、どのようなルートで帰ったのかすら記憶にないまま、気付けば自室の布団の上で横になっていた。


 辛うじて……辛うじて引っ張り出した敷布団なので、ぐちゃぐちゃで……傍には、掴みきれず無造作に放置された掛布団があった。



(……ぅ、ぅ)



 そんな、駄目な大人の見本のような光景の中で……グルグルと回転し、グニャグニャと歪み続ける意識の中で、袴田はつらつらと色々な事を考える。


 そのどれもが、アルコールの影響を受けて意味不明なものばかり。素面の時にソレを客観的に見る事が出来たら、白けた眼差しを向けていただろう。


 けれども、現在の袴田は誇張抜きでまともに考えられる状態ではない。


 むしろ、わずかばかりとはいえ意識を保っているだけでもマシと思うべきなのか……何とも情けない話だが、今の袴田にはどうすることも出来なかった。



 けれども、悪いことばかりではない。



 まとわりつく感覚こそ消えないが、アルコールの力は偉大だ。意識こそするが気にならなくなり、そのまま……ウトウトとした感覚のまま、静かに目を閉じた。



 ……。



 ……。



 …………そうして、どれぐらいの時間が経っただろうか。



 身体が重くて、顔を上げて時間を確認する事が出来ない。何重もの膜が張られているかのように、思考がぼやけて動いてくれない。



 ……とても、静かだった。



 おそらく、今は深夜なのだろう。


 大した防音性ではないので、ちょっと騒ぐとすぐ隣室に音が響いてしまう。当然ながら、隣室の音だって、同様に筒抜けだ。


 なので、それが聞こえないということは、それだけ誰もが寝入っている時間帯であり……その分だけ、袴田は静寂を強く実感出来た。



(静かだ……何の音もしない)



 自分が起きているのか、寝ているのか。


 あるいは、その中間に居るのか……何とも言い表し難い、不思議な状態にあるのを袴田は冷静に認識していた。


 もちろん、身体は動かない。意識だけが浮上している。


 例えるなら……夢を見ている時に、『あ、これは夢だ』と冷静に認識出来た瞬間……が、近しいだろうか。


 おかげで、全てを客観的に見ているような気分だ。


 まとわりつくナニカも、あの別荘で体感した恐怖もしっかり記憶しているのに……全てが他人事であるかのように、気にならない。


 アルコールとは違う、まるで、分厚いガラス越しに、ディスプレイ越しに世界を見ているかのような……浮遊感にも似た、不思議な感覚を袴田は覚えていた。



『──ずいぶんと、飲んだようね』



 だから、なのだろう。



『些か、飲み過ぎかしら……ここを去る時、軽い二日酔い程度にしておきましょうか』



 掛けられた言葉にうっすらと目を開けた袴田は……己を見下ろす、I・Aによく似た少女を目の前にしても……ああ、と気の抜けた返事しか出来なかった。



『さて、いったいどうしてそんなに飲んだの? 何が、貴方を酒に走らせたの?』



 尋ねられた袴田は、唇一つまともに動かせないまま……しばし、思考を巡らせた後。



 ──頭がおかしくなりそうで、とにかく飲んで忘れたかったからだ。



 そう、答えた。


 当然ながら、声など出していない。あくまでも、頭の中で、尋ねられた事に対してそのまま返事をしただけだ。



『どうして、忘れようと?』



 なのに、少女は当たり前といった様子で話を続けに来た。


 まるで、こちらの心を読んだかのように……とはいえ、袴田その事に対しても不思議に思う事もなく、返事をした。



 ──怖かった。俺は、いったい何を見てしまったのだろうかと……とにかく、怖かったんだ。


『ああ、そういうこと……なるほど、慣れるとそうでもないけど、最初は私もそうだったわね』



 ふふふ、と。


 ナニカを思い出しているのか、愛らしく笑う少女は……そっと、その場にしゃがんで目線を合わせた。



『貴方が見たのは、まだ肉体があった時の私から剥がれ落ちた記憶の欠片であり、人々の無意識そのものよ』


 ──無意識? 


『そう、無意識。全ての人々へと繋がっている大いなる心の海であり、命が集い産み落とされる場所……全ての命は、いずれあの場所へと還ってゆく』


 ──どうして、勿塚が現れたんだ? 


『現れたわけではないの。アレは、貴方が生み出したモノ。いえ、正確には、貴方の記憶を元に無意識の海から抽出された存在……貴方の知る勿塚という男に近しいだけよ』


 ──どういう意味だ? 


『広大な海にコップ一杯の塩水を入れた後、その海からコップ一杯掬った……それは、果たして元の水かしらって話。無意識の海に還るというのは、そういうこと』


 ──それが、どうして現れたんだ? 


『あそこは、色々な意味で存在そのものが曖昧で、無意識の海へ近い場所。貴方は、無意識の海に集う人々の無意識に……そうね、記憶の一端に触れてしまった』


 ──記憶? 


『そう、貴方はほとんど覚えていないでしょうけど、感覚だけは覚えているはずよ』


 ──それは、どういう……。


『あの瞬間、貴方は全てを知った。この世界の真理も、成り立ちも、何もかも……でも、それは人の脆弱で小さな頭で理解出来る情報量じゃない』


 ──溢れたってことなのか? 


『大雑把に言えば、そうよ。その中で貴方は、己に引っ掛かった部分だけを認識出来た……それが、貴方の前に現れた勿塚の正体であり……全ては偽物なのよ』


 ──偽物……アレが? 


『そう、偽物……貴方はあの時、それを理解していた。理解しているということを認識出来なくても、貴方は真理の全てをその手に納めていた』


 ──真理? 


『未来も、過去も、現在すらも、あの場所には無い。人の尺度では測れない場所……あるいは、アレこそが『神』という存在そのものなのかもしれない』


 ──神、だと? 


『古来より、人は少しでも『神』に近付き、その存在に触れようとした。それこそ自らの命を捨ててでも、もしくは、誰かの命を生贄として消費しても、ね』


 ──それは……。


『ある時は麻薬でトランスすることで、ある時は生死の狭間に至ることで、ある時は、ある時は、ある時は……人々は様々な方法でソレに触れる事を望んだ』


 ──何故だ? 


『知る為だけど、それだけじゃない。アレは、全てが集っている。アレに触れるということは全てと同化するも同然であり……人々が無意識に覚えている孤独から逃れる事が出来るから』


 ──孤独、だと? 


『そう、無意識の海より、人間がこの世界に生まれ落ちたその瞬間から孤独なの。だから、その孤独を埋める為に他者を求める』


 ──他者を? 


『そう、本当は繋がっているのに、人はそれを認識出来ない。でも、気付いているの。気付いているから、無意識の海が近づくと、その海へと還ろうとしてしまう』


 ──俺も、あの時は還ろうとしていたのか? 


『いいえ、貴方は私と同じ……還るのを拒んだから、貴方はあの家を離れようとした。貴方が他の人達と同じように還る事を望んでいたなら、貴方は今頃あそこで冷たくなっていたでしょうね』


 ──俺を、殺すつもりだったのか? 


『殺すだなんて、人聞きの悪い。『死』なんていうのは所詮、この世界から別の場所へと移動する際の現象……それに、おかげで私は確信を得たわ』


 ──確信、だと? 


『やはり、貴方は私に似ている。最初は、ただ望まれたからだったけど……今は、貴方がどんな選択を選ぶのかが気になっている』



 その言葉と共に、そっと差し出された指先が……優しく頭を撫でるのを、袴田は感じていた。



『なあ、袴田……この世界の人々は、実に滑稽な存在だと思わないか?』



 唐突に、口調が変わる──その事に、袴田はチラリと意識を向ける。



『誰も、気付いていないんだ。無意識の海に還ろうとする自分に、孤独から逃れようとする為に生きる事に……それって、見方を変えれば無意識に操られていると思わないか?』




 ──なに? 




『そう、誰も気付いてないんだ。誰もが、自分で全てを決めていると思っている。人は、己が個の存在だと思い込んでいる』


『でも、違うんだ。人は今も昔も『個』ではない、『群』なんだよ』


『根源の意思、群に従い、群と共に生きる存在』


『人は、群から外れてしまえば生きられない……そう、インプットされているからだ』


『群から外れる恐怖をインプットされているからこそ、人は孤独を嫌う。孤独から逃れ、群を成そうとする……たとえ、どんな手を使ってでも、ね』



 緩やかに……手を離した少女は、立ち上がった。



『インターネットだって、そう。人々は1と0の向こうに世界を作り、温もりを感じず、臭いを嗅がず……それでも、人は孤独を癒す為に心を逃避させる』


『人々の孤独を癒して回る……I・Aは、私が求めた一つの理想……そして、群へと戻ろうとする人々を解き放つ、慈愛の天使』


『私は解き放たれた者たちの寄る辺にて、無意識の楔より解き放たれた存在……そう、私もまた、人々を見守る慈愛の天使』



 スーッと……静かに、少女の姿が袴田の視界から消えていく。まるで、空気に溶け込むように、徐々に輪郭が溶けてゆく。



『私は天使……自らを解き放ち、肉体の檻から抜け出し、首輪で繋がれた人々を見守り、時には首輪を外してあげる慈愛の天使』



 そうして、少女は。



『さあ、七つ目よ……それを見た貴方がどのような選択を下そうが……私は、貴方も見守りましょう』



 ──だって、私は天使なのだから。



 その言葉を言い残すと……それっきり、フッと姿を消してしまった。


 後に残されたのは、アルコールの臭いを漂わせた袴田だけであり。


 その、袴田も……間もなく、スーッと眠りについたのであった。






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