第7話: そう、願うから与えただけ



 ──無事に定年を迎えた、その日の夜……袴田の胸中を過っていたのは、空しさであった。



 定年まで勤め上げた達成感は覚えている。


 以前のまま、何も知らないままに今を迎えていたならば、哀愁と共に胸を張って警察を去れただろう。



 だが、今は違う。



 少なくとも、『I・A事件』に関わり、一時は部下であった勿塚が亡くなった今は……とてもではないが、以前のように飄々ひょうひょうとは振る舞えなかった。


 本音を言えば……どうして良いのか、袴田には分からなかった。


 あの後、突然の体調不良という理由で休みを取り(その際、年齢が年齢なので心配された)、一歩も外に出ずに考え続けたが……答えは出なかった。



 どんな答えかって、それは『I・A』に関する、これまで袴田自身が得て来た様々な情報に関してである。



 そして、どうして悩むのか……それはひとえに、情報を得るに至る経緯が、あまりに荒唐無稽であるからだ。


 実際に『I・A』の異常な行動を体験し、その指示に従って見てきたのは、袴田だ。



 しかし、警察(他人)は違う。



 袴田が知る限り、『I・A』からそういった事を言われたという話は一切聞かなかったし、言われていたらとっくの昔に別荘を家宅捜索しているはずだ。


 それに……仮に知る限りの全てを語ったとして……誰が信じてくれるだろうか……そんな疑念が、袴田の脳裏を過る。


 警察に長く身を置いたからこそ、袴田は警察のやり口というものを知っている。当然ながら、そのゲスさも。


 あの掲示板にて書き込まれた者たちに同意するのは癪だが、焦れた上層部がそういう方法を取らない保証はないというのは、袴田としても全く否定は出来なかった。


 つまり、最悪は己を『I・A事件の協力者』という立場に変えて、高齢という理由で拘留させ、そのまま適当に刑務所に送り込む……という手段だ。



 もちろん、それは最後の手段だ。



 警察としても、身内が犯行に関わっているというスキャンダルは嫌だから、相当に切羽詰まっていない限りはそんな馬鹿な方法は取らないだろう。


 しかし、言い換えれば、それがベターだと判断された時点で袴田の老後は刑務所に決まるという話でもある。



(『I・A』は、これを見越して……否定出来ないのが恐ろしいな)



 身を持って体験し続けている袴田ですら、ときおりではあるが、未だに心のどこかで『俺は、頭がおかしくなっているのでは?』と思ってしまうぐらいだ。


 実際に『I・A』から自発的(AI的な会話ではなく)に話をされたわけではなく、資料でしか知り得ていないお偉方が、信じて動いてくれるかどうか。



 ──まあ、無理だろうし、下手すると精神病扱いされるだろうな。



 結局、悩む度に似たような結論ばかりが出て来ることに、ふふっと自嘲混じりのため息を零した袴田は……ふと、部屋の隅へと目を向けた。


 そこには、何も無い。以前、そこにはポータブルPCが置かれていた。



 無い理由は、警察に返却したからだ。



 元々、『I・A事件』から捜査を外された時点で返却する必要はあったのだが、『最後まで勿塚のためにも自分なりに調べたい』という袴田の意思を汲んで、貸し出してくれていた。


 だが、それはあくまでも袴田がもうすぐ定年を迎えるからで、他にも遺留品が山ほどあるからこその、例外的な温情でしかない。


 事実、退職する際には絶対に返却するように釘を刺されていた。


 なので、定年を迎えて退職したので正式に返却した結果、袴田の手元には一切の手掛かりはなく……『I・A』に関する物はこの家からは無くなっていた。



 ……だから、という言い方も変な話ではあるのだが。



 大して面白くもないテレビの雑音と映像、握り寿司(寿司屋の持ち帰り)に、専門店の漬物、常飲しているやつよりも上等な日本酒。


 とりあえずは定年まで勤め上げた自分へのお祝いへ、ちょいちょいと箸を伸ばしていた袴田は……ふと、テレビの音意外に静まりかえった室内を見回した。



 ……警察官の証(警察手帳など)を全て返却した袴田に残っているのは、そう多くはない。


 所詮は独り身だ。昔は妻が居たが、別れてからはそれっきり女とは無縁な生活だった。



 身持ちを崩すぐらいに趣味に没頭しているわけではないし、何かしらの収集癖(つまりは、コレクター)があるわけでもない。


 そんな男が……これから、死ぬまで何かをするわけでもなく、退職金と年金を食い潰しながら、ひっそりと暮らしていくわけだ。



(……『I・A』、か)



 そんな未来を考えていると……どうしても脳裏に浮かんでくるのは、『I・A』の事であった。


 結局……色々と臭わせるようなヒントこそ与えられたが、何も分からないまま袴田は定年を迎えてしまった。


 残ったのは、何も成せなかった爺が1人。


 何も得られないまま部下を失い、捜査から外され、おまえにはもう役目など無いと言わんばかりに署を後にして……こうして、チマチマと寿司をつついている。




 ……本当に、これで良かったのだろうか? 




 そんな後悔が、沸々と胸中より湧き起こってくるのを袴田は感じていた。


 あの日、あの掲示板に触れてから、今日まで……脳天に響くような恐怖を拭いきれないせいで、『I・A』には触れていない。


 いや、正確には、『I・A』だけでなく、ポータブルPCもそうだし、残っている別荘の調査も、だ。



 直接的な恐怖ではない。



 まるで、目に見えない手が背筋を撫でていくような、表現し難い恐怖。


 自分が培ってきた常識の全てが通用しない未知の存在を前に、袴田は……正直、怖気づいていた。


 でも、こうして実際に警察官ではなくなり、この日本に大勢居る老人の内の一人になった今……ふと、思うのだ。



 ──このまま、無かった事にしてしまえば……それこそ、後悔し続ける最後になるぞ、と。



 そんな思いが、自然と……箸の動きを遅くする。


 ついにはピタリと止まり……そして、ソレに反比例するように湧いてくるのは、『このまま終わって良いのか?』という、警官としての意地だった。



「……そうだよな。俺は、刑事だ。もう、刑事じゃないけど、どんな結果が待っていようとも、真実から目を逸らすのだけは……警察官としては、駄目だよな」



 酒の力があったのは、否定しない。


 勢いに任せているのも、否定はしない。


 しかし、警察というしがらみから外れた今、メリットを失ったと同時に、デメリットも無いという事実がある。



 ……どうせ、当てもない独り身の爺だ。



 ここで投げ出してしまえば、最後までやり遂げられなかった爺だけが残る。それは、袴田にとって無視できない問題であった。


 それに……袴田の脳裏を過るのは、もうこの世にはいない勿塚のことだ。


 あの日、あの時、一瞬だけとはいえ画面の向こうに現れた勿塚の事も気になる。


 それも含めて、ここで全てを投げ出すわけにはいかない……と、袴田は思い、やるぞと気合を入れた……わけなのだが。



(しかし、どうするか……六つ目の別荘の場所が分からないのには困るぞ)



 どうしたものかと、袴田は頭を掻いた。


 というのも、これは純粋に怖がってばかりで考えないようにしていた袴田のミスなのだが……実は、行き先は毎回袴田の方から確認している。


 つまり、これまでは別荘の捜索が終わった後、次の別荘の場所と注意事項をその都度『I・A』より確認を取っていたわけだ。


 どうしてそんな事をするのかって、それは『I・A』がそうしたからだ。意図は分からないが、一つ終わらせないと、次の目的地を教えてくれなかったのだ。



 ……まあ、アレだ。



 この件で袴田を責めるのは、少々酷なのかもしれない。袴田だって、色々と心を落ち着かせるのに手いっぱいだったのだ。


 実際、五つ目を終えた後で色々と起こって『I・A』から遠ざかっていなかったら、退職日前には全部済ませられると袴田は計算していた。


 というより、退職日前に最後の別荘へ迎えるよう袴田は考えていた。


 遠出を5回もやれば、身体もその調子に慣れてくる。疲労も、以前より回復が早くなったように思う。


 袴田が何かしらの事件に携わっていたならともかく、『I・A事件』の引き継ぎなんて通常なら半日と掛からないで終わる。


 だから、最後辺りは有給も合わせてパパッと巡ってしまおう……そんな軽い考えでいたのだが、それが結果的にはよくない結果となったわけである。



 ──で、だ。



(ポータブルPCは明日にでも買いに行くとして……問題は、『I・A』だな)



 問題なのは、そこだけではない。


 実は、数日前に『I・A事件』の捜査担当者よりチラッと小耳に挟んだのだが、どうやら『I・A』の配布が終了したというのだ。


 理由は、一切分からない。


 それまでダウンロード出来ていた全ての配布サイトから削除され、予告なく『I・A』のホームページすらアクセス出来なくなった(つまり、閉鎖だ)というのだ。


 警察からプロバイダーを通じて確認を取ろうとしたらしいが、結果は変わらなかった。


 どんな手段を使ったのかは不明だがプロバイダーにすら痕跡が残っておらず、配布サイトとして利用されていたレンタルサーバーも同様に空っぽになっていた。


 担当者曰く、『契約期間はまだ残っていたが……』とのこと。


 原因は一切不明、まるで全てが幻であったかのように、本当に何一つ痕跡が残っておらず、どうにも出来ないとのことで……つまり、だ。


 もう……正攻法で『I・A』を手に入れる手段が無いということだ。


 加えて、『I・A』を利用する際には、製作者が用意したサーバーにアクセス(ここらへんは、袴田には??? であった)する必要があったのだが……それが出来なくなった。


 警察が解析した限りでは、だ。


『I・A』はそのサーバーにアクセスすることで、『I・A』に備わった機能が開放され、あの流暢な対話が行えるよう設定されている。


 なので、このサーバーにアクセス出来ない場合(あるいは、通信エラーが起きた場合)、『I・A』が表示されず、あるいは表示されても立ったまま動かない……と、なるらしい。



 で、ホームページだけでなく、そのサーバーもアクセス出来なくなった。



 どうやら、ホームページが閉鎖するに合わせてサーバーも閉じられた可能性が高いらしく……復旧の可能性は極めて低いというのが捜査本部の見解であった。


 客観的に見て、その見解は正しい。


 サーバーなんて維持費は掛かるし、何か『I・A』にトラブルがあっても、直せるほどに精通した者など非常に限られている。


 下手に第三者が相続すると税金の問題もあるし、『I・A事件』という名称が広まった事での悪影響もある。


 いずれ、サーバーの契約期間なり何なりが来たら自然消滅するだろうと言われていたが……まさか、ここまで唐突に終わりが来るとは誰も考えていなかった。


 ──だから、今では『I・A』を起動させる事は何とか出来ても、『I・A』との会話を行う事は不可能……という話らしいのだ。



(……これまでの別荘をもう一度回ってみるか?)



 唯一、今の己が出来そうな事を考えてみるが……内心、袴田は首を横に振った。


 わざわざ、他の別荘の住所を残しておく可能性は低い。そもそも普段は使用しないから、別荘というわけだし。


 とはいえ、それ以外に、今の袴田が出来る事は何もない。


 いくら顔見知りとはいえ、もはや警官ですらなくなった袴田に捜査内容を漏らしたりはしないだろうし、下手しなくても煙たがれるのは間違いない。



「とりあえず、最初の別荘から順々に回って行くか」



 ゆえに、結局はありきたりな結論しか出せなかった袴田は、明日に備えて寝る準備を始めようと座椅子から立ち上がり。



「──え?」



 直後、思ってもみなかった光景を前に、ポカンと呆けた。


 何故かといえば、それは今しがたまで映し出されていたテレビの映像が切り替わり……代わりに、1人の少女が映し出されたからだ。


 もちろん、センサーなんて触れていない。番組内容が切り替わったのかとも思ったが、そういうわけではないのがすぐに分かった。



『こんにちは、袴田さん。まだ、追いかける気持ちはあるようですね』



 だって、そこに映し出された者より、名を呼ばれたからで。



「あ、『I・A』……いや、違う」



 思わず、思った事をそのまま口に出した袴田は……直後、違うと判断した。


『I・A』より年若い姿だが、とても似ている。


 しかし、『I・A』ではない。


『I・A』よりも、もっと……袴田の語彙ごいでは上手く表現出来なかったが、決定的なナニカが違う……そう、思った。



「……お前は、誰だ?」

『言うなれば、天使。Internet Angel……そう、貴方たちが呼ぶアレの産みの親みたいなもの……いえ、ちょっと違うかな』



 ふわり、と。


 まるで、雪解け水のように、どこか清純さを感じさせる朗らかな笑みを浮かべた。



『アレは、言ってしまえば私のコピーであり、ある種の理想……そして、こちらとそちらの境を揺蕩う天使』

「天使、だと?」

『そう、天使……私は無意識の海より解き放たれた存在であり、無意識の海の寄る辺に成った唯一の存在』

「……言っている意味がわからん。とりあえず、お前は『I・A』の製作者でいいんだな?」



 率直に尋ねれば、少女は……意味深な笑みと共に軽く頷いた。



「何が目的だ?」



 それを見て、袴田は再び尋ねる。今更、眼前の少女と詰まらん問答をするつもりはなかった。



『なにって、それは貴方が知りたいと願ったから、わざわざ教えてあげようと思っただけのこと』

「なに?」

『ほら、教えてあげる……痛くはないから、安心しなさい』



 訝しむ袴田を他所に、少女の手が画面の向こうより伸びる──次の瞬間、袴田は絶句した。


 それは──まるで、白昼夢そのものであった。



『さあ、力を抜いて……怖がらなくて、いいから』



 骨、筋肉、血管、皮膚……まるで大気から精製されていくかのように形作られた小さな白い手が、袴田の頭にソッと置かれる。


 その手には、手首より先が無い。出血は全く無く、血の気が通っているかのようにほんのりと赤みを帯びている。


 断面が、陽炎のように揺らいでいる。


 確かに温かく、少女の見た目相応に小さく……それでいて、途方もない優しさを袴田は──と、思ったその瞬間。



「──っ!?」



 視界が、ブレた。


 いや、正確には、ブレたのではない。


 景色が、音が、臭いが……物凄い勢いで頭の中に流れ込んできたせいで、脳が一瞬だけパニックを起こしたのだ。



『はい、おしまい。もう、行き先は分かったでしょう?』

「──はっ、はっ、はっ」



 手が、離れる。けれども、袴田はそれを気にする余裕などなかった。



『ゆっくり、呼吸をしなさい。ちょっと驚いて転んだ程度の事だから』



 なにがなんだか分からなかったが、とにかく呼吸を落ち着かせる。


 すると、少女の言葉通り、乱れた動悸はすぐさま治まり……ものの1分と経たないうちに、袴田の身体は平静へと戻っていた。


 ……自分の身に何が起こったのか、それを言われずとも、袴田は理解していた。



「……どうして、俺にそこまでする? おまえは、俺に何をさせるつもりなんだ?」



 だから、袴田は以前より気になっていることを改めて尋ねた。


 袴田は、己が大そうな人間だとは思っていない。これまで何十万、何百万人と出ている、元警官の定年退職者の一人でしかないと思っている。



『理由なんて無い。ただ、貴方が知りたいと私に願ったから。それを、私が聞き届けた……ただ、それだけのこと』

「俺に、それを信じろと?」

『真実に、貴方の感情は関係ない。如何な理由が積み重なろうとも、真実は変わらない』



 まっすぐに向けられた視線に……袴田は、そっと視線を外した。



「じゃあ……どうして、こんな回りくどいことをするんだ」

『……質問の内容が分からない、何が聞きたいの?』

「こんな、いちいち別荘に俺を連れて行かなくても、今みたいにしてしまえば……」

『別にそれでも良かったけど、そうしたら貴方は……心の何処かで疑い続け、真実を信じきれなかったから』



 はっきりと、少女はそう言い切った。



『人間というのは不思議なもの……同じ情報でも、フッと天から与えられたモノよりも、苦労して得たモノを信じるし、価値を置いてしまう』

「それは……」

『回りくどい? だからこそ、貴方はそこまで動揺せずにいられている……違う?』



 否定は、出来なかった。


 かといって、怒鳴って誤魔化すほど恥知らずにもなれそうにない。



『……いえ、一つ訂正しましょう』



 自然と、どうしていいか分からず視線を逸らしている最中……ふと掛けられたその言葉に顔を上げれば、意味深な視線を向ける少女と目が合った。



『なんとなくですが……貴方は、私と同類なのかもしれませんね』

「え?」

『なんとなく……ええ、なんとなくですよ。貴方の内面に触れた時……ちょっとだけ、ソレを感じ取りました』

「それ? それとは、何の事だ?」

『ふふふ、言っても分かりませんよ……ふふふ、なるほど、なるほど、無意識より外れたがゆえに、それとも、少しずつ海へと近寄っているのか……まあ、どちらでもいい』



 ──ふふふ。



 ──ふふふ、ふふふ。



 ──ふふふ、ふふふ、ふふふ。



『ふふふ……お待ちしています。過去も、未来も、現在も……ここには何もない。気長に、貴方が来るのを待っていますよ』



 その言葉と共に、フッと画面から少女が消えて、真っ暗になった。


 直後、画面には……先ほどまで映っていたバラエティ番組が表示され、何事も無かったかのようにハハハハと取って付けたような笑い声がスピーカーより響いていた。




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