第5話: 事件と呼ぶにはあまりに穏やかで
本音を言わせて貰えるなら、取る物も取らずにすぐ現地に向かいたいと袴田は思った。
しかし、電話口の相手より止められた。それは相手の独断ではなく、もっと上の……事実上の上官命令であった。
まあ、どういう事かと言えば、だ。
お飾りでしかなかった『I・A事件』担当の袴田の役割は、終わった。袴田が『I・A事件』に関わる事は出来なくなった。
要は、身内に犠牲者が出た以上、警察は改めて本腰を入れ直したのだ。
なので、来月には定年する袴田ではなく、継続して捜査を行える人たちが担当し、袴田は定年まで引き継ぎ作業を行う……というい指示が下された……という話であった。
……そうなるのも、仕方がない。
静まり返った室内にて……急遽、明日の有給が無しになった(それは当然だと受け入れている)袴田は、とりあえず風呂へと向かう。
そうして、何時ものように入浴を済ませる最中……脳裏にて渦巻いているのは、今後の警察の対応であった。
と、いうのも、だ。
これまで、『I・A事件』の犠牲者は……言ってはなんだが、一般人ばかりであった。
政治界や財界のお偉方とかではない。一般市民。死人こそ出ているが、明確な事件性が確認出来ていない。
事件とするには証拠が足りなさ過ぎるけど、それで済ませるにはあまりに死者が多いから、放っておくわけにも……という、なんとも曖昧な話で事件として取り扱われていた。
だが、その死者に警察官が入るとなれば、話は変わってくる。
警察というのは、ただの公務員ではない。その国の治安を維持し、同時に、公権力の
はっきり言えば、警察はナメられてしまったらお終いなのだ。
だから、明らかに犯罪に関わっていない者ならばともかく、疑いがある者(その中でも、後ろ盾が居ない者)に対しては高圧的に接する。
それは警察という看板を守ると同時に、自分たちの身の安全を守るためでもあり……つまりは、こっちに手を出して来たなら分かっているよなという言外の脅しである。
それが、今……その脅しを無視された。
それは、ある意味では静観の構えを取っていた警察にとって、無視出来ない大事件であった。
だが、ここで問題となるのが、この事件の特異性。
問題なのは、『I・A事件』と呼ばれるこれらが全て、今まで警察が取り扱ってきた数多の事件の中にすら存在しない、未知だらけの事件であるという点だ。
単純に、強盗などに襲われて殺されたというのであれば、話は簡単だ。現場の状況や様々な場所にある監視カメラを調べ上げ、犯人を追跡して捕まえればよい。
しかし、『I・A事件』には、それが無い。
状況証拠が無い。
物的証拠は無い。
映像証拠も無い。
目撃情報だって、手掛かりになり得そうな有力な情報だって、警察は何一つ手に入れられていないのだ。
(こりゃあ、マスコミを使って『I・A』の印象操作を始めるかもしれんな)
おそらく、警察は相当に焦れるだろう……と、袴田は思った。
(……俺が知っている別荘とかは……言うべきなんだろうか?)
と、同時に……袴田は、身内が知り得ていないそれらの情報を思い返しながら……悩む。
これまで袴田が培ってきた常識で考えて、だ。
素直にこれまで袴田が経験したことを語ったところで、誰も信じてはくれないだろう。袴田自身がそう思うぐらいなのだから、周りの者たちは余計に。
それに、仮に信じて貰えるとして、だ。
1人の警察官としては、知っている全てを提出するのが筋であり正しい行為なのは分かっている。袴田が10年若かったら、即座に連絡していただろう。
しかし、今は……1人の人間として、迷ってしまう。
誰にも他言しないという約束のうえで教えてもらったのに、こちらの一方的な事情で破ってしまってよいものか……そんな迷いを、どうしても振り払えなかった。
(……よし、決めた)
だから──ザバッと、湯船から立ち上がった袴田は決めた。
(もし、勿塚の死に顔が苦しんだ末のモノだったら……全部、話そう)
そう、己に言い聞かせた袴田は……絶えず胸中より湧き起こってくる迷いを振り払うかのように、勢いよく浴室の扉を開ける。
その行き先は、冷蔵庫……つまりは、酒だ。
今日は疲れているから飲む気がないといったが、撤回する。
今だけは、飲まないとまともに眠れないと……袴田は、眠る為に酒へ手を伸ばすのであった。
……。
……。
…………そうして、翌日。
幸いにも、二日酔いにはならなかった袴田は、出て来て早々引き継ぎの人達に大まかに説明をしてから、勿塚の下へと向かった。
御家族が来ていたら、さすがに部外者の己が顔を見せるのも変な話だし、その前に……という考えからだ。
警察の遺体安置室に通された袴田は、手を合わせて黙とうをささげた後……袴田より少しばかり年上に見える監察医より、遺体となった勿塚と対面を果たした。
(勿塚……)
そこには、やはりというか、勿塚の死に顔があった。
そして、これまで見てきた『I・A事件』の死亡者たちと同じく、その顔はとても安らかなモノであった。
……いや、違う。
袴田の目から見れば、それは安らかなんて言葉では足りない。
まるで、遊園地を前日に控えた子供のように。
明日になったら凄く楽しい事が待っているぞと言わんばかりに、勿塚の顔は喜びのままに固まっていた。
血の気が下りて青白くなっている点さえ除けば、今にも目を覚まして挨拶をしてきそうに思えるぐらいに……その顔には、活力が遺されていた。
「……先生、もしかして、勿塚の顔に化粧とか施したんですか?」
「いやいや、そんなことするわけないでしょ。初めから、この顔のままでしたよ」
気になって尋ねてみれば、監察医は苦笑しながら首を横に振った。
おそらく、他の者たちにも似たような質問をされたのだろう。けれども、それも仕方がないと袴田は思った。
警察が預かった遺体にしろ、何にしろ、天涯孤独(後継人などもいない場合)の身でない限り、基本的には遺体に必要以上の処置はしない。
たとえば血が滲んでいるとか、傷口が見えているとか、そういう場合は放置するわけにはいかないので、ある程度の処置は行ってくれる。
言い換えれば、それ以上はしない。
そして、遺体を見慣れてきた袴田ですら、それ以上を行ったのではと思わせてしまうぐらいに勿塚の表情は崩れることなく、整ったままであった。
「よろしいですか?」
尋ねられた袴田は、無言のままに頷く。
すると、監察医はそっと顔に布を被せる。身体に被せたシーツの中、大量の保冷剤の位置と、身体の線がズレていないのを確認してから、遺体に向かって両手を合わせた。
……で、だ。
「後でそちらにも連絡が来ると思いますが、勿塚くんには死亡に繋がるような薬物の検知はされませんでした」
「……と、言いますと?」
「睡眠導入剤の成分が検出されましてね。まあ、胃の状態や血中濃度から確認出来た限りですと、問題視するような量ではありません」
「そうですか……勿塚のやつ、不眠症でも患っていたのか? 俺にはそんなこと、一言も言ってなかったんだが……」
促されて安置室を出た直後、袴田は監察医より、そう言われた。
それも、これまでの『I・A事件』の死亡者の中にチラホラと確認されていた話だったので、特に袴田は驚かなかった。
というか、何かしら検出されていたらもっと大騒ぎになっているはずなので、そうなっていないのならば、気にする必要はない……っと。
「そういえば、先生……勿塚の御家族はもう来られたのですか?」
ふと、思い出した袴田は監察医にそう尋ねた。
御家族が来る前にと急いできた身だ。万が一、こちらに気を使って待っているとかならば、申し訳ない。
仮に遠方に住んでいたとしても、死亡確認されたのは昨日で、今は昼過ぎ……もうそろそろ到着してもおかしくない時刻だ。
「あれ、聞いていませんか?」
「え、それはどういう……?」
だから……不思議そうに首を傾げる監察医の姿に、袴田も首を傾げた。
「勿塚くん、ほぼ天涯孤独の身ですよ。両親は8年前に亡くなっていると記録がこっちに来ていますよ」
「え?」
「遠方に血縁者が居るらしいですけど、相当に高齢らしくて……もう、自分の名前すら分からなくなっているらしいですね」
「……知らなかった」
「話した私が言うのもなんですが、そりゃあ、そうでしょう」
眼を瞬かせる袴田に、監察医は……少しばかり寂しそうに笑った。
「今の若い子って、基本的には秘密主義なんですよ」
「秘密?」
「シャイってわけじゃないんですけど……ほら、昔と違って、今はネットで隣の芝生がよく見えるでしょう?」
「あ~……SNSってやつですか」
「そう、凄いですよね。ちょっと指を動かすだけで、自分よりも凄い人たちがバーッと自分をアピールしていますから……私が今の時代に生まれていたら、おそらく秘密主義になっていたでしょうね」
「そういう、ものなんですか?」
「だって、勉強が得意だってアピールしたら、自分の10倍は勉強が出来る人たちがゴロゴロ出て来るわけで……だったら、下手にアピールしないようになりますよ」
医者をやっているからなのか、自分よりもはるかに世間の流れに精通しているように見えるその姿に、袴田は目を瞬かせた。
「疎い私の下にすら、地球の反対側で行われた昨日の手術情報が今日の朝には届いていますし、朝方起こった笑い話が夕方には世界中に広まっていますから……そういう時代なんですよ」
「噂話が広がるなんて、昔からでしょう」
「いえいえ、伝達速度が全然違いますよ。それに、昔と違って今はCGやら何やらが素人でもプロみたいに作れる時代ですから……どんな事でも、一度広まってしまえばもう取り戻せません」
その言葉と共に、監察医は振り返って……安置室を見やった。
「だからでしょうか……今の子たちの死に顔って、まるで鉄仮面でも被っているみたいに私には同じに見える時があって……」
「鉄仮面、ですか?」
「少しでも拡散されないよう、ガッチリ心を固めている……といった感じでしょうか。それが今の処世術なんでしょうけど……正直、窮屈な時代になったと思います」
その言葉の後で、監察医は続けた。
「そりゃあ、昔よりはずっと便利になりました。でも、便利になればなるほどに、その分だけ人々の間に繋がっていたナニカが壊れていっているのかもしれない……最近、そう思うのです」
「先生……」
「『I・A事件』、でしたか。袴田さん、これはここだけの話にしてほしいのですが……医者であると同時に、1人の人間として……私見を述べてもよろしいですか?」
「……構いませんよ。ここにいるのは、定年を控えた老いぼれだけです。下手に口出しして懲戒食らうのも馬鹿らしいですし……他言は致しません」
「そう、ですか……」
しばらく、監察医は沈黙した。
けれどもそれは、口を閉ざしたわけではなく……キョロキョロと周囲を見回し、人の気配を確認した後で……ポツリと、口を開いた。
「これは、本当に事件なのでしょうか?」
「……いちおう、事件として取り扱っております」
警察の立場として袴田が言えば、「ええ、分かっておりますとも」監察医は一つ頷いた。
「ですが、私は……どうしても、『I・A事件』と呼ばれる一連の死亡事件を、事件とは思えないのです」
「それは……どうしてですか?」
「私はこれまで、様々な死因によって命を落とした者たちの検死を行ってきました。ですが、一度として……これほど安らかに息を引き取っている者たちを見た事がありません」
「……否定はしません。似たような感想を、俺も覚えていましたから」
「そう、本当に苦しんだ形跡が全く無いのです。眠るように、とても安らいだ顔で……いったい、どんな手段を用いたらこんなことが出来るのか、私には想像もつきません」
──でも、だからこそ……私は思うのです。
「もしかしたら、『I・A事件』と呼ばれる、この一連の突然死は……被害者と思われている者たちが望んだ結果なのではないか……そう、私は思うのです」
「そ、それは──」
反射的に、袴田は周囲を見回し……変わらず人の気配が無いことを確認してから、ふうっと肩の力を抜いた。
「間違っても、他の人達の前ではそんなこと言わないでくださいよ。今は
「もちろん、言いません。これは何の根拠もない、私の拙い見解ですから」
「そうしてください」
「すみません、変な事を聞かせてしまいました、忘れてください」
疲れたように溜息を零す袴田に、申し訳なさそうに視線をさ迷わせた監察医は、そう言って頭を下げた。
……だが、実のところ袴田も、似たような事を考えていた。
『I・A事件』とは、そもそも事件なのか。
結果的にその人が死ぬだけで、そうなる者たちはみな……望んでそうなったのではないか、と。
それはつまり、死を望むモノに苦痛なき死を与えているだけではないか……不幸な事故の結果、そうなってしまうだけではないか、と。
もちろん、許されない行為だというのは分かっている。
警察官として考えなくとも、それだけは肯定出来ないと袴田は内心にて何度も頷く。
だが、同時に……それは、一方的なエゴではないか、とも思うのだ。
袴田が、勿塚の抱えていたナニカに気付かなかったように。
何一つ気付かず与えもしない第三者が一方的に、死ぬのだけは許さないと押し付けるのは傲慢では……いや、止めよう。
(……俺は疲れているだけだ。今は、あまり考えたくない)
深々と……我知らず吐いた溜め息にハッと我に返った袴田は、監察医に一言礼を告げると……足早に、その場を後にした。
所詮は全て、袴田の勝手な考えであり、根拠のない憶測でしかない。
だが、不思議と袴田は、言葉に出来ないナニカが頭に張り付いたような感覚を覚えるのであった。
……。
……。
…………そうして、無心に働いて、日が暮れて。
諸々の引き継ぎの為に久しぶりの残業を行った袴田が自宅に到着したのは、もう22時を回った頃だった。
帰りがてらチェーン店の牛丼屋で遅い晩飯を済ませた帰り。久しぶりに買ったワンカップ酒とツマミが入ったビニール袋を無造作にテーブルに置いた袴田は、滅入りそうになる気持ちを振り払うために、軽くシャワーを浴びる。
けれども、その程度で気が晴れるわけもない。
だって、一時期だけとはいえ、顔も名前も知っている部下が死んだのだ。これだけは、何年警察で働いていようが、慣れない。
(……この時間だと、無駄に騒がしい番組しかやってねーな)
仕方なく、というより、分かっていた袴田は、身もしないテレビ番組を眺めながら、作業的に酒を胃袋に流し込んでゆく。
酒を飲みたいから、飲むのではない。
今日も、酔い潰れるぐらいに飲まないと眠れそうにない……そう、思ったからだ。
まあ、それが効果的な方法なのかはさておき、アルコールの蓄積による効果はどんな人間であろうと現れる。
徐々に眠気を覚え始めた袴田は、そこで飲むのを止める。後はもう、放っておいても眠れると判断したからだ。
……じゃあ、寝るか。
片づけも、明日やればいいだろう……そんな調子で座椅子から立ち上がった袴田は……ふと、部屋の隅にポツンと置かれたポータブルPCへと視線を向けた。
「あ~……そうだ、これも返さないとな……」
そこで、どうしてそんな行動を取ったのか、袴田自身にも分からないことだが……気付けば、袴田はポータブルPCをテーブルに置き、電源を入れていた。
「……まあ、変わらんよな」
そして、以前と全く変わらずホーム画面より姿を消している『I・A』を見やり、苦笑と共に電源を落とそうとして……ふと、思いつく。
(そういえば……コレの持ち主は、『I・A』以外に何をやっていたんだろうか)
当然ながら、これもどうしてそう思ったのかは袴田自身にも分からない。どうせ、鑑識とかが調べ尽くしていると分かっていたが……それでも、興味を引かれた袴田はブラウザを立ち上げた。
すると、お気に入り欄に一つだけ……リンクが登録されていた。
何の考えも無く、ソレをクリック。すると、表示されたのはん本では有名なネット掲示板であり……画面には、様々なタイトルで立てられたスレッドが所狭しに表示されていた。
「……ここって、まだ有ったのか」
以前にこの掲示板を訪れた時は、ネット犯罪研修の一環であった。
具体的には、ネット掲示板を利用した麻薬取引や未成年に対する売春契約、違法物品の売買……その他諸々の犯罪行為などの取り締まり研修である。
結局、覚えがあまり良くなくて現場の方へ回ったが……まるで、タイムスリップしたかのように、そのサイトは記憶にあるままであった。
(あの時は……そうだ、一通りの使い方を教えられたっけ)
最初は上手く思い出せなかったが、しばらくカチカチとスレッドをクリックしていく内に、やり方というものを思い出してくる。
……なんとなく。
……本当に、なんとなく、理由はない。
おそらく、酒で頭が回っていなかったのだろう。
ぼんやりした思考の中で、ポチポチ、と……内蔵されたキーボードを取り出した袴田は。
「『部下が『I・A』が原因で自殺した』……っと」
そんなタイトルで……スレッドを立てたのであった。
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