私  最終章

 二月三日金曜日、午後九時二十分。


 私は居酒屋『よたろう』の暖簾をくぐった。

「いらっしゃい。こちら空いてます、どうぞ」

 私は店の主人に勧められた奥のカウンター席に座った。

「ご注文をどうぞ」

「刺身の盛り合わせと、おでんを適当にみつくろってもらえるかな。あとビールは生の大を」

 三分と待たないうちに注文の品が目の前に並べられた。たっぷりと醤油をまぶした三匹の甘エビを一度に口へ放り込み、ビールでのどの奥に流し込む。店内は七分の入りで、そのほとんどが一人客らしく静かな時間が流れている。


 カラカラと軽やかな音を立てて格子戸が開いた。

「ああ、さぶいねえ。また雪が降ってきたよ」

「いらっしゃい」

 心地よく暖まっていた空気が入り口から吹き込んだ冷気でかき乱され、おでんの鍋から白い湯気が盛んに立ちのぼる。新しい客はそのまま入り口近くの席に座るなり、店の主人に話しかけた。

「近所でなんか事件でもあったみたいだよ。さっきから何台もパトカーが走り回ってるしさ」

「でもサイレンが聞こえんな」

「それがかえって不気味なんだよ。サイレンの音を消したままで、赤いランプを回したやつがそこら中にいるんだから」


 静かな店内で交わされる会話は他の客に嫌でも聞こえる。私の右隣にいた男が話に割り込んだ。

「大きな事件だったらもうローカルのニュースチャンネルでやってんじゃないの。おやっさんちょっと映してくれや」

「おうよ、ちょいと見てみっか」

 店内奥の天井近くに据え付けられた大型ディスプレイのスイッチが入れられた。店の主人が慣れた手つきでリモコンを操作しリアルタイムルニュースのリストを表示させる。

「5番でいいよ。ローカルではそこが一番速いんだ」

 別の男が声をかける。画面はニュース番組らしいセットを映し出した。


『先月発覚した風力発電所の耐震強度偽装問題で、新たに三棟の大型風車でも偽装工作が行われていることが発覚しました』


 一分程度の取材映像に続き、ニュースキャスターが3Dの設計図を回転させながら耐震強度の解説を始めた。


「やってないなあ」

「大した事件じゃないんだろ」

 入り口の格子戸が勢いよく開けられ、三人連れの客が入ってきた。

 モニターの表示は次のニュースに移った。


『ただいま新たなニュースが入りましたのでお伝えします。本日午後七時三十分頃、T市M町の平井富夫さん宅において、妻の郁子さんが玄関前で首から血を流して倒れているのを、仕事から帰宅した夫の平井さんが発見し警察へ通報しました。郁子さんは直ちに市内の病院へ運ばれましたが、頸動脈を鋭利な刃物で切断されており、搬送先の病院で死亡が確認されました。S県警は殺人事件として捜査本部を設置するとともに、T市内および周辺の市に緊急の警戒態勢を敷きました。平井さん宅は閑静な住宅街の中にあり――』


 最初ざわついていた客達が一人、二人と話をやめ、気がつくと全員が息を詰めてテレビに見入っていた。ニュースキャスターが原稿を読み上げる声と、くつくつと煮えるおでんの鍋の音だけが店内に響いていた。

「殺人事件だってよう。M町ってここから十分てとこじゃないか」

「おいおい、うちもM町だよ。ん? 平井って聞いたことあるような――」

「知り合いかい」

「いや、そうじゃないんだが」

「平井さんって、あの中央公園のそばにある家じゃないかなあ」

 私の左隣りに座っていた五十代半ばの男が店の主人に声をかけた。

 私は皿の上で大根を二つに割り、カラシをたっぷりとぬって口に運んだ。つんと刺激が鼻から目に抜け、涙が滲む。

「あそこは子供がいないんだが、夫婦仲が良いっていうんで、近所じゃ結構有名なんだよ」

 隣の男は訳知り顔で説明を付け加える。

 店の主人はテレビを見上げながらため息をついた。

「へぇー、そりゃあますます気の毒だよなあ。うちのかみさんなんかが殺されたら真っ先に俺が疑われるよ」

 ローカルニュースはすでにつぎの内容に移っていたが、店内は身近に起きた殺人事件の話題一色に染まっていた。私は一人、話の輪からはずれておでんと刺身を平らげていった。


「お勘定頼みます」

 私が声をかけると店の主人は客との話を打ち切り、仕事の顔へもどった。

「はい、どうもありがとうございます。えーと、全部で二千三百円になります」

「ここ、現金払いでもいいんだよね」

「大丈夫ですよ」

 私は内ポケットから紙ナフキンを取り出した。中には平井富夫から受け取った三万円が入っている。この金を最初に使うのは平井の依頼を滞りなく実行できたときと決めていた。私は折り畳まれた紙ナフキンを開き、真新しい一万円札を一枚抜き取って、店の主人に渡した。

「一万円お預かりしま――おや、お客さん、この一万円札使ってもいいんですか」

「この店じゃその札は使えないのか」

「いや、うちはかまいませんが」

「なら、それでお勘定を頼むよ」

「あ、はい。じゃあ七千七百円のお返しです」

 私と店の主人のやりとりは、まわりの客の興味を引いたようで、また左隣の男が話しに入ってきた。

「おやっさん、お札がどうかしたのかい」

「ほら、見てみな。見たらちゃんと返しなよ」

 店の主人はカウンター越しに私の支払った紙幣を男に手渡した。私は釣り銭を財布にしまい、席を立った。


「おお、こりゃ福沢諭吉の一万円札じゃないか。ずいぶん久しぶりに見たなあ。こんなのがまだ新札であるんだねえ」

「そういや、いつから渋沢栄一になったんだっけ」

「たしか令和の初めの頃だったから、もう十年は経つんじゃないか」

「今年が令和十六年で、渋沢栄一に切り替わったのが令和六年だから、ちょうど十年だよ」

「よく覚えてんな」

「銀行勤務なんでね」

「なるほど」

「でもさあ、やっぱり昔の札の方が趣あるよなあ。ほら見てみな。裏だって鳳凰だぜ」


 旧札で盛り上がる客達の話を背中で聞きながら私は店を出た。夕方にはやんでいた雪が再び降り始めたらしく、歩道はうっすらと白くなっていた。

 振り返ると『よたろう』の真新しい暖簾が揺れていた。風も出てきたようだ。

 私は駅に向かって歩き始めた。すぐ脇を赤色灯を回転させた無人パトカーが音もなく追い抜いていった。

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