私  その9

 二月三日金曜日、午前八時十分。


 枕元に置いたタブレットのアラームで目が覚めた。夢を見ることもなく、九時間ぐっすり眠ることができた。

 パジャマのままでキッチンに立つ。昨夜タイマーをセットしておいた炊飯器から白い蒸気が勢いよく吹きだし、部屋にはまもなく炊きあがる白米の匂いが充満していた。セラミックスのミルクパンに水とだしパック、味噌パウダーを入れレンジにセットする。そのまま寝室にもどって、ベッドの下の衣装ケースから下着を取り出し、ひやりとした空気の中で手早く着替える。

 朝食はいつものように、納豆、豆腐とワカメの味噌汁、玉子二つの目玉焼き、白菜のキムチ、そして炊きたての白飯だ。約三十分かけて食事をすませ、タブレットに呼び出したローカルニュースを丹念に読む。今日の計画に支障をきたしそうな事件や事故はないようだ。


 時刻は午前九時三十分を少し過ぎた。トイレに入る。便座に腰掛け、頭の中で本日前半の計画を再確認する。

 まず正午少し前に平井の勤務先へ出かける。平井は十二時十五分過ぎに昼食のために部下数人と一緒に近くの定食屋へ入り、十二時五十分頃再び職場にもどるはずだ。これを定食屋の隣にある喫茶店の中から確認しておく。その後、平井の帰宅経路通りに電車を乗り継ぎ、平井宅の最寄り駅で下車。駅のコインロッカーに、平井郁子を殺した後に着替える上着とスラックスを預けておく。つぎに駅から徒歩で持ち帰り弁当の店に行く。そこに平井郁子がいるはずだ。平井郁子が立つレジで昼食用のからあげ弁当を買い、名札と顔で本人ということを確認しておく。万が一にも人違いがあってはならないから、直前のチェックをおろそかにしてはいけない。こうして二人の行動が普段と変わらないことを確認できたら、いったんこの部屋に戻り、からあげ弁当を食べ、休憩の後、ストレッチで体をほぐす。そして夕刻を待つ。

 本日前半分の最終シミュレーションはこれで終わり。

 私はすっきりとした気分でトイレを出ると、歯を磨くために洗面所の鏡の前に立った。


 午後五時、天気予報は当たったようで、雪まじり北風が窓のガラスをカタカタとゆすりだした。私は焦げ茶色のスラックスに紺色のウールのセーター、そして黒い牛革のロングコートという出で立ちで部屋を出た。コートの内ポケットにアドペーパーでくるんだ果物ナイフを忍ばせてある。ドアに鍵をかけてから手袋をはめ、毛糸のスキー帽はスラックスの尻のポケットにつっこんでおく。履き慣れないジョギングシューズのせいで歩き方が少し不自然かもしれないが、監視カメラのアラートを起動させるほどではないはずだ。


 午後五時四十分、中央公園に着いた。平井郁子はちょうどパート先の持ち帰り弁当屋を出た頃だ。あと二十分弱でこの公園の前を通過し自宅の玄関前に立つだろう。私はすっかり暗くなり人気の絶えた公園の遊歩道をゆっくりと歩いた。風は弱まり、いつの間にか雪もやんでいる。


 午後五時五十七分、平井郁子が帰ってきた。公園前の街灯の下を通過する時に本人であることを確認する。目尻の皺の脇に黒子も見えた。間違いない。ダウンジャケットを着ているがマフラーは巻いていない。好都合である。私は公園の植え込みの陰から道路に出た。約五メートル前に彼女の背中がある。私はポケットからスキー帽を取り出し、歩きながら耳を覆うところまで深くかぶった。すっと彼女の姿が視界から消える。平井宅の敷地に入ったのだ。私はそのままのスピードで後を追った。彼女は玄関のドアの前に立ち、手提げバッグから鍵を取り出そうとしていた。私はコートの合わせ目から右手を内ポケットへ差し込み、果物ナイフの柄を逆手に握った。彼女は少し前屈みの姿勢になり左手をドアのノブにかけた。私は果物ナイフをそっと抜き出しその真後ろに立った。彼女はスマートキーを取り出すためにダウンジャケットのポケットに右手を差し入れた。私は革手袋をはめた左手で彼女の口を覆い胸元に引き寄せた。彼女はドアノブをつかんだまま、こちらに倒れ込んできた。手袋越しに体温を感じる。私は右手に持った果物ナイフの刃を彼女の左の首筋に当て、首をぐるりと半周するように力を込めて手前に引いた。


 私の腕の中で一人の人間の命が消えてゆく。ああ、そして――今、命が絶えた。

 私は人を殺した。

 長年の夢がようやくかなった。

 

 私は彼女の体を仰向けにして、その場に横たえた。彼女は驚きの表情を顔に張り付かせたまま、私を見上げていた。その視線は私を突き抜け遙か上空を目指しているようでもあり、すぐ目の前の虚空を見ているようでもあった。


 彼女の体の下からゆるゆると広がりはじめた血溜まりで靴をぬらさないよう素早く後ずさる。果物ナイフは玄関脇の植木鉢の向こうへ投げ捨てた。私は門柱の陰から顔を半分だけ出し、通りの様子をうかがった。左右の見通し距離はともに約五十メートル。人影は無い。私は中央公園へ向かって右足を踏み出した。

 中央公園の公衆便所の中で返り血の有無をチェックした。黒い服装のおかげで少なくとも一目見てわかるような血の痕は無かった。このままの格好で駅に向かっても大丈夫だろう。私は腕時計で時刻を確認した。

 午後六時八分。

 平井のアリバイは成立した。

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