平井 その8

 二月三日金曜日、午前七時十分。


 平井は郁子に見送られて家を出た。最寄り駅の二番ホームの定位置で列の先頭に立ち、普通電車を一本見送ったあと、七時三十分発の急行に乗る。車内はほぼ満員。平井はいつもの吊革にぶら下がる。途中、二つの私鉄が乗り入れているターミナル駅でほとんどの乗客が下車し、平井の前の席が空く。それを見越した立ち位置なのだ。ほどよい座席の温もりと単調な振動の中で平井は自分の世界へ入り込んでいった。


 あの夜以降、郁子との会話が自然体で弾むようになった。言葉を交わすことにより、郁子に対して感じていたいらだたしさが嘘のようにぬぐい去られた。「がさつで騒々しい」と感じていた郁子の性格が、「おおらかで明るい」と心から思えるようになった。郁子と結婚して四年。新婚当初の半年間を除けば、今ほど夫婦の関係が良かったという記憶はない。

 おそらく、あの男に会わず、郁子の殺害を依頼しなければ、未だに郁子への不満をつのらせながら不毛な日々を送っていただろう。自分の夫にたったの三万円で殺されるとは夢にも思わず、毎日明るく無邪気に過ごす郁子の姿は平井の心を締めつけた。このようなことでしか郁子に対する愛情を確認できなかった自分につくづく愛想が尽きる。一方で、自分の中で何かが変わったということも感じていた。


 だが、郁子にすべてを話すことはできないままだった。仮に郁子にすべてを打ち明けても、その命を完全に守ることはできない。二十四時間郁子と行動を共にすることは不可能なのだ。また警察に事情を話したところで、おそらく身辺警護などは望めないだろう。何よりせっかく良好になりつつある郁子との関係を壊したくなかった。そんな言い訳を自分の中でぐるぐると掻き回し続けていた。


 そういえば、あの男に会ったのは去年の十一月下旬だった。今日はもう二月三日。すでに二ヶ月以上の時間が経過している。

 なぜ、実行しない?

 あの男に会ってから最初の一ヶ月は毎日毎時間、郁子が殺される状況ばかりを想像し、悶々とした気持ちで過ごし、気がつけば新年を迎えていた。だが、いっこうに男の動きはなく、平穏な日々が続いている。ときに弛みそうになる警戒感をあわてて引き締めることが多くなった。

 しかし、普通に考えれば、たったの三万円で、殺人という究極の犯罪を請け負うのは割に合わない取り引きだ。下手をすれば死刑なのである。あのときは、アルコールで判断力の低下した脳に、男の巧みな言葉がリアリティを持って迫ってきたのだが、あらためて考えてみると実に嘘臭い。


 待てよ、これは詐欺じゃないのか?

 詐欺という言葉が浮かんだ瞬間、平井にはすべてが見えたような気がした。「妻の殺害を依頼したのに、金だけ取られて逃げられました」などと警察に訴える馬鹿はいない。この詐欺に引っかかった被害者からは絶対に被害届は出されないのだ。そのことに思い至ったとき、平井は電車の中ということを忘れて、「絶対に詐欺だ」と声をあげ、近くにいた乗客たちが一斉に体を引いた。だが平井には周囲の反応などどうでもよかった。

 詐欺だ詐欺。くそっ、何で今までそんなことに気づかなかったんだろう。

 でもあの男に騙されたおかげで、俺は変わることができた。郁子との生活が変わった。そのことを思えば三万円なんて問題じゃない。そうだ、俺はあの男に騙されたんだ。わはははは。ああ、馬鹿な俺――


 午前八時七分、電車が平井の下車駅に着いた。平井は軽い足取りで改札を抜け、職場につながる地下道に降りていった。

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