平井 その7
平井は考える。
坂道のてっぺんに、ぎりぎりのバランスを保ってぐらぐらと揺れている大きな岩がある。坂の下には郁子が立っている。平井はその岩を酔いにまかせて押してしまった。岩は簡単にバランスを崩し、まさかと思うほどあっけなく坂を転がりだした。岩を押したのは失敗だった。押した直後にそのことに気づいた。
緩やかな斜面を転がりだした大きな岩は、もう平井の力では止めることができない。それは何も知らずに平和な日々を過ごす郁子の頭上に迫っている。郁子の命は岩に押しつぶされるまでの時間しか残っていない。郁子は何も知らずに坂の下で笑っている。
岩を止めることができないのなら、せめて大声を上げて郁子に危険を知らせるべきである。坂がどのくらいの長さなのか平井にはわからないが、岩が確実に迫っていることは間違いない。逃げるなら早いに越したことはないのだ。だが、平井はいまだに声を出せずにいる。郁子に危険を知らせるということはすべて打ち明けるということだ。
その声が出せない。
ならば、郁子が自分自身で頭上に迫る岩に気づくようなきっかけを、日常の何気ない素振りの中に紛れ込ませることはできないだろうか。そういえば今日の昼休み、定食屋で読んだ雑誌に、宅配の配達員を装った強盗によって主婦が殺されたという事件が載っていた。あの雑誌をそれとなく郁子に読ませてみるというのはどうだろう。いや、そんなものを読んだからといって、どうなるものではない。遠く離れた土地の事件を自分の身に結びつけることはないだろう。
やはり自分の口から話すしかないのだ。
その夜、平井は布団に入り、暗い天井を見上げながら隣の郁子に話しかけた。
「この前、ひどく酔っぱらって帰っただろ」
「うん、びっくりしたよ。よく一人で帰ってこられたよねえ」
「迷惑かけたな」
「あはは、あのスーツそろそろだめかなと思ってたからちょうどよかったかも。思いきって捨てちゃった」
「何があったのか、聞かないのか」
「そういうのって聞かれると話したくなくなるでしょ。トミさんがあんな酔い方をしたのは初めてだったけど、それだけ私が酷いことやっちゃったんだなあって、反省したのよ。あ、そういえばちゃんと謝ってなかったよね。トミさんの大切なもの勝手に捨てちゃって、ごめんなさい。わざとじゃないのよ。本当にいらないものだと思ったんだから。でも、トミさんが言ってたみたいに、旦那の大切なものもよく知らないっていうほうが問題大きいよね。これも反省してます」
暗闇の中で郁子がくっくっと鳩のような声を立てる。平井は体を横にして郁子の方を向いた。
「郁子」
「なあに」
郁子もこちらを向いたらしく、息のかかりそうな距離から笑いを含んだ声が返ってきた。平井の内部に甘く切ない気持ちが突き抜けた。
「あら、トミさんどうしたの。きゃあなになに。ちょっと、あ――」
その夜、平井は二ヶ月ぶりに郁子を抱いた。
大声で危険を知らせることはできないままだった。
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