平井 その6

 朝七時十分から平井の苦悩ははじまる。駅へ向かう道、込み合う通勤電車の中、職場の自分の席、定食屋での昼食、午後の会議の途中、帰りの電車の中。どの瞬間に郁子が殺されていてもおかしくない。いや、もうとっくに殺されていて、居間の床に冷たく横たわっているかもしれない。いったんそのことを考え出すと動悸で胸が痛くなり、下着が肌に張りつくほどの冷や汗をかく。郁子の安否はLINEで確認できるが、あやしまれないように他の用事を装う必要があるため、一日に数回までが限度だった。特に根拠はないのだが午前中はまだ大丈夫だろうという思いがあり、昼休みと午後三時頃に、夕食のメニューに関する話題にからめて安否確認のメッセージを送る。既読がなかなかつかないと一気に脈拍が上がる。


 また、職場の電話の呼び出しにも体が激しく反応した。右斜め前に置かれた電話機の赤い小さなLEDが点滅し電子音が響くと、受話器の向こうで警察官が事件を告げようとしている様子が鮮明に浮かぶのだ。

 その日も机の片隅にある電話機がカチリと音を立てた瞬間、平井の全身はびくりと跳ねて、椅子が大きく軋んだ。鳴り続く呼び出しに体は硬直し、指一本動かすことができなくなった。見かねた隣の席の太田が腰を浮かせ、大きく腕を伸ばして受話器を取った。やりとりから通常の業務に関する電話だったということがわかると、平井の体から力が抜けた。

「平井さん、最近具合が悪いんじゃないですか」

 受話器を置いた後、太田が顔をのぞき込むようにして声をかけてきた。

「ん? いや、大丈夫だよ。あ、電話どうもありがとう」

「ほんとに大丈夫かなあ」

 太田は疑わしげな目を向けたが、平井が黙り込んだのでそれ以上は聞いてこなかった。


 こんな状態で郁子が殺されでもしたら、真っ先に平井に疑いの目が向けられるだろう。だからといって、反射的な体の反応はどうなるものでもなかった。今の平井にできることは、たとえ仕事が途中であっても定時の五分前にはすべての片づけを終えて、午後六時の時報とともに職場を飛び出し、帰宅することだけだった。

 駅から早足で十五分。午後七時二十分には三丁目の曲がり角にさしかかる。中央公園の向かいに見える自宅の門灯に灯が入っていると、少し動悸がおさまる。玄関の呼び鈴を押し、ドア越しに廊下を駆けてくる郁子の足音を聞いて大きく息をつく。


 夕食の間中、郁子のおしゃべりは続く。最近、近くに引っ越してきた新婚夫婦のこと、コーラスの歌詞がドイツ語でなかなか覚えられないこと、パート先の持ち帰りの弁当屋にやってくる一人暮らしのおじいさんのこと、スーパーで特売の卵を買いそびれたこと。

 相変わらず平井は、「うん」とか「ああ」など相づちを打つだけだったが、以前のように苦痛な時間ではなくなっていた。いやむしろ、この一分一秒がかけがえのない貴重な時間となっていた。ときには話の合間にたてる郁子の笑い声を聞くだけで涙ぐみそうになることさえあった。一日の出来事をひとしきり話すと、郁子は夕食の後かたづけに取りかかる。平井は楽しげに洗い物をする郁子の背中を見ながら、深いため息をつく。少なくとも明日の朝までは、郁子の命が奪われる心配は無い。だがその後は、平井のアリバイが成立する時間帯――家を出てから夕方帰宅するまでの間は、もどかしさと苦しみを抱えながら過ごさなければならない。


 布団に入った平井は目を閉じ、明日を思い、再びため息をつく。

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