平井 その5

 喫茶店を出た平井は、一時間近く歓楽街の中を歩きまわったが、結局男を見つけることはできなかった。ただ体が冷え切ってしまっただけであった。かといって、そのまま家に帰る気にはなれず、再び『よたろう』の暖簾をくぐった。客は六分の入りになっており、カウンターの中から、「お好きなところへどうぞ」と声を掛けられた。


 店の主人は平井の顔を覚えていないようだった。平井は先ほどと同じ奥の席に座り、またおでんとビールを注文した。客の数が少なくなったせいか、店内の空気が幾分ひんやりとしたものに感じられ、熱燗にすればよかったと後悔した。

 それでも徐々に体が温まってくるにつれて、半ば錯乱状態にあった気持ちも落ち着き、一時間前の出来事を冷静に思い返すことができるようになってきた。

 いったい何だったんだ。あの男は俺に何の話をしたんだ。そもそもあの男は何者だ。三万円ってどういうことだ。


 客が一人、勘定を済ませて店を出た。屋外の冷気とともに、パトカーのサイレン音が店内に流れ込んできた。

 何か事件でもあったのかな。

 一呼吸置いて、平井の頭に丸い笑顔が浮かんだ。

 郁子! 

 そうだ、こんなところで酒を飲んでいる場合じゃない。今、あの男は、郁子を殺しに向かっているかもしれないのだ。平井は財布から千円札を三枚抜き出し、店の主人に押しつけるように渡すと、釣りももらわず店を飛び出した。人通りはまばらになっており、全力で走ることができた。

 だがそれは無茶な行動だった。平井はもともとアルコールに強い体質ではない。二分と走らないうちに猛烈な頭痛に襲われた。動悸と同じリズムでガンガンと頭を内側から殴られているようだった。たちまちスピードが落ち、リタイア寸前のマラソン選手のような歩みになった。吐けば少しは楽になるかもしれないが、適当な場所が見つからない。掻き乱された平衡感覚と、間歇的にこみ上げてくる嘔吐感に何度も立ち止り、いつもの倍以上の時間をかけて自宅近くの中央公園にたどり着いた。

 そこまでが限界だった。

 ベンチの脇にひざを突き、吐いた。アルコール混じりの胃液が喉の奥からせり上がってくる。食道が焼け、胃が裏返りそうな苦痛に涙がにじんだ。俺はいったい何をやっているんだ。これでもし、郁子の身に何かあったら、俺は――

 平井は苦い胃液の糸を垂らしながら、青白い水銀灯に照らされ一人背中を波打たせた。


 やっとの思いで自宅の前にたどり着いたときには、体を支えるだけの力も残っていなかった。なんとかノブにしがみつき、ぶら下がるようにして開けたドアの隙間から玄関へ倒れ込む。

「トミさん、どうしたの? 大丈夫?」

 靴箱に体をぶつけた音が家中に響き、郁子が居間から飛び出してきた。

 郁子――生きていた。

 平井はその場にしゃがみ込んだ。泥だらけのスラックス。吐瀉物で胸元の汚れたカッターシャツ。いつの間にか右肘の部分に鉤裂きのできたスーツ。一瞬で玄関に立ちこめるアルコール臭。

 郁子は平井の惨状を見ると、素早くバスルームに向かい、湯を張った洗面器とタオルを持って戻ってきた。かたくしぼった熱いタオルで平井の顔をぬぐい、上着とシャツを脱がせ首から胸をゴシゴシとこする。

「ほら、トミさんちょっと辛いだろうけどがんばって立ってね。ここで寝ちゃったら風邪ひくよ」

 郁子は平井の左腕を肩に担いで無理矢理立たせると、引きずるように居間へ運んだ。郁子の手は熱を持ったように温かく、そして柔らかだった。母親に包み込まれているような安堵が全身に広がってゆく。その後、居間のソファーに寝かされるところまではなんとか意識があったが、パジャマを着せられ毛布をかけられたあたりから平井の記憶は途切れた。


 翌朝、平井は郁子に肩を揺すられ目を覚ました。

「はい水。今日は仕事どうするの? 休むなら、そろそろ連絡入れなきゃだめでしょ」

「――行く」

 眩しさに涙が滲んだ。同時にカチッとスイッチが入ったように昨夜の記憶が鮮明に蘇った。

「あ、そう。じゃあ、早く顔洗ってね。あっつーいお味噌汁つくっといたから、それ飲んで頭すっきりさせなさいな」

 郁子はスリッパの音をぱたぱたとたててキッチンへ戻っていった。

 平井は二日酔いの頭痛を覚悟して、ゆっくりと上半身を起こした。昨夜のうちにすべて吐いたせいか、頭の芯にかすかな痛みを感じるだけですんだ。わずかではあるが食欲もある。

 洗面所の冷たい水で顔を洗い部屋に戻ると、テーブルの上には、白い湯気を上げる味噌汁と粥、玉子豆腐、梅干しが並んでいた。


「いただきまあす。ほら、急いで食べれば軽くシャワーするぐらいの時間はあるよ。着替えは脱衣所の方においてあるから、てきぱきやりなさい」

 平井は郁子の顔をまともに見ることができなかった。

 いつもなら、「朝からうるさい」だの、「口にものを入れて喋るな」だの、ぶつぶつ文句を垂れているところだろう。しかしそんなことが言えるわけもなく、平井はうつむいたまま黙って食べ続けた。郁子はそれを二日酔いの体調不良のせいととったのか、不審に思う素振りも見せず、いつもの調子で、食べ、話し、飲み、そして笑った。

 平井はシャワーを浴び、新しい下着を身につけ、身支度を整えると、逃げるように家を出た。

「ちょっとは走らないと電車に遅れるよー」

 郁子の声を背中に受け、平井は足を早めた。

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