平井 その3

 平井は男に寄りかかりながら、歓楽街の雑踏の中を力の入らない体のままで歩いていた。男は平井の体を半ば抱えるようにしながらも、すいすいと人の間をすり抜けてゆく。平井は奇妙な安心感に包まれて、男に身を任せながら郁子に対する愚痴を垂れ流し続けた。

「あなたのお気持ちは痛いほど伝わりました。そこで、提案なんですが、あなたの奥さんを殺してしまう、というのはどうでしょう。なんなら私がお手伝いしますよ」

 郁子を殺す? そうか、殺すのか。

 平井のアルコールで痺れた脳味噌は、殺すという言葉に微かに反応したが、不思議と拒絶の気持ちには発展しなかった。男は平井が何も応えないことなど気にする風もなく語り続ける。


「二人でじっくり考えましょう。奥さんを殺すかどうか? こんな決断は人生の中でそう何度もするものではありませんからね。

 たとえばテレビのニュースで主婦殺害って聞けば、あなたはどう思いますか。犯人は誰かってことですが。そう、ほとんどの人は夫が怪しいんじゃないかと疑いますね。それは警察だって同じことです。そして徹底的に調べられます。もちろん犯人でなければ問題ないわけですが、実際に奥さんを殺していたとなるとまず間違いなくアウトでしょう。

 警察の捜査というのは一般の人が考える以上に緻密で科学的に行われますからね。素人が思いつきで偽装工作やアリバイ工作をしても、まず百パーセント見破られると思ってください。むしろよけいなことをすると、不自然さが際だって逆効果になります。夫が妻を殺すというのは非常にリスクの高い犯罪なんです。

 ところが第三者に殺人を依頼すると、ずいぶん事情が変わってきます。あなたと私のように過去に全くつながりのない関係ならば、必ずうまくいきます。今回の場合、あなたが主犯で依頼主、私が実行犯ということになりますが、もちろん二人とも警察に捕まるようなことはありません。その理由を今からお話ししましょう」

 男は歩くスピードを落とし、平井の腕の位置を調整した。平井は痺れかけていた右腕が楽になり、ふうと息をついた。


「まず実行犯である私の立場から説明しましょう。

 注意すべき点は二つあります。第一は殺人の現行犯でつかまらないこと。その場で捕まってしまったらお話になりませんからね。二つめは依頼主、つまりあなたのアリバイをなくしてしまわないことです。理由は説明するまでもないでしょう。

 ちなみに私自身のアリバイについては全く気にする必要はありません。アリバイが必要になるのはあくまでも事件の捜査線上に浮かんだ人物だけですからね。殺された奥さんと一面識もなく利害関係もない人物が疑われる可能性はありません。依頼主であるあなたが私の存在を口にしない限り、私は絶対に安全なんです。これは非常に大切なことですから忘れないでくださいね」

 男は平井の顔をのぞき込むと白い歯を見せた。

 平井は黙ってうなずいた。


「つぎに、あなたの立場から考えてみましょう。当たり前のことですが依頼しただけで実際に殺人を行っていないのですから、あなたには本物のアリバイがあります。もちろん殺人に関する物的証拠もありません。目撃者も出てきません。

 ただし動機はある。本人はばれていないつもりでも、まわりの人間に薄々感づかれている可能性はあります。そういう情報はほぼ間違いなく警察の耳に入ります。

 そう、あなたの唯一の弱点は動機があるということだけです。これを心の中に抱えたまま警察による事情聴取を乗り切るのが大変です。受け答えの態度や無意識に発した言葉から警察に怪しまれるんじゃないかと精神的に不安定になるんですね。そんな時に警察にかまをかけられるとよけいなことを言いかねない。これがこわい。

 いったん警察に疑いの目を向けられるときついですよ。厳しい追及を受け、言動の矛盾を指摘されるうちに、『実は殺し屋を雇いました』なんて白状してしまうかもしれない。そうなったら、せっかくのアリバイも関係ない。あなたは立派な殺人犯です」

 殺人犯? 俺が殺人犯だって?

「ちょっと待ってくれ。俺は警察の取り調べを乗り切る自信なんてないぞ。結局あんたに頼んでもリスクは大きいんじゃないのか」

 平井はあわてて抗議した。いつの間にか殺人の依頼主であるような気持ちになっていた。


「まだ話の途中です。もう少しで終わりですから最後まで聞いてください。言いたかったのは、あなたの動機が唯一の弱点だということです。

 金で殺人を請け負うという者は私以外にもいるでしょう。そういう人物に依頼し、これまで説明したような点に注意すれば、動機以外の問題は解消できます。ところが私の場合は、『殺したい』という動機ごとあなたから譲り受けます。ですから、あなたは下手なお芝居をする必要がありません。素直に警察の事情聴取に応じればいいのです。

 アリバイはある、証拠はない、動機もないのですから、あなたが容疑者になることはあり得ません。依頼主が疑われなければ私も絶対に安全です。今回は幸いにもネットを介さず、こうして直接やり取りをしていますから、通信事業者の記録にも痕跡は残りません。おそらく警察は通り魔的な犯行と見るでしょう。もしかすると奥さんの交友関係から別な容疑者を見つけてくるかもしれませんがね。私たち二人にとっては後の展開はどうでもよいのです。願わくば、罪のない人が冤罪で殺人犯などにされず、事件が迷宮入りしてくれることが最善の結末ですね。

 えっ、あなたから私に動機を受け渡す方法ですか。残念ながらそのことについて具体的にお話しすることはできません。動機とは心の問題です。あなたがその方法を知らないからこそ受け渡しが可能となるのです」

 男は立ち止まり、平井の前に回り込むとくるりと振り返った。灯の入った色とりどりの看板が逆光となり、男の表情は読みとれない。


「さて、どうします。私に依頼されますか?」

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