平井 その2

 胸の内で吹き荒れる激情は一向に収まらず、平井は頭を抱えたまま立ち上がると、居間の中をのしのしと歩き回った。だがその行動に沈静の効果はなかった。平井はスーツの上着に再び袖を通し玄関で靴を履いた。背後で郁子の声が聞こえたがかまわずに外へ出た。帰宅したときよりも、かなり気温が下がっている。夜目にも吐く息が白く、防寒着なしではいつまでも戸外にいられない。平井の足は自然と駅前の歓楽街の方へ向いた。シャッターの下りたビルとビルの隙間に『居酒屋 よたろう』という看板を見つけて、くすんだ赤地の暖簾をくぐり、曇ガラスのはまった格子戸をがらがらと開いた。


「いらっしゃい。奥へどうぞ」

 コの字型のカウンターだけの店内は、すでにほぼ満員で、左奥にあるトイレに近い席しか空いていなかった。平井は着ぶくれした客の背中と壁の間をすり抜けて、カウンターの端に陣取った。

「ビール」

「あいよ、ビールね」

 中瓶と濡れたガラスコップがトンと平井の前に並べて置かれた。平井はアクリル板越しに周囲を見渡し、ほとんどの客がおでんを食べていることを確認すると、「おでん、適当に見繕って」と声を掛け、冷えすぎたビールをコップに注いだ。

 ほどなく、大根、ちくわ、コンニャクが盛られた皿がきた。

 大型の換気扇が回ってはいたが、カウンターの中の厨房から沸き上がる湯気と、入り口の脇に置かれた石油ストーブによって、店内には蒸れた熱気が充満していた。体の芯まで冷え切った平井には心地よいぬくもりだった。時折客の出入りがあり、その都度吹き込む冷えた外気によって、厨房からの湯気が盛大に逆巻いた。

 平井は店内の様子をぼんやりと観察しながら、ビールを飲み続けた。注文をしたものの、おでんの皿に箸をつける気にはならず、初めは白く透き通っていた大根が縁の部分から濃い飴色に変わりはじめていた。


 今朝のゴミ出し、夕食のサンマ、大切なコレクションへの仕打ち。三つ出来事が延々と頭の中で再生され続け、テーブルの上に置かれた二つのポケットティッシュの映像が浮かぶ都度、感情の内圧が急カーブで上昇する。わざとらしくテーブルの上に置きやがって。舐めやがって。馬鹿にしやがって――

 大声で叫び出す寸前にコップの中身を一気に飲み干し、その冷たさで思考のループを無理矢理断ち切る。そうするうちに開けたビール瓶は三本となり、四本目を注文するときには言葉が少しもつれた。

 平井は結局おでんに一度も箸をつけず、四本目のビールもコップに一杯分を飲んだところで店を出た。


 店内で蓄えたぬくもりは、格子戸を後ろ手に閉めた次の瞬間に奪い去られた。同時に酔いも醒めたような気がしたが、体に巡っているアルコールが抜けたわけではなく、踏み出す一歩一歩がふわふわと頼りなかった。見上げた空に星はなかった。雲が出ているのか、自分の視力が曇っているのかさえわからない。

 俺はなんでこんなに酔っぱらってるんだよう。

 家に帰る気にはならなかった。だがこの薄着では長く屋外に入られない。でも、もう酒はいらない。

 今の平井には、行き場がなかった。


 肩に何かがぶつかった。すうっと、どこかへ引き込まれるような感覚の後で、左腕と腰に衝撃がきた。びくともしない固い何かが体の左側にあった。

「すいません、大丈夫ですか」

 遠くから頭の上に人の声が降ってきた。白っぽいスニーカーの先端がすぐ目の前に迫り、肩から背中に腕を回され強く引かれた。

 平井はようやく自分が転倒したということに気がついた。

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