私 その2
まずは殺す人――ターゲットを絞り込むことから始めようか。
候補は多い方がいい。となれば、大勢の人が集まる場所へ出向くのが効率的だろう。
私は仕事の帰りに、市内一の歓楽街がある駅で途中下車をした。夕刻の歓楽街には雑多な人間がひしめいていた。ネクタイの曲がったサラリーマン、気勢を上げる学生の集団、塾通いの小学生、デパートの紙袋を下げた老人。
私は人波に身を投じ、流れに逆らわずに歩いてみた。この中に私に殺される人間がいるのだろうか。そう思うだけで全身に鳥肌が立つ。夢とは違う現実感がかえって私を夢見心地にさせる。
現実の世界で人を殺せば、殺人罪という犯罪になる。殺人罪に対する最も重い刑罰は死刑である。死刑という刑罰には、犯罪の抑止効果という意味合いもあると聞く。
しかし、世に殺人事件は溢れている。
自分の死と引き替えになるかもしれない、というリスクがあるにもかかわらず、人は人を殺す。怨恨、痴情のもつれ、金銭のトラブルなどが動機になるらしい。
怨恨? 痴情のもつれ? 金銭のトラブル? 私から見ればどれも非常に不純な動機である。人を殺さなくても、これらの問題を解決する方法が存在するからだ。
人を殺したい。
これこそが純粋な動機だ。人を殺したいという願望は、他の代償行為で満たされることはない。他者の命を奪うという究極の行為に取って代われるものなどこの世には存在しないからだ。
ひゅうと音を立てて一陣の風が通りを走りぬけた。
その冷たさで我に返り、どっと押し寄せる現実世界の濁流に再び呑み込まれる。
耳にイヤフォンを突っ込み背中を丸めて歩くにきび面の若い男がいる。つないだ手をブランコのように振りながら笑い合うカップルがいる。歩道の脇に立ち止まり腕時計を確認している中年の男がいる。たくさんの人がいる。誰もこの瞬間、自分が殺されるかもしれないとは思っていないだろう。
でも、今ここに殺意とナイフを持った人物が一人いれば、すぐにでも手近な人間を殺せるのだ。
なんという無防備な社会。
私の周りには、いつ殺されてもおかしくない人、人、人、人、人。
でもこんなに大勢の人はいらないんだ。私にとって必要なのは一人だけ。
そう、殺すのは一人でいいんだ。あの人でも、今の人でも、さっきの人でも――
だめだだめだだめだ。
こんなことをしていても見つからない。私は人混みを掻き分け、流れの外に出た。
息が。酸素が。
立ち眩みで体が右に傾いた。その時、背中に何かがぶつかってきた。振り返ると、男が一人、アスファルトの上に倒れていた。
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