平井 その1

 十一月二十五日金曜日の朝、平井富夫が通勤用の鞄を片手に玄関を出ようとしたとき、妻の郁子が台所から声をかけた。

「トミさん、悪いけどゴミを出してくれる」

「ああいいよ。裏のやつだな」

 家の裏手に回ると、勝手口の脇に半透明のゴミ袋が一つ置かれていた。平井が袋を持ち上げると、中でガチャリと音がした。

「郁子っ、ちょっとこい」

「どうしたの」

 平井の呼びかけに郁子はのんびりとした口調で応え、勝手口のドアから顔をのぞかせた。

「ゴミ袋の中に割れ物が入ってるぞ」

「ああそれね、昨日お茶碗割っちゃったの。内緒にしとこうかと思ったけどばれちゃったわね」

「ちがう、そういうこと言ってるんじゃない。割れ物と普通のゴミは一緒に出しちゃだめなんだって。確か先月も同じこと言ったはずだ」

「でも、それちっちゃいし、一つくらいならいいんじゃないの」

 この瞬間に平井は耳の奥がカッと熱くなるのを感じた。

「だめだ! 何で当たり前の決め事を守らないんだ。みんながそうやって、私ぐらい、少しぐらいって気持ちでいるから――」

「はいはい、わかりました。ごめんなさい。朝からそんなところで大きな声出さないでよ。ご近所にまる聞こえじゃない」

「だったらどうして最初からきちんとやらない。ちゃんと分別し直して出しておけよ」

 平井は大げさなため息をつき、ゴミ袋を郁子の手に押しつけた。


 昼休み、会社近くの定食屋で、注文した焼き魚定食を待ちながら、平井は今朝の出来事を思い返していた。客観的には郁子に非があるだろう。だが、あの程度のことで声を荒げてしまう自分の狭量さに気持ちが沈んだ。

 平井は現在三十二歳。二つ年下の郁子と結婚して四年になる。子どもはいない。仕事は中堅の食品メーカーの経理担当で、日常生活にこれといった不満はない。ただ最近、郁子のちょっとした言動に苛立つことが多くなったと感じていた。平井は自分自身が几帳面すぎるということは自覚している。だからこそ、自分とは正反対の大らかな性格の郁子に惹かれ、一年の交際を経て結婚を決意したのだ。

 天真爛漫という言葉は郁子のためにあるんだと思っていた。何かといきり立つ神経が郁子の笑い声で癒された。なのに最近は――どうしてこんな風になってしまうのか。

 性格の不一致という言葉が頭を掠める。その先にある展開にまで想像が及びそうになり、平井は思わず頭を振った。とにかく、俺たち夫婦は今、良くない時期らしい。平井は一つため息をついた。

「お待たせしました」の声と同時に、まだ脂がぷちぷちと音を立てているサンマの塩焼きが目の前に置かれた。その左にはもうもうと湯気を上げる大盛りの飯、右には角の立った冷や奴、手前に油揚げとワカメのみそ汁。憂鬱な気分のままなのに、胃の奥から猛然と食欲が湧いてきた。平井は割りばしを丁寧に割り、先端をみそ汁に浸した。つやつやと輝く白飯に箸を突き立て、熱い一塊りを口の中に放り込む。続いてサンマの身をほぐし、みそ汁をすすり込み、冷や奴で口の中を冷やす。

 気がつくと十分足らずで昼食を終えていた。空腹が満たされると、先ほどまでの悲観的な気分が嘘のように拭い去られた。こういうところが、動物的に思われて、平井は自分自身が気に入らない。気に入らないが、救いでもある。

 気分が上向きになった平井は、今日が給料日であることを思い出した。

 このあと銀行で小遣いを下ろして、退社後は気分直しに古書店巡りでもするか。

 平井は帰宅途中にある駅前の古書店街を思い浮かべながら、伝票をつかんでレジへ向かった。


 いつもより一時間ほど遅い帰宅だったが、電話を入れていたため、食卓の上にはできたての料理が並んでいた。

 サンマの塩焼き、風呂吹き大根、ワカメと油揚げのみそ汁――

「ほら見て、このサンマ。こんなに大きくて脂がのってて、一匹二百円だったのよ。さあ、食べましょ」

 一瞬、言葉に詰まった。やはり、今は良くない時期なのだと平井は自分に言い聞かせ、頬を引きつらせながら郁子に笑いかけた。

「美味そうだな。じゃあ、いただきます」

「うん、いただきます」

 平井はスーツの上着を脱ぎ、ネクタイをはずしただけの服装で食卓についた。結婚当初、郁子はカッターシャツが汚れる、落ち着かないなど不満を漏らしていたが、平井は独身時代からの習慣を替える気はなかった。食事の後はすぐ風呂に入り、パジャマに着替える。食事の間のためだけに、部屋着に着替えるのは無駄である。平井の言い分に、郁子は納得していないようだったが、二ヶ月もすると諦めたようだった。


 一方、郁子の要望で、食事中はテレビをつけない。こちらは郁子が幼少時からの習慣だからと言って、一歩も譲らなかった。食事中は、家族の――子供のいない平井達にとっては夫婦の会話の時間であるということだった。今夜も早速、昼間に見たワイドショーの話題、節約の効果が出て先月の水道料金がかなり下がったことなど、郁子のおしゃべりは何の脈絡もなく続いた。どれも平井にとってはまるで興味のない話題ばかりで、適当な相づちを時折入れるだけだ。これでも「夫婦の会話」と言えるのかという疑問を覚えるが、郁子が満足しているのならあえて野暮なことは言うまいと、食事に意識を集中させた。

 それにしてもこのサンマ、昼の定食屋のものと比べても見劣りのしないサイズだが、あまり美味くない。プロと主婦の焼き加減が違うのか、それとも俺の精神状態のせいなのか。

 話を続ける郁子の姿を視界の隅に置き、平井は機械的に夕食を口に運び続けた。


「郁子っ、二階の押入にあった雑誌はどこにしまったんだ」

 夕食の後、階段を駆け下りた平井は、鼻歌を歌いながら洗い物をする郁子の背中に向かって、噛みつくように怒鳴った。

「あの古雑誌のこと?」

 振り向きもせずに答える態度が癪に触った。それ以上に、「古雑誌」という言葉に嫌な予感がした。

「二十冊くらいきちんとそろえて積み上げてあっただろ」

「そこのテーブルの上にあるでしょ」

 郁子が肩越しにあごで指した先には、ポケットティッシュが二つ重ねて置かれていた。


 まさか、冗談だろう?

 だが平井は知っている。郁子は悪ふざけの冗談は言わない。

「なんかねえ、新聞の方がお金になるんだって。一応雑誌も回収はするけどこれで勘弁してくださいってさ。トミさんそれ、会社行くとき持っていけばいいのよ。駅のトイレ、紙がないこと多いんでしょ」

「おい、郁子。こっち向け」

 平井は自分の声が震えているのをはっきりと感じた。

「何よ、忙しいのに」

 郁子は水を止め、エプロンで手を拭きながら振り向いた。

「あれだけ、俺の本を勝手にさわるなって言ってあったのを、忘れたのか」

「あら、いらない本じゃなかったの? でもね、大切な本ならさ、ちゃんと書棚があるんだからそこに仕舞ってくださいって、いつも言ってるでしょ。押入の中の、しかも古新聞の横に汚い雑誌が積み上げてあったら、誰だって廃品回収に出すやつだと思うわよ」


 平井は大声でわめき散らしたかった。だがそれでは母親に叱られた子供の反応と変わらない。安っぽいプライドが感情の爆発を一歩手前でふみとどまらせた。平井はゆっくりと一語ずつ区切った言葉を絞り出した。

「俺の趣味を、知らない奴が、そう言うのなら勘弁してやる。結婚して、四年も経って、そんな言い訳が、通用すると、思ってんのか」

「だから、そんなに大事にしているならもっときちんと整理しなさいよ。この前だって部屋の隅に置きっぱなしにしていた本の山からうじゃうじゃ虫がわいてきたじゃない。あれ、誰が後始末したと思ってるの? 人のこと責める前にまず自分がやることきちんとやってよね」

「問題をすり替えるな。お前は、あの雑誌を、俺が大事に集めている物だと知っていながら捨てたんだ。見せしめのつもりか? くそっ、やり方が陰険じゃないか」

「はいはい、ごめんなさい。今後一切あなたのお部屋には入りません」

 郁子は大げさにうんざりといった表情をつくって、再び洗い物に取りかかった。平井はテーブルの上に置かれた湯飲み茶碗を郁子の後頭部に投げつけそうになるのを必死にこらえた。奥歯がギチッという音を立てる。このまま郁子の背中を眺めていたらどうなるかわからない。平井はダイニングキッチンを出て、隣の居間に移った。照明は消したままでソファに腰を下ろし、膝の間に両手で抱えた頭を埋め込み、息を詰めて感情の嵐が去るのを待った。


「トミさん何やってんの。まだ怒ってんの? 子供じゃないんだからいい加減にしてよ。早く機嫌なおして、お風呂入ってね。冷めたら沸かし直すのによけいなガス代かかるんだから」

 郁子は顔だけを居間の中に突き出してそう言うと、階段を軋ませて二階へ上がって行った。

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