始まりをいくつ数えた頃に

増田朋美

始まりをいくつ数えた頃に

その日は春と言っても寒い日で、桜の花がとても美しい季節になっているのに、なんだか寒いなと思われる日であった。そのようなことから、せっかく桜の花が満開なのにも関わらず、お花見をしている人は殆どいなかった。

その日、杉ちゃんとジョチさんは、富士宮市で行われてるコンサートに出席するため富士宮市民文化会館に行った。その日は寒いということもあり、市民文化会館から、富士宮駅まで、タクシーで帰ることにした。ジョチさんが、いつも利用している岳南タクシーへ電話すると、今近くを走っている車が無いので、営業所から行くと言うことであった。ジョチさんが、車椅子の人が一人いるというと、それなら、UDタクシーを出しますといった。静岡県は、みんなのタクシーと呼ばれているUDタクシーがあって、車椅子の人でも、一般タクシーと同じ料金で乗ることができるようになっている。介護タクシーなどを頼むとえらくお金がかかってしまうのであるが、静岡県では、普通の人でも車椅子の人でも一緒に乗ることができる、サービスが存在するのであった。

岳南タクシー富士宮営業所では、今日も何人かのドライバーが、依頼が来るのを待っていた。なかなかタクシーの運転手というと、中年のおじさんばかりというイメージがあるが、その中で、この春から若い女性が入社してきた。この仕事に若い女性が関わるというのはなかなか珍しいが、周りの男性運転手がびっくりしてしまうほど、美人な女性であった。彼女は、間違いなくお客さんからも人気の女性ドライバーになるだろうと思われたが、年が若いということもあって、岳南タクシーでは、ケアタクシーと呼ばれている、UDタクシーの運転を担当することになった。普通の人を乗せることもあるが、障害のある人が乗車する場合が多い。そんなわけであるから、美人ということは、あまり関係のない職場に、彼女は回されることになったのだった。

その日も、配車センターに電話がかかってきた。なんでも市民文化会館から富士宮駅まで乗せてくれという。上司が、その女性運転手、つまり岡田千代に、その客を乗せて行くように言った。

千代は、そのとおりに、大型車両であるUDタクシーを運転して、富士宮市民会館に向かった。営業所から、富士宮市民文化会館は、さほど遠くはなかった。それほど難しい仕事では無いが、千代はなぜか乗り気にならなかったのだった。普通に健康な客を乗せるのであればまだいいが、こういう障害のある人のためのタクシーというのは、なかなか相手から礼をもらうことが少ないので、やる気にならなくなってしまうのだ。障害のある人を、車に乗せて運ぶというのは、なかなか難しい作業であり、結構体力の要る仕事でもあった。それでいて、障害のある人達は、自分で礼を言うこともなく、当たり前のように降りていく。そんな人達ばかり相手にしなければならないので、千代はどうもこの仕事は、自分には向いてないのかなと思ってしまうのであった。

そうこうしている間に、千代の運転するタクシーは富士宮市民文化会館に到着した。とりあえず、文化会館の正面玄関に車を止めて、客が来るのを待った。それと同時に正絹の着物を着た男性と、同じく麻の葉の黒大島の着物を着て、車椅子に乗った男性が、正面玄関から現れた。

「おう、待ってたよ。それでは、富士宮駅でよろしく頼むぜ。」

そう言われて、千代は、ちょっと嫌な気持ちがして、

「あの、岳南タクシーのものですが、予約した影山様でございますか?」

千代がそう言うと、

「はい。正しくそうです。ふたりとも、富士宮駅へ乗せていってください。」

と、正絹の着物を着ていた男性が、そういったため、千代は、着物を着ていることに少し驚きながら、二人をタクシーに乗せた。もちろん、車椅子の男性を乗せるには手間がかかったが、それは、仕方ないことだった。千代は、運転席に座り、じゃあ行きますよと言って、富士宮駅へ向かって走り出した。

「お客さんは今日はなんの用で富士宮に来られましたか?」

千代は、タクシーの運転手らしく二人に聞いた。

「ええ。僕達は、声楽をやっている知人が、今日ソロリサイタルを開催したもので、それを拝聴させていただくためにこさせてもらいました。」

と、正絹の着物を着た男性が言った。

「そうですか、声楽のリサイタルだったのですね。それならさぞかし、美しかったでしょうね。」

千代が形式的にそう言うと、

「まあねえ。でも、声楽家と言っても、まだまだひよっこみたいなもんだから。そんなに客も来なかったからね。」

と、車椅子の男性が言った。

「でも、良かったですよ。一昔前は、女郎屋で働いていたこともあったようで、今風に言えば、ソープのようなところで歌っていたこともあったようですが、今はちゃんとソプラノ歌手として、活動をされています。」

正絹の着物の男性が言った。

「そうですか、ちなみに、その女性の名はなんていうのですか?私も聞いてみたいわ。」

千代はそう聞いてみた。

「はい、松井千恵さんです、今はソプラノ歌手というかソロボーカリストの松井千恵さんというべきかな。彼女はとても美しい声をお持ちで、とても癒やされる歌声でした。まあ確かに、一時期女郎さんをしていたという過去もありましたが、それでも歌がうまいから、それも歌唱力でカバーできるでしょう。」

「そうそう。僕もそう思ったな。ジョチさんはちょっと心配と言っていたけれど、あれだけの歌唱力と声量があれば、あまり気にしなくてもいいような気がする。」

二人の男性は明るい声でそう言っているが、女性で元女郎をしていた岡田千代は、その衝撃を隠すことができなかった。松井千恵という女性は過去に千代と同じソープランドで働いていたことがあった。確かに、そこで歌っていたこともある。千恵はソープランドの雰囲気に馴染めず、すぐに退職してしまったような。顔を見れば、決して美しい人ではなかったから、そうなってしまったんだと千代は思っていたけれど、まさかソプラノ歌手として、成功したのは全く知らなかった。どうして彼女は、そこまで大成することができたのだろう?

「まあでもさあ、メジャーな歌手みたいな、すごいことができるわけじゃないと思うけど、でもねえ、それでも人前で歌うことができるわけだからさあ。それは、すごいことなんじゃないのかな?」

車椅子の男性がそういった。千代はそれを聞いて、彼女のことを色々思い出してみた。思えば確かに声だけは美しい女性であったが、ソープランドのしごと碌に覚えられなかった。何よりも客の男性にNOということができない人であり、相手の男性にバカにされたり笑われたりしたものだった。だから、この仕事には向かないと思っていた。それでも確かに声は素晴らしいものがあったから、本指名してくる客は少なくなかった。本当のソープの仕事はしなくていいから歌を歌えという客も確かにいた。もしかしたら、本指名した客の中に、音楽関係者がいたのかな?それで歌手としてデビューできたのかもしれない。

そんなことを考えながら、千代はUDタクシーを運転して、数分で目的地である富士宮駅へ到着した。二人は、富士宮駅に到着すると、千代に現金で料金を支払った。それは女郎だった頃よりも非常に少ない金額であった。決してその金額に不満があるわけでは無いけれど、二人の障害者を駅前でおろして、という作業はかなり苦労する仕事でもあった。とりあえず、車椅子の男性が、

「どうもありがとうな、乗っけてくれて助かったよ。また何かあるときはお願いするかもしれないけど、そのときはよろしくね。」

と丁寧に礼を言ってくれたことだけが、今日の大収穫と言えるかもしれなかった。

「ありがとうございました。また何かありましたら、利用してくださいね。」

千代はそう頭を下げて、UDタクシーを動かして、岳南タクシー富士宮営業所に戻っていった。

その日、千代は仕事を終えると、自宅アパートに戻った。最近は、一人息子も学校に行くようになってくれて、頻繁に発熱することは少なくなっていた。まだまだ油断しては行けないと医者には言われるが、それでも少しは息子を安心して放置してもいいなと千代は思っていた。息子が、テレビを見ている間、千代はインターネットで松井千恵のことを調べてみた。それによると、松井千恵は、一年ほど前から、歌手として活動を始めたようである。確か千代と一緒に、ソープランドにいたのは3年くらい前だったから、この2年はどうしていたんだろう。家族のもとにいたんだろうか?いずれにしても、三年前は千代よりも、位の低い女郎だった事は疑いないが、今は千代よりも知名度は高いことを伺わせた。ウェブサイトでは、彼女の声を高く評価している推薦の言葉もあげられていた。誰が千恵を女郎から歌手に転生させたのだろうかと千代が詳しく調べてみると、千恵の声を高く評価した人物は二人いて、一人は曾我正輝、もうひとりは磯野水穂という人物であった。ということは、この二人が、松井千恵と関係を持ったのかと、千代はインターネットでこの二人の経歴を調べてみた。もちろん今はインターネットがあって、裏サイトというものもあるから、人の事を調べるのは簡単である。しかし、二人の人物について、情報になりそうなサイトはなかった。千代が一生懸命サイトを眺めていると、息子が頭が痛い問いだしたので、それ以上調べることはできなかった。

その翌日も、千代は、岳南タクシー富士宮営業所へ出勤した。いつもどおりUDタクシードライバーとして、障害のある人達を目的地まで乗せていく仕事をこなした。もちろん、お客さんたちは千代にお礼など絶対しないので、なんで自分はと思ってしまうのであるが、愚痴を言いたくても言えなかった。それでも千代は渋々仕事をした。

仕事が終わって自宅に帰ると、息子はでかけていた。なんでも友達の家で宿題をやってくるとか。まあ、そういうことであれば友達のお母さんが、見てくれているだろうから、昨日みたいに、頭痛を起こすこともないだろう。千代はまた、パソコンを広げて、松井千恵の後援になった二人の人物を調べてみることにした。それでしらべてみると、推薦の言葉を投稿した二人の人物は、富士市に住んでいることがわかった。富士宮市と富士市、結構近くだけど、富士のほうが大きな街である気がする。だって富士市は、東海道線も身延線も止まるし、新幹線の新富士駅もある。高速バスだって、富士インターがあるんだし。富士のほうがよほど交通の便は充実している。本当は、富士で就職したかったけど、岳南タクシーの命令で千代は仕方なく富士宮市に行ったという事情もあったから、千代は余計に、松井千恵を支援した二人を傷つけたくなった。少なくとも松井千恵は、このあたりでは、有名なソプラノ歌手になっている。だから、それをちょっと、いたずらしてみたかった。人間は自分より人のほうが良くなると面白くないという言葉があるが、千代は正しくそれだったのだった。千代は、更にキーワード検索を駆使して、水穂という人物が、富士の富士山エコトピアというごみ焼き場の近くに住んでいることを突き止めた。それなら、ちょっとその水穂という人を、からかってというか、自分のものにしてもいいかもしれない。千代はもともと女郎をしていたこともあり、怒りとか嫉妬とかそういう感情には敏感なところがあった。

次の仕事が休みの日、千代は、富士市にいってみた。自分の唯一のマイカーである、軽自動車に乗って、富士山エコトピアの近くを走ってみた。水穂という人物は、製鉄所という建物に住んでいるらしい。一見すると鉄を作るところに、住んでいるなんてとても変だなと思うのであるが、製鉄所と表記してあるのは、偏見を持たれないようにするための工夫であることがわかった。なぜ製鉄所という名前にしたのかというと、訳アリの女性たち、居場所のない女性たちが、毎日通ってくる場所なので、変な横文字などで施設名をつけると怪しまれるからだということも、千代は突き止めている。確かに、そこへやってくる女性たちは、心が病んでいるとか、からだに障害を持っているとか、そういう人ばかりなのだという。まあ、いってみれば、隔離施設なのだろう。そうなると小さなビジネスホテルのような建物なのかなと千代は思ったが、そのような建物は全く無く、目の前にあるのは、大きな日本旅館のような建物であった。そこには立派な日本式の正門があり、大きな庭もあった。千代は、その正門の前で車を止めて、ここは何処なのか、もう一度確認しようとしたところ、

「おう!こないだのタクシーの運転手だな。一体こんなところに車を止めて何をしに来たんだよ。」

と、男性のでかい声が聞こえてきた。それはあのとき、千代が富士宮駅に乗せていった、車椅子の男性だった。ちょうど、車椅子に乗っているので、軽自動車に乗っている千代の目の前にその人の顔が、真正面に来た。

「すみません。このあたりに製鉄所というフリースペースのような場所はありませんか?」

千代は、そう聞いてみた。

「ああ、製鉄所はここだよ。お前さんなにかようでもあるの?」

すぐにその男性は即答した。千代は、びっくりした。こんな大きな建物が支援施設なのか。

「ええ、ここで間借りをしている、磯野水穂さんという方はご在宅でしょうか?」

千代がそうきくと、

「今、容態が良くなくて寝てるけど?お前さん、何しに来たんだよ?」

と男性に言われて、千代は困ってしまった。

「もしなんか用があるなら、ご案内するぜ。とりあえずさ、車に乗ったままじゃ、何も話もできないから、車を止めて、出直してきてくれ。」

男性に言われて千代は、そのとおりにした。改めて製鉄所の正門の前に、立ってみると、なんだか本当にここが支援施設なのかわからないくらい、大きな建物であるのが驚いてしまった。

「それで、水穂さんになんのようなの?」

男性に聞かれて千代がどうしようか困っていると、

「杉ちゃんどうしたの?誰かお客さんでも来た?なにかあったの?」

と、いう、いかにも歌い手らしい美しい声が聞こえてきて、千代は余計に驚いてしまった。玄関の引き戸が開いて、現れたのは松井千恵である。

「ああ、なんか、こいつがな、水穂さんに用があるんだって、物好きな女性だね。」

杉ちゃんと言われた男性は、カラカラと笑った。千代は、目の前に現れた松井千恵に驚いてしまう。なんだかソープランドで働いていた頃は、全然自信がなさそうで気弱そうだったのが、今はそういうところは何もなく、にこやかに笑って穏やかな顔になっている。

「あら、千代さんではないですか。よく覚えてますよ。確か、同じ職場で働いていたことありましたよね。この時間から出歩いているということは、千代さんもなにか他の仕事に転職されたんですね。転職、おめでとうございます。」

と、千恵さんは、千代ににこやかに笑いかけた。確かに今の時間は午後1時だ。女郎さんであれば、まだ寝ている可能性もある。

「千代さん、水穂さんになにか用があるんですか?それなら、お入りくださいませ。こちらにいらっしゃいますから。」

千代は、そういう千恵さんに、せめて彼女を推薦する言葉を投稿した人物にあってみようとだけ思った。これ以上、松井千恵をからかうとかバカにするとか、そういう事はできないと思った。完全に負けたというわけでは無いけれど、千恵さんは実にいきいきとして自分よりもずっと幸せそうだ。千代は、彼女と杉ちゃんに促されて、製鉄所の建物内に入った。製鉄所の玄関は上がり框がなく、簡単に入ることができた。

「水穂さん、お客様です。なにか用があるみたいですよ。私の昔の知り合いで、名前は、岡田千代さんです。」

千恵さんがそう言うと、一人の男性が布団から立ち上がった。その人は、千代が今まで客として取引していた男性よりも、ホストとして働いていた男性よりも、ずっときれいだった。こんなにきれいな人物が実在するかと思われるほどきれいな人だった。でも、げっそりと痩せていて、骨と皮という感じでもあった。千代は、しばらく何も言えなかった。こんな人が、松井千恵を推薦したのだろうか。そんな人物のおかげで、千恵さんはリサイタルができるソプラノ歌手に?なんだか、不条理というか、なんでこうなってしまうのだろうと思った。

「あら、千代さんはお口がないのですか?」

千恵さんに言われて、千代は、思わずごめんなさいと言ってしまう。

「ごめんなさい私、まさか千恵が、こうなってしまったのを知らなくて、それで、今日は、思わず、」

「はあ、何かからかいに来たのか?」

と、杉ちゃんに言われて千代は小さくなった。

「そうですか。僕もそうされた事あるので、お気持ちわかります。僕の場合は同和地区の出身者が、音楽家となるのはおかしいと何度も言われましたので。そういいたくなる人の気持もわからないわけではないので、黙って耐えるしか、できませんでしたからね。」

水穂さんが細い声で言った。

「そんな事。ある分けが。」

千代は、そういいかけたが、それと同時に、千代の携帯電話がなった。携帯なってますよと水穂さんに言われて、千代は急いでそれを取る。

「はいもしもし、ああ、大家さん?え?あの子が?わかりました、すぐ帰ります。すみません。ご迷惑をおかけして。」

千代は、そう言って電話を切った。そして、

「ごめんなさい。ちょっと帰らなければならないので、、、。」

と言った。

「何。何があったの?」

杉ちゃんに言われて、

「いえ、息子が大家さんの部屋の前で倒れたというものですから。よくそうなることで、大したことじゃありませんけど、、、。」

と答えた。

「そうか。それなら、帰ったほうがいいよ。息子さんのお母さんは、お前さんだけだからな。」

と杉ちゃんがそう言うと

「お気をつけてお帰りください。」

水穂さんが静かに言った。千代は、すぐに方向転換し、製鉄所の玄関を走って、車に向かった。そこにたどり着くのに、製鉄所の玄関は、長い気がした。



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始まりをいくつ数えた頃に 増田朋美 @masubuchi4996

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