第31話 そっと生唾を飲み込む
大きめのデスクにうずと積まれた書類に埋もれるように座る、ウィリデ少佐と呼ばれた男。
彼は緑色の髪を整髪料でガチガチに固めていた。
ただ銀縁眼鏡に光が反射して、カヌスの位置からではウィリデの表情は計り知れない。
「………」
サンディークスはウィリデに対峙するためカヌスには背を向けている。
何やら話し込む間中、サンディークスもウィリデも、一度もカヌスへと視線を投げることはなかった。
そんな二人を蚊帳の外で眺めながら、カヌスは生唾を飲み込んだ。
(…なに話してるんだろ、)
二人の会話はカヌスの位置からは全く聞こえてこない。
「………」
聞こえない会話が、得体の知れない張りつめた空気を生み出しカヌスを包む。
その緊張感から逃れたいカヌスは、西日の差さない小さな窓の外へと視線を投げた。
窓から覗く微かな空は、オレンジ色に変わりつつある。
(…これから、どうなるんだろ、)
忘れかけていた近い将来への不安が甦る。カヌスは再び生唾を飲み込み、小さく嘆息した。
刹那、
「しかし!」
室内に、サンディークスの語気の強い声が轟いた。カヌスは驚き、ビクンと身体を揺れる。
灰色の瞳を見開いて、咄嗟に声の方へと視線を戻した。
(え、)
同時に、こちらを振り返ったサンディークスと目が合う。その顔には焦燥感が色濃く滲んでいた。
ますます驚き、カヌスが「どうしたのか」と問うため口を開きかけたが、サンディークスはすぐさま視線を反した。
「……っ」
あまり状況が芳しくないことだけははっきりと伝わった。
カヌスは太股の上で両手を強く握りしめる。
(大丈夫。…大丈夫。)
無理をして、心の中で何度も自分に言い聞かせた。それしかできなかった。
(もう、決めたんだから。)
そして意識して視線を上げた瞬間に、
「!」
執務室の奥、うずと積まれた書類の隙間から、銀縁眼鏡のウィリデがこちらをじっと見据えていたことに気がついた。
おののいたが、動揺を噛み殺すようにカヌスは奥歯を強く食い縛った。
(…のまれては駄目だ。)
あの視線から逃げることは、自らの決意を反古にしかねない。
カヌスは歯を食い縛ったままでウィリデをキッと見据えた。しかしその実、身体の芯は震えており、強い尿意さえ感じている。
「………」
ウィリデは腕を組んだまま、そんなカヌスをしばらくを見ていた。
「……!」
上官の視線の先を理解したサンディークスが大きな身振りで何かしらを告げているが、ウィリデは全く聞く耳持たない様子だった。
「少佐!」
サンディークスの苛立ちが言葉尻から漏れだした。
(…大尉、)
ウィリデの眼光に真っ向から挑んでいたカヌスの眉尻が下がる。そしてカヌスはサンディークスの背中へとそっと視線を移した。
サンディークスの、カヌスを守りたい気持ちがその背中から溢れ出ており、まるで肌にまでチクチクと伝わるようだった。
「……っ」
カヌスの鼻の奥がツンと痛んだ。
「…もういいよ、大尉、」
意図せず漏れたカヌスの声。
その声はとても小さく、悲鳴のようでもあった。灰色の瞳が潤みかけて、しかしカヌスはぐっと涙を堪える。
「………」
そんなカヌスをずっと見ていたウィリデは、徐に立ち上がった。慌てて制止するサンディークスを片手でいなして、カヌスの元へとゆっくり歩み寄る。
「少佐ッ」
苦々しい顔のサンディークスがそのあとへ続いた。
「……あ、」
カヌスは小さく息を飲む。ずんずんと強面の男は近づいてくる。
やがてウィリデはカヌスの前までやってくると、腕組みをしてそのままカヌスを見下ろした。
(…こわい、…でも、)
強い威圧感に屈しそうになりつつも、カヌスは恐る恐るウィリデを見上げ、灰色の瞳を意図して鋭く光らせる。
だが太股の上の両手は未だ確かに震えていた。鼻息も荒く、心臓はバクバクと音が漏れそうなほど高鳴った。
「あ、あの!」
それでも伝えなければと、カヌスが強めの声を上げた瞬間、ウィリデはカヌスから視線を外して背後のサンディークスへと顔を向けた。
「何をしている。お前は急ぎコダと娘を追えと言ったはずだぞ」
「しかし!」
「これは命令だ。異議は認めん」
「…くっ!」
あからさまに苛立った様子のサンディークスは口惜しそうに歯ぎしりをした。その音が聞こえてきそうで、悲痛な面持ちのままカヌスはサンディークスを見やった。
(…大尉、)
サンディークスもカヌスを見ていた。赤い瞳が不安に揺れている。
「私は大丈夫ですから、大尉」
「……っ」
「大丈夫だから、…行ってください。」
できるだけ笑顔で送り出さなければと、カヌスは意識して口角をもたげた。
「………」
その様子を傍観していたウィリデが再びカヌスを見下ろし、背後のサンディークスに向けて低く言う。
「任務を怠るな。サンディークス大尉。さっさと行け。」
「……はい。…申し訳ありません。」
そしてサンディークスは踵を返すと足早に執務室の入り口へと向かい扉を開く。
「……くっ」
ドアノブを握りしめたまま、部屋を出ることを躊躇するサンディークスの背中を見つめていたカヌスの頬を、堪えきれない涙がいくつも筋を作っては消えた。
(泣いてはダメっ)
ここで泣いてはサンディークスが部屋から出られない。カヌスは薄汚れたシャツの左袖で強く目を抑え、嗚咽を漏らすまいと右手で口を覆った。
「………」
そんなカヌスを、万が一振り返るかもしれないサンディークスの視線から隠すようにウィリデが立ち位置を動かしたことは、誰も気がつかなかった。
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