第28話 困惑と恐怖

 店頭にopenの札を掲げ、店内に戻ろうとした小さなサクラを覆う紫色の影。


 サクラは、誰かに呼ばれた気がして立ち止まり、振り返った。


「?」


 振り返ったサクラの目の前には一人の女が立っていた。


「いらっしゃいませー。あなたはお客さん?」

「ええ。お客さんよ」


 女は艶やかな笑みを称え、サクラを見下ろしたまま改めて言った。


「私はあなたのお客さん。」


 その言葉に、サクラは小首をかしげ、


「サクラのお客さん?」


 あどけなく問いかけた。


「ええ。そうよ。」


 そう答えると、女は身を屈め、小さなサクラの視線まで下りてきては、柔和に微笑んだ。


 その女の背中には、紫色の美しい羽根が生えている。


「…え、」


 サクラは少し驚き、後退りした。


「…サクラ、なにも持ってないから、あなたはサクラのお客さんじゃないよ、」


 不安そうに、サクラの小さな眉毛が下がる。


「だってサクラ、あなた知らないもん。…知らないもん…っ」


 サクラの困った顔が、みるみる歪んで泣き顔に変わる。黒い瞳いっぱいに涙が溜まった。


 そして、


「お父さーんっ」


 サクラは震えながら叫んだ。

 刹那、店の扉がバンっと開き、


「サクラ、入れ!」


 黒いボサボサの髪をしたエプロン姿の大男が細身の棒らしき何かを片手に飛び出してきた。そして左手でサクラの襟首を掴むと、投げるように店内に押し込み、扉を閉めた。


「………」


 大男は一言も発することなく、店を背後に細身の剣を抜いた。鞘を傍らに投げ捨てる。


 抜かれた剣はすらりと長く、見たことのない形状をしていた。


 その片刃の剣は、日本刀であった。


「ふぅ、」


 すぐさま大男は一つ大きく息を吐き、腰を落とした。刀を中段に構える。

 そして一瞬も躊躇うことなく紫の有翼人の喉を目掛けて突きを放った。


「くっ!」


 紫の有翼人は寸でのところで身を翻し、しかし体勢を崩して後方によろめく。その反動で片方のピンヒールが折れた。刹那、紫色の美しい羽根が一気に広がり、紫の有翼人は空へと舞い上がった。


「…なに? 何が起こったの、?」


 虚を突かれた形での剣戟。それは紫の有翼人にとって初めての出来事だった。


「なにが、」


 いつもならば、上空から有翼人亜種を生み出し、地上の阿鼻叫喚を眺めていればよかった。


 だが今回は、小さなサクラ相手の心づもりだっただけに、紫の有翼人は単身地上に舞い降りてしまった。


 その油断が即座に混乱に繋がったのだ。


「くっ」


 紫の有翼人は込み上がる羞恥心に歯噛みし、顔を赤らめた。


「…おのれ人間風情がっ 粋がりおってっ」


 紫の有翼人は、美しい顔を歪め、白い歯を剥き出しにした。戦慄き、紫色の髪が揺らぐ。

 

 そして白くすらりとした自らの手の甲を噛みちぎった。


 途端に鮮血がボタボタと流れ落ちる。流れ落ちた先から醜い何かが生まれ出た。


 それは全て有翼人亜種となった。


 有翼人亜種たちは生まれた瞬間から次々と大男に向かって飛びかかった。


「…なんなの、…なんなのっ」


 だがその端から白刃の餌食となって確実に首を斬り落とされる。


「ギギギッ」


 静かな町に、有翼人亜種の断末魔の叫びがこだました。


「ギギギぁ」


 吹き出す有翼人亜種の血で真っ赤に染まった大男は、その顔の返り血をぐいっと袖で拭う。


 血で汚れた大男の口角が持ち上がり、漆黒ほどの黒い眼が鋭く光った。


「おう、もうしまいか? かかってこいよ。てめえの血が枯れるまで、かかってこいやッ!」

「……っ!」


 有翼人の、紫色の瞳が揺らいでいた。

 眉根が寄り、深いしわができている。

 豊かな唇が戦慄いた。


「これは、…なんなのだ…?」


 紫の有翼人が今、生まれて初めて抱いた感情。それが「恐怖」であることに、彼女は気がつくことはなく、


「おのれ、おのれっ!」


 自らの羽根を一枚むしり取ると、何度も何度も自らの手の甲や腕に突き刺した。


 そして真っ赤な鮮血を流す。


「殺せっ 殺せっ」


 半狂乱になりながら、紫の有翼人は有翼人亜種たちを次々に生み出していく。


「…なぜだ、どうして、どうしてッ」


 しかしその端々から有翼人亜種は斬り殺された。


 地上には累々と有翼人亜種の死骸のみが蓄積されていく。


「…はあ、はあ、はあ、」


 紫の有翼人は肩で息をしながら、次第次第に怯えの色を濃くしていった。


「お前は、…本当に、人間なのか…?」

「ああ人間だ。人間を殺したいんだろ? ほら、もっと血を流せよ、ほら、ほら!」

「…ひっ、」


 大男の怒号におののき、紫の有翼人は血塗れの両手で耳を塞いで大男に背を向けた。


 そのまま逃げるように、大空へと消えていった。


     *  *  *


 とある小さな郊外の街に、コロル軍後方支援部隊、通称テネブラエに出動命令が下った。


 到着した灰色の馬車から、フシューフシューと独特な呼吸音が漏れ聞こえる。だがその呼吸音が、今日はなぜか乱れていた。


 彼らは、現場の異様さに一様に驚き、動揺を隠せなかったのだ。


 累々と積み重ねられた有翼人亜種の死骸の全てが、首を落とされている以外に傷がなく、ゆえに腐乱が遅れている。


 こんな綺麗な死骸は見たことがない。


 彼らは口々に困惑を吐露し、しばし呆然と立ち尽くした。

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