第26話 願いは遠く幻に近い

「一緒に、この国を出よう。」


 それは思いもよらないサンディークスの言葉だった。


「………」


 なぜ突然そのようなことを言い出したのか。

 何より、なぜそんな言葉を自分に伝えなければならなかったのか。


 何一つ理解できなかった。

 だが、サンディークスの言葉に、確固たる意志が込められていることははっきりと伝わる。


 それほど強固な声音だった。


「……っ」


 だからこそ、今こうして対峙するサンディークスの胸中を思うと、カヌスの胸は強く締め付けられて酷く痛む。


「………」


 カヌスは開いていた口をゆっくりと閉じた。


 サンディークスの赤い瞳は相変わらずカヌスを捉えて離さない。


 しかし、


「……っ」


 カヌスは泣きそうに顔を歪めて、力なく何度も首を横にふるふると振った。


「できません。」


 そして、震える声で、はっきりとサンディークスに伝えた。


「………」


 サンディークスは何も答えない。

 赤い瞳は変わらず真っ直ぐ前だけを見る。

 カヌスはその瞳から目を逸らすことなく、サンディークスを見据えたままで改めて言った。


「できません。」

「………」

「だって、…たぶん一緒に逃げたら、」

「………」

「大尉は、きっとすごく後悔するはずです。だってッ」

「………」

「あなたは、…私に逃げようと言ってくれてるあなたは、…今、…ひどく辛そうだから、」

「……ッ」


 カヌスの言葉に、サンディークスは赤い瞳を見開いた。瞳の奥が微かに揺れる。


「………」

 

 サンディークスは今、自分がどんな顔をしているのか、想像できないのだろう。


 途端に俯き、項垂れた。

 カヌスには、彼の赤い髪しか見えなくなってしまった。


「…大尉、」


 カヌスは恐る恐る手を伸ばし、今目の前に座る大きな男の肩に触れた。触れた瞬間、ビクリとその体躯が揺れる。


「………」


 サンディークスはがっちりとした筋肉質な身体をしていて、触れるととても固かった。だが、手に伝わる温もりは、自分と同じでとても温かい。


「…大尉っ、」


 それがひどく切なかった。


 カヌスの顔はみるみる歪んで涙を堪えることができなくなった。


 ボロボロと、大粒の涙がいくつも灰色の瞳から溢れ落ちた。


 軍服を着て、この国のために生きているはずのサンディークスに、この国を捨てる選択をさせているのは、何故なのか。


 なにも聞かないでほしいと告げたサンディークスに、理由を聞くことはできない。


 だが、その言葉を、その選択を、自分に告げなくてはならなかったサンディークスの想いを、カヌスは何も聞かずに看過できるはずもなかった。


「大尉」


 カヌスは震える声でサンディークスの肩を強く掴んだまま、言った。


「…私のせいなんですね、…私のために、大尉は、」

「…違う。アンタのためじゃねぇ…」


 サンディークスは聞き漏らすほどの小さな声で、俯いたまま言葉を紡いだ。


「逃げたいとずっと願っていたのはオレだ。生きていることから、生かされていることから、オレはずっと逃げたかった。」

「………」

「逃げるための口実を探してただけだ。アンタを巻き込んだのも全部、…オレのためだ。」

「それでも、」

「………」

「それでも、やっぱり私はあなたには生きていてほしいんですよ。大尉、」


 カヌスの声はとても穏やかで、静かだった。


「…っ」

 

 その声を聞いた途端、サンディークスの頬には涙が一滴、筋を作っては消えた。


 消えた涙は、かつての涙によく似ている。

 とても温かく、しかし消えれば途端に冷たい。


「……ッ」

「…大尉、」


 そんなサンディークスの肩をカヌスはそっと抱き寄せた。


 サンディークスは抵抗することもなくなされるがまま、カヌスの腕の中に収まった。


「……ぅ、」


 サンディークスは、並外れた身体能力と、立派な体躯を持っている。


 だが今、無力なカヌスの腕の中で、サンディークスは震えながら目を手で押さえて、必死に涙を堪えていた。


「……ッ」


 カヌスは堪えきれずにサンディークスを強く抱き締めて、溺れる涙から息をするために口を開いた。開いた途端に抑えきれなかった想いが溢れ出た。


「私だってホントは逃げたいっ あなたと一緒に何もかも捨て去って、今この瞬間から逃げ出したいっ でもできないッ」

「………」

「あなたに後悔させながら生きることはできないっ だって、私はあなたと一緒に生きたいからッ」

「……ッ」

「…あなたと一緒に生きたいんです…大尉…あなたのことが、とても好きなんですよ…大尉…」

「………」

「…だから、生きてて…」


 後悔だらけの過去だったに違いない。

 そして明るい未来なども、きっと望めないのだろう。


 それでもサンディークスには生きていてほしい。


「………」


 カヌスの願いは、星の瞬きのように遠い幻に近いのかもしれない。


「わかった。」


 それでも、サンディークスは小さく答えると、カヌスの肩を掴んでゆっくりと顔を上げた。


「オレは生きる。だがそれはアンタと共にだ」

「私、逃げないですよ」


 カヌスの言葉にサンディークスはハハっと笑い、


「わかってる。後悔はさせねぇ、とは約束できねぇけど、…そうだな、足掻いてみっか、」

「そうですね」


 カヌスは心底嬉しそうに微笑んだ。

 サンディークスも微笑んでいた。


「…ああ、アンタと出会えて良かった。」


 そして、吐露するように呟くと、穏やかな笑みを称えたままサンディークスはカヌスをそっと抱き寄せた。


「ありがとう。カヌス」


 カヌスは、力強いサンディークスの腕の中で言葉なく、小さく震えながらそっと、止めどない涙を流し続けた。


 

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