第23話 星の煌めきにも似て


 山の谷間に落ちたカヌスは、気絶していたようだ。

 

 気がつくと、辺りは既に真っ暗で、時折木々が風に揺らいでザワザワ音を奏でる以外は何も聞こえてこなかった。


(私、…もう死んだのかな、)


 自分が生きているのか死んでいるのかさえも定かではなく、カヌスはしばらく瞬きを繰り返しては眼球のみを動かしていた。


「痛っ」


 やがて、ほんの少し身体を動かすと、右足に電流が走ったように痛んだ。どうやら足を捻挫したようだった。


 痛みが引くまで身体を強ばらせながら、カヌスは額を地面にくっつけて歯を食いしばった。


 やがて痛みが落ち着き、カヌスは深いため息を一つ、ゆっくりと吐き捨てた。


「…はぁ」


 立ち上がることもままならない。


(…もう、いいや。どうでも…)


 もはや逃げられないと死を覚悟した。


「……はぁ…」


 諦めの境地のまま、カヌスはゆるゆると仰向けになり、空を見上げた。


 しかし見上げた先は深い闇が広がるばかり。


 頭を少し動かせば、カサカサと落ち葉が擦れて音が漏れる。


(…こうやって、ヒトって朽ちていくのかなぁ)


 カヌスは虚無に近い感慨の中で軽く笑った。


「…ふふ、」


 耳鳴りがしそうなほどの静寂は、カヌスに現実味を忘れさせかけた。


 しかし、


「ギギギ、ギギギ、」

「!」


 そんなカヌスを嘲笑うように、不意に、遠くから有翼人亜種の声が微かにこだまする。


「…っ」


 カヌスの額に一気に汗が吹き出た。


(…もう来たんだっ)


 最後の足掻きのつもりでカヌスは息を潜めた。


「ギギギ、ギギギ、」


 だが、黄金色の髪の女性を貪り尽くした有翼人亜種は、ギギギ、ギギギと鳴きながら、カヌスを追って山の谷間へと下ってきているようだった。


 気配がどんどん近づいてくる。


(ああ、もう駄目だ、)


 カヌスはできるだけ動かずに、浅い呼吸を繰り返していた。そしてせめてもの抵抗のつもりで固く目を閉じた。


「……?」


 だが、すぐそこまでやってきていたはずの有翼人亜種は、一向にカヌスを襲っては来ない。


「?」


 恐る恐る目を開ける。すると、


「!」


 カヌスの目と鼻の先で、有翼人亜種は、もがき苦しむように縮こまり、ギギギ、ギギギと低く唸っていた。


「…え、なに、なんで、」


 やがて有翼人亜種は、ゆっくりと丸く固まっていったのだ。


 それは、とても不思議な光景だった。



(…こんなの、見たことがない…)


 コロル軍後方支援部隊、通称テネブラエで、有翼人亜種の死骸の回収を生業としていたカヌスは、有翼人亜種が首を落とされて死んでいるのは何度も見たことがある。


 死後、すぐに腐乱が始まるため、テネブラエの面々は、有翼人亜種の死骸を急ぎ密閉度の高い袋に詰め込むのだが、


「…どうして、」


 今、目の前でゆっくりと死んでいった有翼人亜種は、腐るどころか岩のように硬化してしまっていたのだ。


(どういうこと…)


 カヌスは痛む右足を庇うように、わずかに地面を這って有翼人亜種へと近づいた。


「…こんな風に死ぬなんて、」


 死骸の近くで何度か深呼吸を繰り返すが、空気の汚染は感じられなかった。


 この、闇よりも深く、黒く濃い塊は、なんのガスも発してはいない。


(…こんな風に死ねるなら、これを地下に埋めなくてもいいんじゃないの…?)


 ぼんやりと黒い塊を眺めていたカヌスは、這いつくばったまま、手を伸ばしてその塊に触れようとした。


 刹那、


「おい!」

「!」


 ふと、はるか頭上から聞き覚えのある声が聞こえた気がして、カヌスは慌てて顔を上げた。



 ズザザザザと、何者かが斜面を滑り降りる音と共に、星の煌めきにも似たひとつの光が離れた位置でぼんやりと辺りを照らす。


(…うそ、うそでしょ、)


 カヌスの鼻の奧はツンと痛み、呼吸が浅くなっていった。


「…あああ、」


 声にならない声が、カヌスの震える唇から漏れる。短い呼吸の中で、カヌスは懸命に声を発した。


「…たすけて…」


 しかしその声は、自分が思うよりも遥かに小さく、どこにも届かず朽ちて消える。


「…あ、あ、あっ」


 もっと大きな声を出して助けを求めたいのに、しゃくり上げて言葉にならない。


「…たすけて…」


 カヌスの目からは大粒の涙がボロボロと溢れてこぼれ落ちた。


 その時だ。


「カヌス!」

「!」


 不意に、遠くで響いた自分の名前を叫ぶ声。


(…あああッ)


 カヌスの顔はひどく熱くなった。

 こんな想いを今まで、胸に抱いたことは一度もなかった。


「あああッ」


 自分の名前が呼ばれた。

 たったそれだけが、この上なく嬉しくて胸が締め付けられる。


「……ッ」


 カヌスは今この瞬間、心の底から、自分の名前が「カヌス」で良かったと強く思った。


(…たすけて、たすけて!)


 熱い涙が止められなかった。


(…たすけてっ)


 荒い呼吸を整える余裕もなく、俯いたまま喘ぐように、カヌスは何度もパクパクと口を開けたり閉じたりを繰り返した。


 それしかできなかった。


 ただただ言葉を吐き出そうとカヌスは必死だった。


「カヌス! どこだ!」

「…ッ!」


 カヌスは、灰色の瞳が溶けるほどの涙に溺れながら、懸命に震える両腕で上半身をもたげ、


「だずげでぇ! 大尉ぃ!」


 二度と声が出なくなってもかまわないと思えるほど、喉をヒリつかせながら、力の限り叫んだ。

 

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