第19話 ウィオラーケウム


「…うそでしょ、」


 強い悲壮感に、カヌスの眉が下がる。


(…ひどい、)


 声にならない声がカヌスの口から微かに漏れかけた。


 しかし泥だらけの地面にひれ伏しながらも、悔しさを押し殺すようにカヌスは奥歯を噛み締めた。

 

「まあ小汚ない子だこと」


 そんなカヌスを見下したままで、紫色の影は愉快そうに揺れた。


(…なんなの、)


 紫色の羽根を持つ有翼人は、とても美しい。

 長い髪は艶やかで、妖艶な曲線美はまるで女神のようだった。


(…なんで…?)


 まさに、この世のものとは思えない存在。


(…怖い、)


 しかしカヌスは、見下ろしているであろうそれに、底知れぬ畏怖を覚えた。


(…これが、…有翼人…?)

 

 カヌスは、恐怖を前に萎縮した身体を起こすことができないでいた。


 ただ地面に転がったままで、木漏れ日を背に立つ紫の有翼人を見ないように、じりじりと後退りする。


「あらあら、そんな格好でも逃げようとするなんて、無様ねぇ。ねえ、ご覧なさいな」


 すると、紫の有翼人は楽しそうに背後の何かに話しかけた。


 何に話しかけているのか。


 恐る恐る、盗み見るようにカヌスはゆっくりと顔を上げた。

 そして紫の有翼人の視線の先へと、そっとカヌスは目をやる。


(…え、)


 すると彼女の後ろに、もう一つ人影があるのが見えた。


「はい。誠にその通りですね。ウィオラーケウム様」


 後ろの人影は、紫の有翼人の言葉に応えるように小さく呟いた。


 感情が全く感じられない。


 とはいえ棒読みながらその声は、ハープのようにたおやかで、不思議と耳に心地よかった。


「…っ」


 しかし、その姿に、カヌスは思わず息を飲んだ。


「…サ、サクラ、ちゃん…?」


 その人物は、あのパン屋で出会った小さな少女、サクラにそっくりだったのだ。


(…あ、違う。…違うっ)


 けれどもよくよく見れば背格好は成人女性のそれであり、髪の色も黄金色で、黒髪のサクラとは明らかに異なる。


 それでもカヌスはサクラと見間違えた。


(いけないッ)


 見間違えたことに慌てたカヌスは急いで手で口を押さえた。しかし当然口をついて出た言葉を戻すことはできず、


「サクラ、ですって?」


 カヌスの迂闊な呟きに、紫の有翼人は身を屈め、カヌスの視線へと下りてきた。


「なぜ、あなたはサクラちゃんを知っているのかしら?」

「……ッ」


 真っ直ぐ真正面から紫色の美しい瞳で見つめられると、まさに蛇に睨まれたカエルが如く言葉を失う。


(ダメだ、ダメだ、ダメだっ)


 冷や汗が額や背中を何度も流れて身体を冷やした。手で隠すカヌスの唇は恐怖に戦慄いていた。


「ねえ、もしかして、サクラちゃんなの? あなたに、『種』を授けたのは、」

「違う!」


 カヌスは両手を地面に叩きつけ、上半身をもたげて力の限り叫んだ。


「違います!」


 だが否定をすればするほど、彼女たちには肯定に聞こえるらしく、


「そう、…やはりあの子なのね、」


 紫の有翼人は、愉快そうに立ち上がると、背後に控える黄金色の女性の髪を、細く長い指ですいた。


「あなたの姪っ子は、やはりとても優秀ねぇ」

「…はい。ウィオラーケウム様」

「見た目だけは同じでも、あなたには何の力もないのにねぇ」


 そう言うと、紫の有翼人は女性の黄金色の髪を力一杯掴み上げた。


(えっ!)


 女性の顔が苦痛に歪む。だが、女性は悲鳴の一つも上げなかった。


(え!? なに? なに!?)


 カヌスは、自分の目の前で起こっている出来事に対処できず、ただ唖然しながら眺めていた。


「ほんと、なんの役にも立たないんだから。」

「申し訳ございません」

「せめて『種』があれば、あなたでも、御姉様の権化になれるというのに。ねえ」

「…申し訳ございません」

「嗚呼、このオモチャも、結局無能な輩の慰みものになるしか能がないのかしらねぇ」


(!)


 汚物でも見るかのように吐き捨てると、ウィオラーケウムと呼ばれた紫の有翼人は、女性の美しい黄金色の髪から手を離した。そして軽く突き飛ばす。


(ダメ!)


 女性は木の葉のようにふわりと飛ばされ呆気なく地面に転がった。


「なんてことを!」


 刹那カヌスは叫び、立ち上がっていた。

 顔は紅潮し、呼吸も短く荒い。

 カヌスは、様々な感情が昂ることで、理性のタガを失ってしまっていた。


「ひどいっ!」


 カヌスは再び大きな声で怒鳴った。

 カヌスの、灰色の瞳が怒りに震えている。

 その勢いのままカヌスはウィオラーケウムに駆け寄り、豊満な胸ぐらを掴み上げた。


「あなたがどれほど偉くても、やりすぎだ! 彼女に謝れ!」


 突然のカヌスの恫喝に、ウィオラーケウムは虚をつかれたように紫の瞳を丸くした。


『お前はやりすぎだ、ウィオラーケウム』


「…ア、アルゲンテウス、」

「!」


 そして紫の有翼人が怯えたように呟いたのは、久しぶりに聞くカヌスの父の名前だった。


(…この人、父さんを知っているの…?)


 思わずカヌスは手を離す。ウィオラーケウムは虚ろな瞳で呟いた。


「…違う。…あいつのはずがない。…あいつはもういない。」


 そしてウィオラーケウムはゆっくり後退ると紫の瞳を閉じる。

 しかし刹那紫色の眼をカッと見開き、きつくカヌスを睨み付けた。


「!」


 カヌスは戦き、二歩、三歩と後退した。


 今更ながら足が震える。

 背中が一層濡れてゆく。

 震えは全身に伝わり、強い尿意に襲われた。


(…ああ、もうダメだ…)


 やがて冷えた頭が、カヌスにそっと絶望を告げた。


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