第18話 伸ばした手はただ、くうを切る
この国の人間ならば、特別な「種」と聞けば幼い子でも「腐った種」に思い至る。
「腐った種」という言葉そのものが、彼らにとってはそれほど身近であり、それほど尊かった。
だが、誰一人、「腐った種」をその目で見たものはいないのもまた事実であった。
…
「腐った種」は、一度死に絶えたこの国に、再び緑を甦らせた。
創生の始祖であるプルウィウス・アルクス信仰の強いコロル国において、実際に「腐った種」が実在したとの情報があれば、真偽問わず、国を上げて入手に動くのは至極当然のことといえる。
(…しかもアレ、…発芽してたんだし、)
大きなうねりのような理不尽を前に、カヌスはなす術なく、ただ、暗い馬車の荷台の中で踞ることしかできないでいた。
「…たすけて、」
ほとんど無意識に、カヌスは呟いた。
それはまるで悲鳴のようだった。
(…たすけて、)
カヌスは抱えていた小瓶を再びぎゅっと強く抱き寄せた。
覗き窓もない暗いだけの荷台において、抱える飴の小瓶だけがカヌスにとって確かなものであり、あたかも依り代のようでもあった。
「……っ」
固く目を閉じて今をやり過ごそうとするカヌスを乗せたまま、ガタゴトと、粗末な車輪の馬車は悪路を激しく揺れながら進む。
強く揺さぶられる暗闇の中で、馬車が軋むたびに小瓶の飴がコロンコロンと音を立てた。
カヌスは今、その音が世界の全てであるかのように、ただ無心になって飴の音だけを聞いていた。
「………」
どれほどの時間が流れた頃か。
目を開けているのか閉じているのかさえわからない薄暗さが、現実逃避にも似た睡魔を呼び寄せ、カヌスは馬車の激しい振動に身を任せて微睡みかけていた。
だが突如、
ドンっ
「きゃあ!」
耳をつんざく轟音がこだました。
刹那、何かが破裂したような地響きが馬車を一層激しく揺らした。
踞っていたカヌスは揺さぶられて右に左に転がった。
「え? え!?」
パニックになったカヌスは、飴の小瓶を抱えたまま、なんとか荷台の壁に掴まる。
と同時に馬車は歩みを止めた。止めるやいなや馬車がガタンと激しく傾いた。立っていられないほど荷台の床が斜めになる。
「うわっ」
暗い荷台の中で、再びバランスを崩し、カヌスはまたもや小石のように転がった。
「…なに!?」
転げながらも這うように荷台の入り口へと向かい、扉を開こうと試みるが、外側から閂を下ろされているためかびくともしない。
「さっきの音はなんですか! 大丈夫ですか? どうしたんですか!?」
馬車を御していたはずの男に必死に声をかけるが返答はない。
返答がない代わりに、再びドンっと大きな爆発音が響きわたり、刹那「ぎゃあ!」と男の断末魔が轟いた。
「え!? なになに!?」
カヌスは一層驚き、暗闇の中、半狂乱になりながら扉を叩き、何度も叫んだ。
「開けて! 開けて! 何があったの!? ここを開けて!」
灰色の髪を取り乱しながら、カヌスは必死に木製の扉に体当たりした。体当たりを繰り返すうちに息が上がってきた。だが扉は相変わらずびくともしない。
「開け! 開け! くそっ!」
思い切り体当たりをしようと勢いをつけて扉に突進する。
すると突如扉は開き、
「うわっ!」
勢い余ってカヌスは転げるように外へと飛び出した。
「痛っ!」
そのままドスンと土の地面へと転がり落ちる。カサカサと落ち葉が身体に纏わりついた。
全身をしこたま強打し、顔が歪む。
「…っ、」
痛みをこらえつつ、カヌスはゆっくりと目を開けた。
「え、」
地べたに転がるカヌスの眼前に広がったのは、無造作に伸び散らかした雑草のみ。そしてさらに目をやると、背の高い木々ばかりが視界を覆う。
(…え、どこ、)
見覚えのない景色。ここは鬱蒼とした木々に覆われた薄暗い山の中。
「………」
現状を脳内で処理できずに一瞬呆けていたが、
「あ! 飴!」
ハッと気がつき、すぐさま半身をもたげ、カヌスは抱えていたはずの飴の小瓶を探した。
飴の小瓶はすでに手中にはない。見渡してみても近くにもない。
「あ、あった!」
キョロキョロと見回した先に、飴の小瓶は転がり落ちていた。
カヌスは慌てて這いつくばるように小瓶へと手を伸ばしかけた。すると不意に、
「えっ…?」
カヌスを覆い隠すように、何かしらの影が垂れ込めた。
視界を塞ぐ紫色の影。
「こんなみすぼらしい女に『種』が渡ったというの? …御姉様もつくづく馬鹿にされたものね。」
カヌスの頭上から、小気味良くクスクスと笑う声がする。
「…!」
恐る恐る顔を上げたカヌスの眼前に、悠然と立っていたのは、紫色の羽根を持つ有翼人だった。
やがてそのピンヒールを履いた美しい足は、地面に転がる飴の小瓶を事も無げに蹴飛ばした。
「あ!」
蹴られた小瓶は勢いよく飛ばされて、地面に落ちた瞬間にガシャンと割れた。
「ああっ!!」
そしてカラフルな飴たちが、木漏れ日に照らされながらあちらこちらに散りばめられて、一つ残らず枯れ葉の中へと朽ちて消えた。
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