第10話 これが運命だというならば

「はあ、はあ、はあ、」


 カヌスは肩で息をしながら、観念したようにその場に座り込んで片膝を抱えた。頭が垂れる。


 さんざん逃げようと試みた。

 だがどんなに暴れてみても走ってみても必ず捕まる。

 もはや諦めるより他に術がなかった。


(…はぁ、全然ツイてなかったな、今日も。)


 さすがに悔しくて涙が滲む。


「やっと観念しましたか」


 一方で赤い髪の男は息一つ乱すことなく軽く笑っていた。


(……はぁ、どうして、)


 まさにカヌスの完敗である。もはや逃げることなど叶わないと諦めムードが漂う。


(飴を買いに来ただけなのに…。これも、やっぱり運命なの…?)


『これが運命だとするならば、受け入れてみるのも悪くないよカヌス』


 途端に、そう言っては愉快そうに笑った父の顔を思い出す。


 父は、虐げられた生き方を、受け入れながら生きていた。


 そんな父を不機嫌そうに見る母は、運命という言葉をひどく嫌った。


『…そんなものに翻弄される生き方なんて、まっぴらだ』

 

 疲れていても、そう呟いては背筋をぴんと伸ばす母の後ろ姿が鮮明に脳裏に甦った。


(…そうだ。それでも、術を探さないとダメだ。ただただ諦めるなんて、ダメだ)


 カヌスは、片膝を抱えているだけだった両手を離し、


(逃げる隙はあるはず、)


 強く自身の両目を押さえた。その手でグリグリと目をこすり、


「…よし、」


 涙を押し戻すために顔を上げた。


「…ふぅ、」


 そして傍らに置いていたボロボロの紙袋を抱え、ようやくカヌスは立ち上がった。

 一つ大きく息を吐き捨て、尻についた砂を払う。


「………」


 そんなカヌスを、赤い髪の男は近くの木にもたれ掛かりながら眺めていた。


 ただ、カヌスが目を押さえていた一瞬だけ、男の顔から笑みが消えたが、カヌスはそれに気づいていない。


 カヌスが顔を上げた頃には、すでに赤い髪の男はいつも通りニヤニヤと作り笑いを浮かべていた。そして、言葉にも笑みを乗せてカヌスに聞く。


「そろそろ連行される気になりました?」


 ニヤつく赤い髪の男の顔を一度も見ることなく、カヌスは低く言った。


「色々と不利だから。今は仕方がない、かな」


 すると赤い髪の男はハハハと軽快に笑い、


「オレらもまあ、…悪いようにはしませんから、」


 だが男のその言葉は、なぜか自信なさげに尻すぼみになって闇夜に消えた。


(うん。…悪い予感しかしないな。)


 カヌスは、一旦は受け入れて抗おうと決めた運命を、少し恨んだ。


(…やっぱり、私の人生なんてツイてないのかな…)


 再びゆるゆるとカヌスの視線は下がっていく。


 肩まで伸びた灰色の髪が顔に垂れて、カヌスの表情はすっかり隠れてもう見えなかった。


 しかし、


「…悪いようには、させねぇから」


(……え、)


 そんなカヌスの頭上へ向けて、静かに言い直した赤い髪の男の言葉は、ほんのりと暖かく、カヌスの耳の奥に確かに届いた。

 

     *  *  *


 第二大隊情報部隊所属サンディークス大尉の主な任務は、有能な人材の確保、育成にある。


 表向きはそのような体裁を保っていたが、実際の業務は、有翼人と人間との間に生まれた希少な子どもの監視とスカウトに他ならなかった。


 スカウト、といえば聞こえはいいが、強制連行も厭わない強引な勧誘は、ただの略取誘拐に近い。


 だがそれは、あくまでも有能な人材に対してのみであり、能力値が極めて低いと判断されたカヌスは、早々から監視対象から外れる予定ではあった。


 けれども気がつけば25年近く、サンディークスはカヌスの監視を続けている。



 監視対象である「マル対」に対して、スカウト以外で接触しないよう心がけていたサンディークスが、一度だけ、幼かったカヌスと、カヌスの父親である羽根を失った灰色の有翼人と出会ったことがある。


 それはまだカヌスが三才になったばかりの春の、よく晴れたある日のこと。


『!』


 カヌスの父親が徐に、幼いカヌスを抱えたまま、カヌスの動向調査をしていたサンディークスのもとへと駆けてきたのだ。


『……ウソだろっ』


 それはサンディークスにとってまさに青天の霹靂だった。


 今まで一度たりとも、サンディークスは隠密行動を見破られたことがなかったためだ。


『…な、』


 だからこそ、突然マル対に見つかったことに単純に驚いたサンディークスは、一瞬判断が遅れて逃げきれなかった。


『ずっと探してたんだよ! あの時逃がしてくれた礼を、どうしても言いたくてね』


 カヌスの父親は顔を紅潮させてサンディークスの傍までやって来るやいなや、その勢いのままに、抱えていた小さなカヌス共々サンディークスを強く抱き寄せた。


『なっ』

『君のお陰だよ。本当にありがとう、ルフスの子よ』

『!』


 サンディークスは更に驚き、赤い瞳を見開いたまま言葉をなくした。


 ルフスの子。


 それはサンディークスがこの世でもっとも嫌いな言葉だった。

 

 ルフスとは、深紅の羽根を持つ有翼人であり、「混沌のニグレド」と呼ばれた漆黒の羽根を持つ有翼人と共に人間殲滅の命を受けて地上に舞い降りた、最初の有翼人であった。


 特にルフスは「鮮血のルフス」とも呼ばれ、有翼人の傀儡である有翼人亜種を用いることなく、自らの手で虐殺を繰り返したことでも有名だった。


 狩りを楽しむように残忍な殺し方ばかりを好んだ鮮血のルフスは、ゆえに今なお、歴代の有翼人の中でもっとも忌み嫌われている。


     …


『君に出会えて、僕らは本当に幸運だったよ!』


 だからこそ、自分を抱きしめて感謝するニンゲンの言葉にサンディークスは困惑した。


『………っ』


 サンディークスはなす統べなく立ち尽くし、木偶の坊のように、ただ大人しく抱きしめられていることしかできなかった。


『これからも、カヌスをよろしく頼むよ。』


 立ち去り際、カヌスの父親はそう言って深く一礼した。そして何度も振り返っては大きく手を振った。


『………』


 そんな親子を、ただ呆然と見送るサンディークスの頬は、止めどなく流れる涙で濡れていた。


 あの涙の暖かさを、サンディークスは未だに忘れることができないでいる。


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