ぬいぐるみ
うちのぬいぐるみは、おかしい。
私の部屋には、ぬいぐるみが一つだけある。白いウサギの形をした、丸い小さな黒い目にピンク色の丸い頬という普通の愛らしいぬいぐるみである。
どうして、いつからそのぬいぐるみが部屋にあったのか、私はよく…いや全く覚えていない。
気付けば、そこにあった。そして私はずっと、違和感を感じていなかったのだ。
このぬいぐるみが、この部屋に在るようになったきっかけ、それはおそらく取るに足らないようなものであり、私はすっかり忘れてしまっているのだろう、と。
そう軽く考え、納得していたのである。
しかし、ある時ふとそのぬいぐるみが目に留まり、一体これはいつから、どのようなきっかけで私の部屋にいるようになったのか…
いったんそう考え始めると、気になって仕方なくなり、またそのぬいぐるみの事を急に薄気味悪く感じる様になったのだ。
捨てようと思った事もあるのだが、ゴミ捨て場へ持って行くために、いざそのぬいぐるみを両手で掴んでみると、そのぬいぐるみはつぶらな黒い瞳で自分に「捨てないでくれ」「一緒にいたい」と訴えてくるのだ。
いや、冷静に考えれば「そう見える」というだけの事なのだが。
バックボーンが不気味ではあれど、姿かたちは愛らしいぬいぐるみなので、ゴミと共に収集車に放り込まれる事を思うと、不憫になるのだった。
――特に実害がある訳で無しに…気にする事でもない。
度々、そう思いなおすのだった。
ある夜、寝ていてあまりの息苦しさに目を覚ますと、目の前にそのぬいぐるみがいて、心臓が飛び出さんばかりに驚いた。
ぬいぐるみは、愛らしい姿を全く変えていない。しかし、酷く禍々しいオーラを放っているのが感じられ、体が凍り付いて動かないのが恐怖のためなのか、金縛りなのか分からなかった。
ぬいぐるみは、白い小さな手を器用に使い、私の首を絞めていた。だから苦しかったのだ。
怖いのだが、閉じる事ができない目をおそらくかなり大きく見開き、何も喋れず体を動かす事もできないまま、ただぬいぐるみを私は見つめるしか無かった。
そのうち視界が渦を巻くようにして歪み、気づくと眠っていたのか気を失っていたのか…とにかく次に目覚めると、部屋の中が薄明るくなっており、カーテンの隙間から陽が射すのが見え、朝である事が分かって少し安堵したのだ。
恐る恐る、普段ぬいぐるみを置いている場所を見ると、そこにはいつも通りちょこんと愛らしい姿のぬいぐるみが控えていた。
私はもう、迷う事無くそのぬいぐるみを捨てる事にした。
がばとすぐに起き上がると、速足で歩み寄り、ぬいぐるみを鷲掴むと、寝間着のまま、髪もボサボサの状態で急いで玄関の扉を開け、ゴミ捨て場へ向かった。
そして、辿り着いたのは近くのコンビニエンスストアである。
今日は生ごみの日ではない事に気づき、申し訳ないと思いつつ、他所のどこかのゴミ箱へ捨てさせてもらう事にしたのだった。
早朝のコンビニは、店員が一人だけ。その店員も、客が他に誰もいないせいか、何やら作業に従事しており、私の事になど気にもとめていない。
私は「燃えるゴミ」の箱に、ぬいぐるみを放り込むと、さっさと店を後にした。
やれやれと安堵しながら帰宅して、ぎょっとなった。あの、捨てたはずのぬいぐるみが、いつもの定位置に、何事も無かったかの様にしてちょこんと座っているのである。
捨てても戻って来る人形、まさかそれが自分の部屋にあったなんて…
それから私の生活は、すっかり荒んだものとなっていった。食欲は無くなり、身なりもどうでも良くなった。仕事への意欲は失われ、知人友人と会う事も億劫になった。
睡眠もじゅうぶんにとれていない。なぜなら深夜必ず目覚めて、自分の首を絞めるぬいぐるみと対面する事になるからだ。
それが恐ろしくて、寝つきも悪くなり、睡眠の質は当然悪くなる。
ぬいぐるみを、何度捨てに行ったか知れない。しかし、その度に必ず戻ってくるのである。
最近は精も根も尽き果てて、捨てに行く気にすらなれずぐったりしている。
ある日、私はそんな状態で目を泳がせていたのだが、ふと机の上にある筆立てに収納された、ハサミが目にとまった。
私は虚ろな目でそれを掴むと、ふらふらと立ち上がりそして、あのぬいぐるみに近寄っていく。
――そうだ、こうすれば良かったのだ。捨てて駄目なら…
手にしたハサミでぬいぐるみの首をちょん切ろうとした、その時
視界が急に渦を巻くようにして歪み、元に戻ったと思いきや
私の目の前には、巨大なハサミがあり、今にも私の二の腕をちょん切ろうとしているのだった。
私は、腹の底から声を出して叫んだ。いや、叫ぼうとしたが声が出ない。そして体も動かないのだ。
巨大なハサミは、私の右の二の腕を挟み込み、勢いをつけて二つの刃を閉じた。
巨大なハサミをもってしても、人の二の腕を一気に切断する事は不可能らしい。
二つの刃が、私の二の腕に圧力をかけている。刃物が肉に食い込み、骨を懸命にへし折ろうとしていた。
私は声にならない悲鳴を、喉をからしてそれでも叫んだ。
二つの刃が合わさり、ジョキンという音をたてて、私の二の腕が切り離される。
かつて私のものであった二の腕が、切れ目から血管のようなものを漂わせながら落下していった。
あまりの光景に呆然としていたのだが、気づけばハサミが今度は私の左腕を挟み込んでいるではないか。
「お願いです、もうやめてください!すみませんでした!」
ようやく私は声を出し、叫ぶ事ができた。視界が真っ暗になり、気付くと私は自室にいる。
右手にハサミを構え、左手でぬいぐるみを鷲掴んでいるのだった。
私はこれ以降、二度とぬいぐるみを傷つけようとしなくなった。
捨てても駄目、切り刻む事もできない…普通に考えて、私の方が力も知性も優勢であるはずなのに、そうではないのだ。
そうやって頭を抱えて愕然としていたある日、長い間目を通していなかったスマートフォンのlineに、友人の一人から強く様子を知りたがっている風な連絡がある事に気づいた。
信じてもらえないだろうが、と思いつつも正直に伝えると、なるべくすぐに会いたい、と返信が来て、友人は次の日私の家まで来てくれたのである。
家に来た友人は、おそらくすっかり変わり果てているであろう、私の様子を見ても全く驚く様子が無い。むしろ、さもありなんと言わんばかりである。
友人がせっかく訪ねて来てくれたというのに、私には茶を出す気力も無かった。もちろん、友人にはそれを咎める様子も無いのだが。
しばらくの間、互いに何も喋らずただ対面していたのだが、やがて友人は絞り出す様にして重い口を開き始める。
「もう、分かっているのでしょう?そいつが原因だ、って…」
友人は言いながら、視線を下へ向けている。しかしその意識は、隅に佇むぬいぐるみに向かっている事が分かった。
「私が数か月前にあんたん家来た時、私の様子変じゃなかった?今のあんたと、よく似ていたと思うんだけど。」
友人にそう問われたのだが、私の方は全く思い出せなかった。そのそも友人が我が家に来た事すら、記憶に無い。
「そうだっけ…?」
「私、その時に…ここにそのぬいぐるみを置いて、あんたに押し付けて帰ったの。」
友人は、きまり悪そうにそう言うのだが、私は疲労のためか頭がぼんやりしていて、怒りが湧かず、変わらずぼんやりと話を聞いていた。
「だから…私の言いたい事、分かるよね?あれ、誰でも良いからどっか他所の家に置いて、押し付けなきゃ離れてくれないんだよ…」
友人はその後「ごめん…ごめん…」と謝りながら、帰って行った。
私一人だけになった部屋で、一人しばらく静かに座っていた。いつの間にか夕方になっていた様で、夕陽の差し込む部屋はオレンジ色に染まっている。
力が抜けたようにぐったりと、床に敷いたカーペットの上にへたり込んだ。長らく掃除をしていないカーペットの上は、埃っぽくベタベタとしているのだが、気にならない。
そうしていながらも、私は頭上に痛いほどの視線を感じていた。棚の上に佇む、ぬいぐるみの…
今夜もまた、このぬいぐるみに締められるという悪夢にうなされるのだ。
そう考えると、恐怖を感じ、胃袋に重い物がずっしりと詰まっている様な心地になるのだが、さりとて何か対策を考えようとする気力すら、既に削がれている。
しばらくそうしていたのだが、やがてむくりと起き上がり、そして次の瞬間には自分のやるべき事のために動き始めていた。
まるで、何かにとり浸かれている様な、そんな心地であった事を覚えている。
その後の記憶は曖昧で、いまいち実感が無いのである。
それからは、あの悪夢にうなされる事は無くなり、体調や気力もすぐに元通りになった。そして今では、何事も無かったかの様に生活している。
そしてそろそろ、告げに行かねばならないという気がしている。
不幸のぬいぐるみを押し付けた相手に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます