第10話 格差双子
「この!待て!お前はこっちだっての!」
少年は走っていた。今日は近くの牧場でお手伝いをしている。
脱走した羊を追って、彼は草原を駆けまわっている。
「にゅーるぅぅぅ。マジ、ニュールって感じだなぁ。」
「ダッサ。まだ追いかけてたんだぁ。御父上が悲しまれるわよー」
農奴と呼ばれる階級の人間たちが、少年を嘲笑う。
ユグドラシル家の人間だとしても、関係ない。
アレはそう扱っても問題ない人間なのだ。
「俺の足が遅いだけだってのー。お父様と俺は全然違うから―。って、待て!はー、やっと捕まえたーって‼俺を引き摺るなぁ」
漸く捕まえた羊を宥めながら、彼は柵まで歩いていく。
すると、農場主が彼に白い眼を向けた。
「全く。本当に使えん奴じゃな。もう十一歳じゃろ?ワシの九歳の孫の方が早く走れるわい。今日の働きはこの程度じゃ。」
「パンくず……。あ、有難うございます!」
育ち盛りの彼の胃袋を殆ど埋めてくれない程度のパンくずを、彼は両手で受け止めた。
すると、先の罵声の主が彼の背中を押して、そのパンくずが泥の中に落ちた。
「おっと、悪いなぁ。でも、どんくさいお前にはお似合いだよ。」
「ばっちい。それ、糞とかも混ざってるわよ。」
確かにそれくらい入っている泥だろう。
臭いからして、そのままかもしれない。
「いやいや、大丈夫。俺にとっては大事な栄養源だ。今日はありがとうございました。」
この言葉を少年は明るい笑顔で言う。
その笑顔に牧場主と農奴たちは顔を引き攣らせた。
でも、少年は本当に嬉しそうに、大事そうにソレを両手に収めて歩いていく。
「マジ……。頭おかしいの?」
「かもなー。でも、それがお国が決めたことなんすよね、旦那。」
「あぁ。アイツは最底辺の人間だからな。」
後ろから何を言われても、彼には関係ない。
彼には待っている家族が居る。可愛い妹がいる。
「あー。思ったより時間が経っちゃったなぁ」
だから、日が暮れる前に頑張って走る。
彼の足は非常に遅い上、体力だって一般人より劣る。
でも、ちゃんと門限までに帰らないといけない。流石にそれだけは絶対順守である。
「マジでギリギリだな。牧場主のフランツさんって案外凄い人なのかも!」
これも法律で決められているから、守れなかったらフランツが罰せられる。
だから、ギリギリまでこきを使ったフランツを褒めるべきか、ニュールが何も考えていないだけなのか。
答えは勿論、後者である。
「セーフ‼」
ただ、残念ながら、その考えなし故に彼は今晩の食事を奪われてしまう。
「あ!それ!」
遅い足で通り抜けようとした時に、門兵の一人が手刀で彼の手から泥まみれのパンくずを落としてしまった。
「汚物を持ち込まれては困る。ここはユグドラシル家だぞ。」
「うー。それもそうでした。ご迷惑をおかけしました‼……確かに俺の家に汚物は不味いよな。反省だ。反省。今度からは気を付けよう。」
そしてその時、馬のいななきが彼の頭上から聞こえた。
だから、ニュールは咄嗟に後ろに下がって、腰から九十度曲げて、頭を下げた。
「危うく遅れそうになった。オミニス、急ぎなさい。」
「はい。分かっております。」
その声が頭上に気負えて、三人の足音が遠ざかっていく。
そして、その音が消えたのと、門兵が正面に向き直ったのを確認して、少年も庭園に足を踏み入れた。
「ここまで来ればセーフだな。聖女様はお着替えをされるだろうし。それに俺は飯抜きだから、座っているだけでいいし。」
◇
ユグドラシル親娘は貴族の社交場に出席していた。
高貴な者同士の触れ合いは若いうちから経験するべき。
父ネビラスと母アルケネだって、最初の出会いは社交場だった。
「オミニス様。良き出会いはありましたか?」
「そうですね。オルディン候と初めて話しました。彼の武勇伝は有名ですし。お父様とも——」
「オミニス様。そういう意味でお聞きしたのではありませんが?」
「そ、そうですよね!パートナーとして、という意味でした。ですが、まだ私にはよく分かりません。人数も多くて、お、覚えきれないし……」
「確かにその通りですね。オミニス様に釣り合う方はなかなかいらっしゃらないです。ですが——」
「分かっています!ちゃんと選びますから。……それが聖女たる私の使命です。」
そして少女は夕食用の煌びやかな服装に着替えて、例の長方形の大部屋へと向かう。
すると、そこには何も置いていない木箱の前で正座している少年が居た。
三年前はこの部屋に併せて長方形の机が置かれていた。
でも、今は正方形の一家団欒用に調達した高級なテーブルが手前側に置かれているだけ。
だから、あちらの少年が良く見える。オミニスは顔を顰めてテーブルについた。
「さて、今日は出かけていたから、私たちが作った訳ではないけれど、国内でも最高のシェフに作らせたのよ。ちゃんとお祈りしてから食べなさい。」
父と母は気にならないかもしれないが、と少女は祈りを始める前に更に顔を顰めた。
彼女の席からはアレがハッキリと見えてしまうのだ。
「お父様、お母様。アレは何をやっているのです?」
「オミニス、見てはいけない。」
「見てはいけないわよ。」
だが、少女は聖女にあるまじき溜め息を吐いた。
いや、その溜め息すら立派な
ただの溜め息なのに、空気中をキラキラとした何かが漂う。
「不愉快です。聖女らしき行動ならば、下賤なるものに施しを与えるべきです。使用人の残しものや馬に与える何かでも残っていないのですか?」
「オミニス。貴女……」
「死なれては困るのでしょう?飢えている奴隷を救えなくて、何が聖女ですか。」
「確かにそれはその通りだな。死なれては困る。誰か。この屋敷にあるもっとも傷んだ何かをアレに持っていきなさい。」
「畏まりました。探して参ります。」
父ネビラスの侍従が一礼をして何かを探しに行った。
その言葉はアレには聞こえない。
力を持たぬもの、
その間はお祈りはしない。
そして、暫く経った後、野菜の端切れや得体の知れない固形物が侍従ゴードンが持ってきた。
ただ、彼が直接アレに届けようとしたので、少女は声を張り上げた。
「お父様、お母様。私は聖女として、と申したのですが。いずれは国民を導くのです。下賤な者に施しを与える機会もあります。……良き機会ですので、私にやらせてください。」
すると、その声が聞こえたのか少年の肩が跳ね上がった。
そして、そのまま彼は姿勢を変え、土下座に近い姿になった。
そこにピンと伸びた背筋の少女が歩いていく。
彼女の顔はウジ虫でも見るかのように歪んでいる。
「これを食べなさい。」
「も、勿体のう御座います。」
「いいから食べなさい。奴隷を粗末にしたと私が嘲笑されるのですよ。これは命令です。」
相変わらず、オミニスの顔はしかめっ面だった。
しかも、彼女から出ているよく分からない雰囲気に、少年は押しつぶされそうだった。
だから、少年は土下座から更に頭を深く地面にこすり付けてこう言った。
「有難き幸せです。聖女様、なんと寛大な……」
「不愉快です。さぁ、お父様。お母様。食事に戻りましょう。」
そして少女はいつものポジションに戻り、席に座ってお祈りを捧げた。
兄が食べ物にがっつく姿を見つめながら。
「ごちそうさまでした。」
この合図は変わらない。
ただ、少しばかりルールの変更が三年の間にあった。
少年は彼の三人の家族の姿が消えるまではそこから動くことが許されない。
だから、今は正座のままでずっと待っている。
走ったりなどしないから、その時間にも以前なら足が痺れていただろうが、同じような生活をずっと続けているので、流石に足のしびれはどうにか慣れた。
そして、家族の姿が消えたのを確認して、少年はポツリと言った。
「オミニス様、元気そうで何より。お父様もお母様も変わらず元気で良かった。」
彼は本当にうれしそうに笑ったのだ。
「さ。明日も早いから俺も水浴びして寝るかな。」
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